しかし、たとえばヨーロッパ社会の文脈において正義とは何かといったら、大学へ行ってある程度の教養を備えている人たちのあいだでは、だいたいのところで共通した理解があります。もっとも有名なところでいうと、「各人に各人の物を与えんとする継続的永続的意思」という、ユスティニアヌスというローマの皇帝がローマの法学を体系化した際の正義の概念規定がある。英語でいえば「ジャスティスjustice」ですよね。ジャスティスとは何かというと、要するに人間の集団があると、人間は「物」がなければ生活できませんから、集団を構成する人間が物に対してどういうようなやり方で関係を取り結んだらいいのかというふうに問われたときに、各人が各人にふさわしい物を与える、これが正義だということになるんです。
でもこれは、別にヨーロッパに限ったことではなくて、どんな人間社会においても、この意味での正義の感覚抜きには、生活できないだろうという話なんです。わかりやすい例でいったら、お餅を家族で分けるときに、どうやって分けるのかというようなこと。たとえば、家には父親と母親と子供がいたとして、これをみんなに均等に分けるのを正しいとする家があるかもしれない。しかし、お父さんにはたくさん与えて、お母さんは残りの半分、さらに残ったものを子供たちが等分にするという発想が正しいという場合もありますよね。どっちの場合も、なぜそうするのかという客観的な根拠はない。
みなさんもご承知のように、民法では夫が亡くなったとき、妻が遺産の半分を受け取るという決まりがあるわけでしょう。なぜ妻が半分で子供が残りを等分に分けなきゃならないのか、民法学者に訊いてもいろいろな学説があって、その根拠に一義的にはっきりとしたものはないとされています。ただ、人間の長い生活経験のなかで妻に半分やるのがいいというふうに、一般的に合意したということにすぎないんです。でも、合意しないと残された財産を分けることができないわけだから、みんなで話し合いをして物を分けるときに、一致して「こういう分け方をすれば正しいんじゃないか」というふうになったときに出てくるのが「正」という観念なんです。ラテン語に「ユースjus」という言葉があるんですけれども、要するにローマ人たちがローマ人自身の多くの慣行、それからローマ人が征服したヨーロッパ世界全体の人間の風俗習慣を全部総括して考えたときに、家や社会のなかで物を分ける場合は「これだ」いう感覚が生じてきたということ。それがもともとの「正」(ユース)なんです。
しかしその後、だんだんヨーロッパのなかで大きな誤解が生じてきたのです。長い間「正」というのはこういうことでいいんじゃないかというふうになっていたのが、17世紀にホッブスという人が出てきて「とんでもないことだ」といい出した。ホッブスという人は何を考えたかというと、なにか物(モノ)を見て、特別に惚れ込んだ物とか、人間だったらまあ男ないし女(笑)、そんな物ないし人にぞっこん惚れ込んだら全部自分のものにしたいと思うでしょう。そのときに個人とモノとの関係でもっとも大事なことは、自分がそのモノを完全に占有することだと考えたんです。つまり、モノを自分のものとすることによってはじめて自分自身が身体的に保存され、自分の快楽が安定的に満たされることが一番大事なんだ、と。だから正しいか正しくないかということよりも、まず優先するのは、もっとも自分が惚れ込んだモノを自分だけのものにするということです。ホッブスはこれを、人間の「正」のいちばん根源的な出発点だと考えたのです。
でも、これをみんなが主張しだしたら”えらいこと”になるわけですよね。ぞっこん惚れ込んだ物や人が一対一の関係だったらいいんだけれども(笑)、みんなが同時にそのひとつのモノを好きになっちゃったらどうするかという話になってしまうわけです。そこで、そういうことだけではやっぱり人間は生きていけませんよということで、ホッブスは考えた。人とモノとの関係で複数の人間がいがみ合うときに、それぞれこれは自分のものだといえるものがあるわけです。自分のものは自分のものとして確保することがまず前提ですよね。ところがそれをみんなが欲しがったら喧嘩になるから、お互いに自分のものを自分のものとして私的に所有するのを認めましょうよと(苦笑)。そのかわり他人のものには手を出すな、と。他人の物や他人の女に手を出すなということを、まず人間社会が生きていくための原理にしようと主張したんです。
