戦略的思考を超えて[3-1]

再び結び合うものとしての「幸福(エウダイモーニア)」荒木勝(岡山大学教授)

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– アリストテレスと現代 –

 この研究会(アリストテレスと現代研究会、通称アリ研)も、はじめてから3年ほどがたちます。何度か講義や勉強会を行ってきましたが、私としては毎回が驚きの連続だったというのが率直な気持です。
 欧米諸国では、社会で指導的立場にある人たちは、プラトンやアリストテレスの基本的な著作は読んでいて、だいたいの知識はもっている。また、専門家ではない一般の人々のなかにも、ギリシャ哲学に対する関心をもち、基礎的素養を備えている人々は多い。
 しかし、日本においては、これまでにお話したように翻訳文のとっつきにくさなど諸々の事情があることはあるのですが、ほとんどといっていいほど、その哲学になじみがない。とくにアリストテレスはそうです。
 だから何が驚きだったかというと、このアリ研、そしてアリ研の個々のメンバーを通じて伝わってくる自分自身や社会に対する問題意識がじつに切実なものであり、しかもアリストテレスが言わんとしていた哲学的思考と根本のところでつながっている。そういう思いが回を追うごとに強まり、大袈裟ですがある種の衝撃さえ感じるのです。
 世間知らずでとおっている私ですが(苦笑)、じつは現在、私の所属している大学で、企業でいうところの管理職めいたことをやっていて、「学問」研究とはまた別次元の忙しない状況がつづいています。本音をいうとひとりでどこかにひきこもりたい(笑)気持でいっぱいなのですが、そうもいかないし、逆にいうと社会の情勢がかなり具体的に”身にしみて”わかってくる面があります。この管理職のあいまに、その悩みとこういう会やメールでやりとりされる問題がリンクして、みなさんの問題提起にどう応えたらいいのかということを、いつもどこにいても、考えざるをえないはめに陥っているというのが実情なのです。
 さて、きょうは「幸福論」がテーマです。勉強会のための合宿とは別に、これまで2回講演という形で話をしてきましたが、メンバーの人からの提案もあり、ひとつの締めくくりとして今回は幸福とは何かといったことを主題に話してみたいと思います。
 先に結論めいたことを言いますと、この講演の準備をしている過程でだんだん自分の考えもふくらみ発展してきまして、結局のところ幸福というのは「宗教」の問題と深く関わってくるものであるとの思いが強くなりました。ただ急いで付け加えますが、この場合の宗教とは、なにか具体的な教団、たとえばかつてのオウム真理教の社会的問題とかをここでまた取り上げるということではなくて、もっと広く一般的な意味での「宗教性」あるいは「聖なる次元」といった範疇でこの言葉を使いますので、その旨をご了解いただきたい。
 まず大きく言って、いまなぜ幸福論が問題となるのかというあたりから簡単に話していきたいと思います。
 日本の社会に欧米流の経営方式がはいってきて、また、いわゆるグローバル資本主義・市場経済に席捲される世の中になって、もう十年以上がたちます。勝ち組・負け組などという言葉が流行り、あれよあれよという間に、格差社会などといわれるようになった。閉塞感といった言葉も同様です。いつの時代でも社会はさまざまな問題を抱えているわけですが、このような言葉は、たしかにこれまで一般ではあまり使われることはなかった。
 ただ言葉として使われることが多くなったというだけでなく、じっさいに、日本の社会はこの十数年くらいの間に、じつに大きな問題を抱えるようになったということを私も実感しております。しかも、過去に類例をみない、今後の予測もできないような問題や課題が日々表面化しているようにも感じます。
 人口1億2千万、成熟して豊かになったというこの国で、毎年3万人もの人が自殺に追い込まれている。交通事故死よりも多いし、自殺者のなかには、働き盛りの人が多くの数をしめている。端的にいって、問題解決の糸口を見出すことができず、あるいは問題の元になる責任の所在さえ明確にできずに、絶望の淵に追いやられた結果の死が増えているのです。
 「自分で死ぬのが悪い、自己責任だ」といって済ませられることではないはずです。こういう社会でなければ防ぐことのできた自殺は、想像以上に多いのではないでしょうか。
 
