アリストテレスのなかでは、贈与(無所有)と所有が同じだけの比重をもった問題として登場してくるのです。これが非常に大切な点だろうと思います。友愛的な原理によるモノの共有を「無所有」のモーメント、自己愛的な原理による私的な占有を「所有」の根源的モーメントだとしますと、そのバランスをいかにとるかというのがアリストテレスの世界ではないかと私は思います。
では、そういう観点から見て正義とは何かということ。私からしてみれば、これこそアリストテレスにおける最も天才的な思考じゃないかというふうに思うのですが、彼は「正」というのは比例だという考え方をするのです。
ひとつの例でいえば、これもアリ研のなかでいま大きな問題になっているのですが、「質」と「量」をどうやって比べられるんだという話がメールで展開されているんです。だいたい量的なものと質的なものは根本的に違うのにどうやってこれを比較するんだという、根本問題ですよね、哲学の。
この根本問題のひとつの解はマルクスが示したわけです。どういうふうに解いたかといえば、Aという商品とBという商品は全く違うとする。たとえば、服と靴では全然違う。でも、これを日常的にわれわれは何の不思議もなく交換しているじゃないか、と。つまり、質的に違うものがなぜ交換されうるのかという話がマルクスの交換価値論のところで展開されているのです。ものすごく単純化していえば、両者の共通項は何かといえば、それはともに労働生産物であることだ、と。労働生産物という点ではAもBも変わらないじゃないか、だったらそれらのものを作るときに投下された労働力という量に還元できるんだから、これは比較、交換することができるんだというのがマルクスの解決の仕方なのです。
とりあえず圧倒的に多くの物が商品として売買される場合、そこには労働が関わっているということにマルクスは着目するものだから説得力があります。つまり、質的に違うものでも「人間がつくり出した」という形で共通性を見出して、労働生産物だという共通項で括る。そして、それらの価値はそれらに投下された労働力の量によって決まるから、質の違うものでも労働時間によって量ることができる、というのが彼の経済学の根幹にあるのです。じつは、そういう発想を最初にしたのがまさにアリストテレスでして、アリストテレスは天才だとマルクスもいうわけです。
ところが、アリストテレスをよく読むと、はっきりそうとはいっていないのです。たしかに、アリストテレスも商品交換というものがひとつの正義のあり方だとはいっている。彼の言葉でそれは「交換的正義」というものなんですが、ところが彼にさらにいわせると、それはある程度フィクションを含むものだということにもなるのです。それらのモノは、じっさいは労働生産物である場合とない場合があるわけですよね。労働生産物でないものがなぜ交換の対象になるのかという問題は、説明が難しいけれども、たとえばさっきの『なめとこ山の熊』でいえば、熊の肝と織物というふうに考えてみたら、熊の肝にどれだけの人間の労働力が込められているのか(笑)。そんなものはほとんどないわけですよ。ただ小十郎の“才能”によって撃ち殺されて、市場にそれを持ってきただけの話。
つまりは、小十郎の捕った熊の肝と服というふうに、人々の需要と供給の関係によって「価値」が変わるわけですよ、当然。そして、需要と供給というのはみんなの主観なわけです。主観的なバランスによって需要と供給が決まってくるのだから、その場で主観的に「これはまあまあバランスのとれた取引なんじゃないか」というところで決めましょうということなんです。だけど、主観的なバランスといっても、これは個々人のなかで完結していることではない。圧倒的に多くの人間の慣行のなかで、それぞれが主観的に合意して「まあまあこの辺でいきましょうや」という話で決められた比率なのです。重要なのは、比を用いて思考するという点です。
あらゆるものを共通のものに還元して、比例してこれはいくらの価値があるんだというふうにしておこうという、人間の一種の知性。それによって、本来は比較できないようなものまで比較してしまうというのが、人間の知性のひとつの大きな所産であるというのがアリストテレスの考え方なのです。しかし、日常生活必需品なんていうのは大量に取引されるのだから、労働力をひとつの基準にしましょうというのもアリストテレスのなかに当然入ってくるのだけど、それだけじゃないよ、と彼はいっているのです。つまり、交換的な正義という正義観念を打ち立てようということがアリストテレスにはあるのですが、それだけではなく、いろんな状況の違いや、嗜好、趣味の問題もそこにはあるだろう、と——。
先の餅の話に戻すと、父、母、長男、弟がいるとします。すると、餅だって不均等に分ける場合も出てきますよね。なぜ不均等に分けるのかというと、不均等に分けることを、われわれは正しいというふうに“実感”するからです。父親は父親なりの力ないし功績、家族に対する努力、これを家族全員が評価するからこそ半分にしよう、と。で、母親もその半分にしよう、と。つまり、それぞれの人たちの共同体における貢献度というものへの“直感的”な合意というものが成立するはずで、そういう「配分的な正義」というものがあるとアリストテレスは考えたわけです。
もうひとつ触れておきたい正義概念があります。それは何かというと、要するに「目には目を」の正義。自分の目を潰されたら相手の目を潰す、こういう一対一の比例的な賠償関係です。そういう思考がわれわれにとって正しいことのひとつだろう、と。このずっと延長線上に民事や刑事の賠償の話になってくるわけですけど、厳格に「目には目を」の原則でやったら秩序そのものが崩壊するから金銭的に可能な限りということで、100%の等価はもうやめましょうという合意が生じてくる。100%の合意じゃなくても、できるだけそれに近いような形で金銭的にバランスをとりましょうと、こういう考え方。これが「矯正的正義」。
このように、大きくいって三つのバランス感覚がわれわれの正義というものを構築するんじゃないだろうか、というのがアリストテレスの正義感の根幹にあるわけですね。