彼にとっては、とにかく個人の欲求の充実、個人の生存の確保が第一、それで第二に他人のモノに手を出さないという契約を結びましょうやということになるわけです。だからホッブスにおける正義とは何かというのは、結局「約束を守る」こと、これが正義なのです。すなわち「正義の本性は有効な信約を守ることにある。The nature of Justice consistent in keeping of valid Covenants」ということです。これ以後、近代社会における正義概念は変わってしまった。つまり、どう分けるのが正しいかということじゃなくて、約束を守るということだけが正義だ、と。それで、この約束が法として存立するわけです。そして、そこにコンプライアンス(法令遵守)という問題が出てきて、コンプライアンスすることが正義だという話につながってくるのです。コンプライアンスを「なぜ」実践しなければならないかは二の次で、コンプライアンスとして、法に従うことが正義だということになるわけです。
だから、物を完全に独占し、どんなに富を所有しても法律体系のなかで許されるとすれば、ものすごい富を資本主義社会のなかで蓄積して私的に所有しても、法律を守っている限りは何をしてもいいということになるわけです。人にとって何が正義かと問われれば、自分や他人の所有への権利を侵害しないように法を守ること。実際に近代社会は法原理の上に成り立っているわけだから、結局ホッブス的な正義観、つまり法遵守こそが正義だという考え方になるのです。
ところが一方で、いくら法に従っていたって「お前それはやり過ぎじゃないか」みたいなことは、しょっちゅうある。「ホリエさんやムラカミさん、あなたたちは法に従っているというけれども、本当にそれでいいのか」とかね。ある銀行の総裁や企業のトップが「法令は遵守しています」といったって、あなたの立場で、そんなことでいいのかという発想を私たちは”自然に”持つものです。それはなぜかというと、じつは法とは別に根源的な正への欲求が、私たちのなかにあるからなのです。何か変だぞ、という気持ちって誰にもあるでしょう。じっさいに逮捕されるかされないかは別にしてもね。ところが近代的法体系のなかでは、法令遵守さえしていれば、それでいいという……。このギャップが、じつのところ私たちを日々突き動かしているのです。それが根っこにあるからこそ、いまの”おかしな”世界のなかで、正義を巡る言説だとかいろいろな行動が出てきているんじゃないかな、という感じがします。
さてそれで、ホッブス、ロックと来て、さすがにヨーロッパ社会のなかでも、ある種の行き詰まり感みたいなものが出てきた。あまり時間がないのでくわしくは論じませんけれども、特にいまから30年ほど前にジョン・ロールズというハーバード大学の法哲学の先生が出てきて、こういうホッブス的な正義概念はやっぱり直そう、あるいはもうちょっと別の正義概念を作らないと駄目なんじゃないかということをいい出した。つまり、ホッブスみたいに法遵守が正義の根幹で、それを守っていればあとは自由だという考え方自体をもうちょっと考え直そうじゃないか、というのがロールズなどの新しい正義論の根本的な発想になっていくわけです。自由を確保したうえでモノをもうちょっと平等に分けましょう、平等とは何かを考えましょう、というほうにスライドするような正義論をロールズは打ち出したわけです。それを巡っていま、ごちゃごちゃとした非常に複雑な問題が、また新たに発生してきている現状があるわけですけれども—-。
繰り返しますが、私的占有や私的所有、それらへの個人の独占を”善し”とし、それらが安定的に保全されるために契約を取り結び、その契約を遵守することが正義だとする正義論と、根源的に人間が持っているだろう「正」の感覚とのずれというものが、昔も今もずっとわれわれ人間を突き動かしている。そういう状況のなかで、それでは反対に、「持たない」ということをもっと徹底的に考えていったほうがいいんじゃないかという人たちも出てくるわけです。要するに「無所有」です。無所有のほうがじつは人間にとって幸福なのではないか、と。直接的に主張してはいないけど、たとえば先に触れた中沢新一などはそういいたいんじゃないか。中沢氏のみならず、彼の叔父さんにあたる網野善彦という有名なすぐれた歴史学者がいましたが、その網野さんなんかもそう考えていたのではないでしょうか。