 以前に、このアリ研メンバーになった友人とも深刻に議論したことがあります。その友人は中小企業の経営者を相手に、さまざまな相談に応じ、解決策をいっしょになって考えるコンサルタントのお仕事をしている人です。
 いろいろな話題が出て同感することが多かったのですが、そのなかでもとくに、日本の銀行は怠慢であるということでは、まったく意見が一致しました。まともに相手を調査せずに担保だけとって、あとは知らん顔をきめこむ「左ウチワ」の金融機関は許し難いということです。
 そればかりではなく、ひじょうに大きな、たとえば一方に莫大な収益をあげている巨大企業があって、他方には小さな町工場や商店のような零細企業がある。その零細な企業に、まったくもって理不尽な要求をつきつけてくる大会社があるわけです。かなり単純化していっていますが、そういう状況のなかで誠実に汗水たらして働いたあげく、自ら命を絶つ人があとをたたない。
 私自身も管理職になってみて、その辛さを日々しみじみと味わっている現状があるので、企業の管理職の立場にある人の苦悩はある程度推測がつきます。たとえばある会社の部長が理不尽とわかってはいても、部下に会社の命令を指示しなければならないという状況はよくあります。部下である相手がどんなに弱い立場にある場合でも、「やれ!」という命令をしなければならず、なんとも嫌な気分になるわけです。”上”からの命令は、管理職だろうがその部下だろうが、いわれたらやらざるをえない。まじめな人ほど心の葛藤にさいなまれ、しかも報われることが少ない。
 その結果、日本の社会のなかに「鬱病」が蔓延している状況が生じている。
 こういう企業社会における鬱病は、日本だけではなくアメリカなどにも相当に広がっているようです。鬱から自殺にいたる現象が、大きな波のようにアメリカの社会を襲っているのです。
 そういうなかで、日本でも対処療法的に鬱病やそれにまつわる自殺を防ごうという社会の自己防衛がはじまっている。自殺防止法が制定されたり、NPOなどが自殺を未然に防ぐための活動を行うようになった。精神医学界にも、さまざまな対応策が問われている。

– 「美しさ」と差別 –

 別の似たような社会現象として「いじめ」の問題はどうでしょう。こどもたちの自殺も増えている。これもその原因をひとつのことだけに限定できない、複雑な要因がもつれあって起こることですが、些細なことながら私が最近とくに気になっていることからアプローチしてみましょう。
 それは大学の学生たちと話をしていて気づいたことなのですが、いじめというか差別の問題としての「美醜」といったことなのです。人が美醜のことを気にするのはあたりまえのことです。誰だって自分の”見た目”が醜いよりは美しいと言われたい。しかし、ことに若い人たちにとっては、自分が美しいか醜いかが、いまきわめて切実な関心事となっている。他人が自分をどのように見るかは誰だって気になることですが、醜いといわれることが劣等感の範囲にとどまっているならまだしも、差別やいじめにつながるから美しくなりたいという一種の強迫観念と化しているような気がする。しかも、その「美しさ」は皆と同じ美しさでなければならないような均一的な表面のみの美しさなわけです。なにが真の美しさかという観点は、まったく抜け落ちている。
 そこに企業が目をつける。先日もテレビで報道されていましたが、「美の世界の争奪戦」というようなタイトルで、日本の大手化粧品会社が中国や東南アジアという巨大マーケットに進出し、「美」の市場が急成長を遂げている。お金さえ出せば、誰でも簡単に美しくなれるというわけです。グローバル資本主義の流れといってしまえばそれまでですが、それは結局のところ、そこに群がっていくわれわれ人間の問題としてとらえたとき、美醜と幸福の関係、美しくないと幸せの切符を手に入れることができないのではないかという不安に関わってくる。
 