つまり、アリストテレスが規定する正義には大きくいって「配分的正義」「交換的正義」「矯正的正義」という三つのパターンがあるのです——返報的正義というものもアリストテレスにおいて主張されていますが、これは彼において主として交換的正義という線で考えられているように思われます。ただし『ニコマコス倫理学』第八巻のところで、実質的に返報的正義と考えられる贈与−返報関係が論じられていますが——。ところが、さらに正義論を考えていくうえでもっと根本的な問題があって、たしかに比例的な原理というのはみんな共有するのだけれども、ただ問題は、当事者は一応合意をするわけですが、それはあくまでも人間の生身の合意なものだから、間違うことだってあるわけです。そのなかで話し合いをして多くの場合統一されるということになるんだけれども、合意という形で行われるだけに、弟が「いや、もうちょっとたくさんほしい」とかね、そういうことをいい出す可能性をいつも孕んでる側面があるのです。そういう意味で、この合意によってつくられた全体を、うまく守っていけるような形でちゃんと保護する必要が出てくるわけですね。その全体としての合意を保護するような正義へのあり方を、「全般的な正義」といいます。
自分の持分として、たとえば長男が「お父さんに半分あげる。でも僕は1/4は貰ってもいいんだ」というのは長男の立場ですよね。それで弟もそういうことをいう。みんな自分のことを中心にしながら、でも一応バランスをとる思考をするんだけれども、でも全体をこういうふうにちゃんと守らなければいけませんよと統治する人がいないと、これは落ち着かないわけです。そのような、ある種の裁定を遂行する正義の立場というものを「全般的な正義」というふうにアリストテレスは考えた。そして、各個別的な観点から自分たちはこういう配分がいい、とするのを「個別的な正義」あるいは特殊的・部分的正義であるとアリストテレスはいっています。
だから彼にいわせてみると、たしかに本来的にみんなそういうふうに合意しようという傾向はあるのだけど、この傾向自体が非常に不安定な側面を持っている。となると、これを全体として維持しなきゃいけない正義というものこそが、まさに正真正銘の大文字で書かれる正義なんだというふうに彼は論を組み立てていく。そして、この正義を担うものが彼にとっての「政治」なのです。ですから、ある面でアリストテレスにおける政治家というものの根源的なイメージというのは、個別的な正義を大事にするということを超えて、そうした原理を含みつつ全体の正義のバランスを図るというのが基本的な発想としてあるのだと思います。
ただ、ここで補足しておきたいのは、父も母も長男も弟もみんな違う人間です。みんな違う人間なんだけれども、共に一定の価値に値する一定の量を持てるのだとする思考に支えられているわけですよ。つまり、父も母も長男も弟もある面で人間として共通する平等な人間だ、と。平等の分け前を持ち得る平等の人間なんだという、こういう根源的な理解というものがやっぱり前提となるわけです。これはなかなかに難しい問題で、いま家族のことだけをいいましたが、世界全体の問題として考えてみるといいと思います。
世界全体のなかに、たとえば日本があってアフリカがある。日本とアフリカの正義の関係はどうなっているかという問題設定だって成り立つわけです。もしも「彼らは人間じゃないんだ」と思ったら、われわれは絶対にアフリカに援助なんてしないわけです。なぜ、われわれがアフリカに援助することに全般的に合意するのかといえば、アフリカの人も人間なんだという“あたりまえ”の思いがあるからです。だから、一定程度を配分するということにわれわれは合意するわけです。しかし、どの程度配分するのかという問題はまさにこの「配分的正義」の配分の割合に関わってくるわけですね。その、どう配分するかということが、いま世界の一番大きな政治的課題になっているのだけど、しかし世界は、このアフリカの人たちも人間として配分にあずかれるんだという合意を外せないわけです。なぜ外せないかというと、人間としてみんな平等であるという観念があるわけですから。なぜ、そうした考え方が成立しているのか。アリストテレス的な用語でいえば、人間は平等であるという“直感(観)的”な理解というものがほとんどの人々、ほとんどの世界に貫徹しているからなんです。それを私は人間に普遍的に与えられている知性能力であるというふうに思っているわけです。こういう感性的知性とでもいうべき知性のあり方をアリストテレスはヌース(直知)と呼んでいます。
正義とは、そういう意味では、人間の合意というものに重層的に関わっているのです。でも、問題なのは、合意とは個を主体として尊重することである以上、自分の取り分をもっと増やそうと思って「あなたは父かもしれないけど家族に対して何もやってないじゃないか」と、妻や子がいい出すことだってあるわけです。そうすると「この合意をやめて、もっとあなたの分を少なくしてほしい」となるわけです。それで、父親が「いや、お前たちの知らないところで俺は一生懸命やっているんだ」という話になり、家庭内論争になる。つまり、「正義」といったとたんに人間社会は必ず「争い」という事態に巻き込まれていく。そういう意味でいえば、戦いや闘争という、そういう不安定な世界につながっていく要素を、正義という言葉は内的に持っているということです。
ですから、こういう不安定な正義という問題を解決するためには、やはり誰かきちんと全体を統治できる人間がいなければならないのです。だからこそ、アリストテレスは全般的な正義ということをまさに強調するわけで、全般的な正義を踏まえた人間を彼は待望しているということになるのです。しかし、もちろん誰でもいいということではなく、そのためにはアレテー(卓越的能力)を具えた人間でなければならず、それが結局、アリストテレスにおける「プルーデンス(知慮)」という、現代に生きるわれわれ人間にとって、もっとも重要なテーマに繋がってくることになるのです。
しかし、そろそろ時間がきました。きょうお話したのは、テーマ全体のおよそ半分程度です。戦略的思考を超えたところにある正義、知慮、とくにヌースという知性のことや、宗教の世界と現実の政治の世界との厳しい分別をどうつけるかといったことを、できれば次の機会にお話したいと思います。