さっきの餅を例にした「正」にしても、餅を分けるわけですよね。餅を分けて、それぞれの専有物にしたのでは、かえって不自由なのではないか。奥さんが半分取って、残りを子供に等分されたとしても、子供が困ったときに奥さんのものを子供が自由に使えないというのはおかしい。だったらこれをやめて、自由にモノが行き来でき、やり取りできるような共同所有にしておいたほうがいいんじゃないか、と。実際、人間の太古の昔を考えていくと、確かにモノを分けても分けた後にみんなそれを自由に使ったじゃないか、必要な人が必要なだけ取ればいいのであって固定化する必要はないんじゃないか。そうなったときに人間は本当に解放されるんだということが、”もうひとつの”歴史学の、あるいは文化人類学の発想の根源にあるわけです。そういう点からも、所有論はわれわれを突き動かす非常に大きな問題なのです。
たしかに、無所有の世界のほうが良い面もあります。たとえば、昔の日本の村落はふたつの原理によって成り立っていた面があるわけです。つまり、山地・放牧地という入会地と畑というふたつのもの。畑は農民が個別的に分け持つものだけれども、山地のような共同地というのがあって、共同地は公的な所有だというふうに、一応は別にしておきましょうという制度がありました。
しかし本来、公的な所有にも二元性があります。この「公的な所有」というのは、通常ひとつの形として国家が召し上げて、普段は立ち入ってはならぬというふうになっている。ところが、公的な所有にも開放系というのがあるわけで、それはもともと日本のどこの村落も持っているもので、私的な所有を補完するような共同地といっていい。この場合は、公的な所有地といっても、出入り自由にしているわけです。これはこれで、一定のバランスがとれているわけですね。私的な所有があって公的な所有がある。
ところがこれをもっと極限的に押し進めていくと、公私を取っ払っちゃって、全部出入り自由にしてもいいんじゃないかという話にもなってくる。そうなってくると非常に重要になってくるのは、やっぱり、人間における「個」という問題です。自分が働いて得たものを自分のものにしてどうして悪いのかと、ね(笑)。自分が大枚をはたいて買ったものを自分が所有しているんだから、それを共有のものにしていいのか、と。やっぱり、個というものへのこだわりというのは人間のなかになくならないんじゃないか。だったら人間の個へのこだわりというものをちゃんと尊重した形で、みんなが公平に生きていけるような仕組みを作らなければいけないんじゃないか、というふうな考え方も出てくる。こういう方向で徹底的に考えぬいていったのがアリストテレスではないかと思います。それが、現代の「無所有」を顕揚する人たちの共同的なものに対する考え方と、アリストテレス的なものの考え方の根本的な相違点なんだろうと私は思います。
だから、中沢氏や網野氏、その他のすぐれた人たちの考えに私がいつも違和感を覚えるのは、やっぱり、そこに正義というものが正面切って出てこないことです。彼らのなかに出てくる正義というのは国家が全部吸収しちゃっている正義なんだけれども、そうではない、個と個が活きたかたちで存立できるような、ひとつの秩序としての「正」のあり方をきちんと考えていかないと、「持続可能な世界」というものはできないんじゃないか。そいうふうに、アリストテレスは考えていたのではないか。
「個々人のもの」という事柄の重要性を、しっかりと捉え直し、もう一度原点から考え直していかなければならないと思います。私は人間が社会で生きていくためにはどうしても、この個と占有・所有の問題を前提とせざるを得ないだろうと考えているのです。これを否定してしまったら、それこそ原始共産制でありマルクス主義にも繋がっていくような非常に大きな問題を、また逆に、人間はかかえ込むことになってしまうのではないか。だからここは、非常に重要な点です。
アリストテレスによれば、正義というのは共同の利益を考えながら個人と個人がいかにバランスをとるのかという問題なのです。だからちょっと唐突かもしれないけど、私は宮沢賢治がものすごく好きで、改めて読み直しています。たとえば『なめとこ山の熊』なんていうのは、彼の作品のなかで、筆の運び方といい、彼の哲学の最も優れた結晶じゃないかなと思っているのだけど、あれなんかは要するに自然のものは共同のものなわけですよね。山も熊もね。で、そこで主人公の小十郎が熊の皮とか肝をもって「市場」に行くのだけど、その市場というものがものすごく大きな権力を握っていて、小十郎をいじめるんですね。そこに市場社会というものの代表者として高利貸し商人が出てくるわけです。そこは非常に共感するし、よくわかるんだけれども、しかし市場を高利貸し商人に代表させていいのかという問題もじつはあるわけです。やっぱり、市場というものが持つ一種の正義機能というものが存在します。ですから、まさに市場原理が成り立つための私的所有の側面と、共同的な面とのバランスをどうとるのかということが正義論の根幹になるだろうと考えています。
[1-4]へ続く