 些細なことといいましたが、これは考えてみると人間存在の根源的な部分に、ひじょうに深く関わってくる重要な問題です。ご承知だと思いますが、仏教には阿弥陀仏の48願というのがある。法蔵菩薩が仏になるために48の願をかけるのだけど、そのひとつに、この世の中に生きているありとあらゆる人から醜さがなくなるようにという祈願がある。それが叶ったときにこそ、悟りを得て仏になることができる—-。そういう話ですが、人類にとっては大昔から美醜をめぐる問題が人間の幸福にとって大きな要素になっているのがよくわかると思います。
 日本やアジアばかりでなく、もちろん古くからヨーロッパでもそうでして、現代のわれわれが見ることのできるギリシャ的彫刻の美の裏に、美しくないとされていた人たちの悩みが隠されている。そういう人々はなにかにつけ発言権を奪われていたり、差別されたりで、「生きにくさ」という問題にかかわってくる。じっさい、美しい(とされる)人は貴族的な処遇を受け、身分を保障されるなどの実情があったし、現にいまでも似たようなことはあるわけです。つまり、そういう美醜をめぐる問題が幸、不幸を分ける大きな要因になるだろうということが一方ではたしかに考えられるのです。
 ですから、いま私たちが直面している幸、不幸の諸相は、ある意味で現代特有の問題でもあるけど、人類はじまって以来の基本問題に立ち返ってみることで、ある程度の整理と理解ができるのではないかとも感じています。幸福とは何かということがひじょうに見えづらい時代に、大昔にアリストテレスの考えたことが、私たちの生き方になんらかのヒントをあたえてくれるのではないか。そんな期待もこめて、こうやってお話をさせてもらっているわけです。

– スピリチュアルなものと倫理 –

 現代にかぎらず、不幸な時代には、不幸な状態から抜け出して幸福になりたいという人たちのなかに「癒し」とかスピリチュアルなものに憧れるという傾向が強まります。つまり、いうまでもなく幸福には貧富や美醜の問題など物質的・肉体的な面が大きく影響しますが、しかし、その物質面での「豊かさ」と心の平安とは必ずしも一致しない。幸福にはその両面が欠かせない。
 たとえば仏教にも幸福の反対の苦しみ、不幸な状態からの脱却を仏の救いにもとめ、悟りの境地にいたることができれば幸福になることができるという考え方がある。
 また、キリスト教では「心の貧しき者に幸あれ」という言葉がマタイ伝などに見られるように、人々に幸福をあたえるのが本当の宗教であるという呼びかけがある。だから世の中の不幸が拡大すればするほど、当然のように幸福をあたえると呼びかける宗教に多くの人が頼るようになってきます。だから、そのことの是非は別にしても、やはり幸福論はどこかで宗教的な救いといった問題と深く関わってくるといえるだろうと思うのです。
 また、近代社会では科学という単語だって、宗教と同義につかわれる場合がある。科学も、人間を幸福に導くマジカルな救いをもたらすものとして、現代人の願望が投影されることが多いんですね。
 そんなことをなんとはなしに考えていたら、ある日、偶然に映画『天国と地獄』をリメイクしたTVドラマを見たんです。これは幸福論を考える意味でもとってもおもしろかったのですが、黒澤明の本編を思い出すと同時に、あわててエド・マクベインの原作『キングの身代金』も読んでみました。
 この作品と幸福論にどんな関係があるのか。それは、簡単にいうと、いついかなる災難がわれわれに降りかかってくるか予想はできない。偶然に左右される人間の生活のなかで、ある日突然、思いもしなかった事態が起き、未来の明暗をわける重要な岐路に立たされたとき、どっちをとるかは誰しも”自分の問題”として考えざるをえないということなのです。
 『天国と地獄』では、ある裕福な会社社長の息子が誘拐されたという事件が発端になるのだけど、それがじつは社長の子ではなく、その社長のおかかえ運転手の息子だったということが明らかになる。それでその子どもの命と引き替えに身代金が要求されるのですが、社長は自分が社運をかけ苦労して得たカネを、雇い人である運転手とその息子のためにはたいてしまうことができるか。自分の幸福を犠牲にして、他者のためにつくせるかといった究極的な問いが、そこに問われているわけです。
 そのとき私が思ったのは、幸福とか不幸とかにむすびつく問題を考えたときに、たとえばお釈迦さんとかキリストに”すべて”をゆだねて、救いのために自己判断を放棄してしまうというかたちで、私たちの生活を処理していいのかということです。いかなる事態になった場合でもなにをどういうふうに選択していったらよいかという人間自身のある種倫理的な問題として、幸福の問題を考えていく必要があるのではないかと痛感しました。
 まあ、このようなことは改めて言うまでもないことではあるのですが、ひとつの問題の立て方として、確認の意味で述べておきたいところです。みんな誰だって幸福になりたい。しかし、いや、だからといったほうがよいか、神仏にすがるということだけですぐさま幸福が到来するわけじゃない。
 幸福になるために、人間のもっているあらゆる力を行使して”自分で”選択していくにはどうすればよいかを考えていくということが、まずは重要な幸福論の切り口だと思います。
[3-2]へ続く


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