戦略的思考を超えて[1-2]

ストラテジックな人間からプルーデントな人間へ荒木勝(岡山大学教授)
– 「東北学」と「贈与」という問題提起 –

 それから、戦略的思考を再検討しなければならないと思ったことには、もうひとつ別の方向があります。これもまたアリ研のメーリングリストにのぼったテーマですが、別の会員が参考情報として、あるホームページを見るように示唆してくれました。何かというと、ある代議士が、国土の開発問題を考え直さなければいけないという提言を本人のホームページでしているのですけれども、それと関連しながらアメリカのイラク戦争の戦略の誤りだとか、それ以外にいろいろなことを指摘している。要するにアメリカに追随しない日本的なあり方を模索しなきゃいけないという話なのです。そのなかで彼が、自分としては中沢新一の「東北学」に注目していると述べていたのです。
 「東北学」には前から私にも大きな関心がありまして、中沢新一の本を改めて開いてみました。その代議士のテーマからは少しはずれるかもしれないけど、何冊か読んでいくうちに、とくに中沢氏が力説しているある概念を中心に考えてみたくなりました。それは「贈与」という問題なのです。単純化していうと、要するに、これまで資本主義は贈与の問題を見落としていた。ところが実体経済の流れのどれひとつをとってみても、自然の無償の贈与(純粋な贈与)という側面を抜きに経済的な行為なんて成り立たない。近代ヨーロッパの哲学は、とくにマルクス主義をはじめとする経済学は、贈与という問題を無視してしまっているのではないか、と。
 みなさんのなかには中沢氏の『愛と経済のロゴス』などを読まれた方もいるかもしれませんけど、わかりやすい例でいいますと、たとえばクリスマスになるとジングルベルの音が聞こえてくる。なぜジングルベルの音が聞こえてくるかというと、要するにクリスマスのときは欧米では「愛」を交換するわけです。日本でもクリスマスは若者たちが愛を交換する場となっている。手っ取り早く愛を高め合おうということでみんな贈り物を買うだろうと(笑)。そうすると経済が活性するわけですね。その活性化した経済力のうえで商品交換というものが行われていくということになるだろう。ということは、経済を本当に動かすのは愛の動きじゃないか、というのが中沢氏のロジックです(中沢氏の分析はレヴィ=ストロースのクリスマスに関する論文がもとになっていますが、ここでは本論からはずれるので、くわしくは触れません)。
 どうして人々に愛の衝動が高まってくるのかというと、それは結局のところ、相手を喜ばせたいという贈与の気持ちが働くからだというわけです。本来的に、人間そのもののなかに贈与したいという欲求があるからなんだ、と。もっと根源的にいったら、それはもう、自然あるいは宇宙そのものが人間に対して贈与を行っているということを、人間自身がインスピレーションによって知っている。そのうえで、お互いに贈与し合おうということになって、それが経済の活力になるのだと。これが中沢氏の端的な問題提起なわけです。
 それで彼にいわせれば、そういう自然が持つ根源的な贈与力、そしてそれを直感的に人間が知ったうえで出てくる人間自身の内発的な贈与力というものを、最も文学的に結実したものとして宮沢賢治があるという話にもなってくる。少し飛躍しますが、私にとっても宮沢賢治は重要な存在ですし、この問題をさらに突き詰めて考えていかないといけないということになるんです。そういう意味では中沢新一の思想的展開というのは、それはそれで言論界を突き動かしていく大きな起動力になっているわけで、そういう意味でいうと戦略的な思考に対するひとつの有力な”対抗”としてとらえておく必要がある。私の今回の報告は、自動車会社の社長の発言と、最近の中沢新一氏が提起している現代社会の根本的な問題を、アリストテレスとどのように切り結んで考えていくかというのが、重要な出発点になっていることが、おわかりになっていただけると思います。
 教育基本法だとか憲法の改正問題も根っこのところではいまいった問題とどこかで関連してくると思いますが、きょうは時間が足りませんので省かせていただきます。

– 戦略的思考とアリストテレス正義論 –

 では、日本のこれまでの伝統的な思考は、いま提起された問題に対してどういうふうに答えるのか。これ自体なかなかむずかしい問題であって—-中沢氏と同様、僕と同年輩の佐伯啓思は、伝統的なエートス論という形で考えていかなければならないと指摘していますが(『倫理としてのナショナリズム』などを参照のこと)—-たとえば中沢氏の問題提起からすれば、東北学という視角は純粋に日本だけの問題にとどまらないわけです。彼によれば、東北学はずっとアリューシャン列島からアジア全体、アメリカ大陸を覆うような環太平洋的な大きな広がりを持つといういい方もしています。
 また正義論においては、これは日本だけで通用するような正義論では、まったくお話にならないわけです。いまいった一企業内部のことだけじゃなくて、世界的な企業になってきた日本企業が正義論を掲げたときに、日本国内だけの正義論であっては意味がない。世界に通用するような正義論でければならない。そういう意味では、日本的な「伝統」への回帰、日本古来のエートスへの回帰ということだけで片付くのかという問題です。これは「靖国問題」もそうですし、日本が直面するありとあらゆる問題が、普遍的な関連を持った形で提起されていかないとけっして解決されないだろうという意味で、じつは伝統的思考そのものにも大きな壁があるといいますか、問題を抱えているんじゃないかなというようなことを感じています。
 一方で、戦略的な思考を中心として構築されてきた経営学、経営的思考自身もまた、大きな壁と根源的な問題にぶつかっています。みなさんも読まれたことがあると思いますけど野中郁次郎の『戦略の本質』という有名な本があって、現代の企業戦略論のひとつの支柱になっているわけですけれども、その本を読みますと、じつは戦略論も根源的なところで正義論とぶつかってくることになります。なぜかというと、『戦争論』でクラウゼビッツという人もいっていますが、要するに「戦争」においては、どちらかが勝つか負けるかという話になるわけです。相手があるわけですから、相手をどういうふうに自分のほうへ取り込むかとか説得するかということを抜きに戦争は組み立てられない。その点では、「戦略」も同様です。
 なぜなら、もし戦略的思考を徹底して追求していくと、それはもう、相手を絶滅させることしかなくなるわけです。勝つか負けるかで決着をつけようとしたらね。だから、ジェノサイド(大量虐殺)みたいな悲惨なことも起こってくる。しかし、なんとしてでもそうならないように事態を収めなきゃいけない。そうすると相手、つまり「他者」というものをどう理解し、共存するかということが、根本的かつ最も重大な問題になってくる。だからこそ実践面で、戦略論のあり方自体を根源的に見直していく必要が出てくる。それでクラウゼビッツは、結局戦争というのは政治の延長線上だというわけです。だから、クラウゼビッツ以後の戦略論を野中氏はずっと研究、追求していって、最後に行き着いたのは何かといったら、なんとアリストテレスの『ニコマコス倫理学』を読め、となるんです!
 プルーデンスという単語にはいろんな訳し方がある。「賢慮」それから「慎慮」、あるいは「知慮」「智慮」とか。だから、訳し方によっていくつかの異なった「prudence」の理解の仕方がありえます。「慎慮」というのは「慎む・慮る」でしょう。それから「賢慮」は「賢く」、「知慮」は「知」でしょう。「慎慮」というのは慎んで他に迷惑にならないように慮るということですね。「賢慮」は「賢く」だから、もうちょっと知性がはいってくるんだけれども、ただその知性の入り方が現実的な賢さというか、まあ「小賢しさ」にも通じるところもあるわけです。だから、私がなぜこの「知慮」というのにこだわるかというと、これは現実に対して賢く振る舞うというだけでなく、それよりももっと、日本的にいえば「天地神明に恥じず」というか、そういう意味がこの「知慮」には含まれているからです。ですから、現実面で人間が実利的に賢く振る舞うというだけではない、天を見ながら自分自身をコントロールしていくという、そういう意味を私は「知慮」に含ませておきたい。
 なにをいいたいかというと、じつは戦略的思考自身も究極的なところでは、やっぱり、この「賢慮」「知慮」の問題に触れていかざるをえないということなんですが、これまでは、特に現実的な実業の世界、実生活のレベルではほとんど知慮とは何かについて深い考察がなされてこなかった。ところが、この知慮についてもっとも深い考察を加えている人が、じつはアリストテレスなのです。アリストテレスにおける知慮論については、次回にもっと突っ込んだ話をしたいと思いますが、ここでは、知慮とか賢慮の根本的な柱になるのは、じつは正義という概念なのだという指摘をしておきたい。アリストテレスにおいては、共同生活をしている人間が身につけるべき徳として、勇気、節制、正義、知慮の四つが挙げられていますが、そのなかで正義の徳と知慮の徳とはもっとも深い関係を持つものとされています。どちらの徳も、家や会社や国家に幸福をもたらすものとされているからです。たとえば、ギリシャのアテナイに民主主義的な正義の政治を実現しようとしたペリクレスは、もっとも知慮ある人物であるといわれているように。ですからきょうは、「正義とは何か」ということに絞ってお話をつづけます。

– 一に止まるのが「正」 –

 正義とは何か。日本の社会では正義という概念自体が、明確な正しい理解のうえで使われているのかどうかということを、まず問題にしなければならない。それはしかし、ある意味で、たとえばいまいった企業の経営者などにとっては非常に酷な話かもしれません。そもそも日本で、正義とは何かということをきっちり教えている大学などないわけですから(苦笑)。
 わかりやすい言葉の例からはいってみましょう。日本で暮らす私たちは普通に「正義」という言葉、文字を使いますけれども、これはもちろん、もともとは中国にあった言葉ですね。ところが、中国にあった孟子正義だとか論語正義だとかというように使われる正義というのは「筋道」という意味なんです。特にこの「義」の意味は、感覚的にいえば「筋」とか「道」とかを指していて、日本語でいま私たちが使う正義とはちょっと違います。しかし、みなさんもよく使われていると思いますが、白川静の『字通』なんかを見ますと、「義」という文字は、「我」の上に「羊」と書く。つまり、この「義」というのは白川氏の説によると我(私)が羊を捧げるということになります。要するに「義」というのは天に対して羊として象徴した何かを犠牲にするという意味があるということなんです。ですから、天に対する自分との関係のことをいっているのが「義」なんだ、と。音読みでこれと同じ「宜」というのもあり、これはアリストテレスの「エピエイケイア」にあたる重要な概念ですが、ここでは置いておきましょう。
 それから「正」。この「正」という字は「一」の下に「止まる」と書きますね。また「正」には、「征服」の「征」の意味がもとにあったという音韻的な漢字理解というのがあって、これは征服者がもたらした秩序だという考え方ですが、この一に止まる「正」というのはどういうことかというと、要するに「秤で均衡をとる」という意味なんです。それでじっさいのてんびん秤の平衡棒のように、水平に「一」に「止まる」と書く。バランスをとるという考え方です。これに似た考え方が幸田露伴の『連環記』のなかに出てきます。「世法は慈仁のみでは成立たぬ。仁の向こう側といっては少しおかしいが、義というものが立てられていて、義は利の和なり」とある。正義とは、個々人の利害の調整という考え方ですね。
 まあ、もともとそういう考え方があったとしても、「正義」という言葉を日常生活のなかで私たちが口に出すと、なんとなくしゃちほこばって構えてしまう。だから、普通はあまり使わない。論文とか何か公式の文書であるとか以外に、表立って「お前は正義に反する」なんていったらえらいことになってしまう。そういう感じが一般には残っているわけですよ。だから「正義」という言葉を誰かが口にしたとたん、なんとなく居心地が悪くなってしまう。やはりそこに、日本では、正義とは何かということがきちっと定義され、体系付けられて使われてこなかったことの問題があるんだと思います。
[1-3]へ続く


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