戦略的思考を超えて[2-1]

……そして、「宜しき人(エピエーケース)」ヘ荒木勝(岡山大学教授)

a004_01.jpg

– 力の正義、正義の力 –

 前回のおさらいからはじめましょう。前回の「戦略的思考を超えて(1)」では、アリストテレスの正義論をめぐっていろいろお話しましたが、要は、いまの日本の社会においていちばんの問題は、正義とは何かがきちんと定義されていないということでした。じっさい、現在の社会全体を見ると、正義とは力であると一義的にとらえられる傾向が強い。勝てば官軍であって、官軍というのはいうなれば法律を独占できるのですから、勝った方が正義であるとなってしまうわけです。
 この、力がすなわち正義である、勝者の方に正義はあるという考え方は、それこそ人類の歴史はじまって以来からの古い考え方としてあります。ところが、その正義のとらえ方もわからないではないけど、どうもそれだけでは困るという感覚を多くの人々が抱いてきたわけです。プラトンも『国家』のなかで、批判の対象として「力=正義」という考え方を取り上げています。
 正義を大上段に振りかざす人間がいたら、まず、その人を疑えということがよくいわれます。そういいたくなるのも、よくわかります。その場合の正義というのは、大方は、力のうえに成り立つ、権力と結びついた強引な正義だからです。現実にそのような力の正義にだまされ、被害をこうむったという思いを抱いている人は多いでしょう。正義を語ることの困難さ、語りづらさもその点にあるのですが、しかし、だからといって、それで正義の問題を等閑視していいということにはならない。正義がそのように一面的なものとしてしか捉えられず、ちゃんと理解されていなことが、そもそもの憂慮すべき重大な問題なのです。
 では、どういうふうに正義を定義したらよいか。それもまた、これまでに延々と議論されてきたわけで、多様な考え方、アプローチの仕方があります。
 たとえば、とくにいまの日本の状況からいうと、法令を遵守することが正義だという考え方が根強い。法に従うことが正しいのだ、と。法令遵守が正しいことで、正義だということですね。
 しかし、法令や条例を遵守することだけが、ほんとうに正義なのか? それだけでは、社会の実情に合わず、多くの人たちの気持ちにもそぐわない面が当然出てくるでしょう。法にしたがっていれば何をやってもいいのかという話にもなってくるわけで、これもまあ困るわけです。
 弱い者が生き残るために、相互に約束をしあって決めごとをする。それを正義としようというような議論もいままでにあったわけですよね。むちゃくちゃ理不尽なことをやる王様に対抗するために人民が「連合」し、「契約」して、自分たちにとって正しいことを行おうというのもそうです。
 いずれにしても、いままでお話したようなことは、正義とは何か、その核心部分の周辺をグルグルとまわっているだけの状態で、正義というものをどう規定したらよいのかがよく見えてこない。そこで、アリストテレスの遺した言葉、概念を基準にして、正義という「理念」の真の姿をつかまえてみたい、というのが前回のお話の趣意だったわけです。
 そのさいに述べたように、アリストテレスは自己と他者とで「善いこと」を比例的に配分することが正義であると、ひとつの定義をしました。この定義自体は、かなり具体的な事柄にあてはまります。たとえば、比例的正義のなかに、配分的正義、矯正的正義、交換的正義という三つの正義の考え方がある。アリ研メンバーのメールのなかにもちょっと出てきましたが、水戸黄門の例なんかにもあるように、悪い代官や悪い商人をとりあげると、たとえば悪い商人なら「正しい」価格で販売しないということだから、これは交換的正義に反している。それから代官が悪い商人と結託するという場合、良民にあたえるべき取り分を代官がくすねると配分的正義に反するということになる。あるいは代官がほんとうの犯人ではない人をつかまえてきて罰するのは、あきらかに矯正的正義に反するわけです。
 そういう感覚はだれでももっているものだから、テレビで「水戸黄門」なんかを見て黄門さんの裁きに共感したりできるわけです。
 それから古代ユダヤの王ソロモンの知恵というものが伝えられています。わかりやすい例でいうと、ここに二人の女性と一人の赤子がいるとしましょう。二人の女はその赤ん坊が自分の子どもであると主張して、取り合いになる。そこで赤ん坊を両方で引っぱり合うことになるのだけど、当然、強く引っぱった方の手に泣きわめいている赤ちゃんはいく。それで強引な方の女は自分の主張どおりになったと喜ぶのだけど、そこにソロモンが出てきて、真にわが子を思い、気遣うのが母親であるから、引っぱり合いに負けたもうひとりの女こそが赤子の母であると判定し裁くわけです。
 私たちはこのような話を聞くと、なるほどと納得するのですが、なんの価値観も判断基準もなければ、こういうことに共感もなにもできないはずです。要するに、力(腕力)ではない正義というものが存在し、それがどこかで別の力としてはたらいているというふうに、われわれ人間は心のある部分で感じとることができる。力の正義ではなく、正義の力といったものがあるのではないか、と。
 そういう意味でいうと、正義とは何かということを根本から考え直すには、直観的な理解ということが、まずは大事なことなのです。

– 返報的正義と贈与 –

 返報的正義についても前回の説明不足を少し補っておきます。
 交換的正義といのはギブ・アント・テイクですよね。返報的正義も、たしかに交換ではあるのだけど、「ギブ」のほうが、つまり、あたえることのほうがもらうことより重要視される。しかしながら、相手はあたえられたことに対して、そのお返しをしなければならないというのが返報的正義の考え方。等価物を “同時に”交換するのでも、また、もらいっぱなしでもない、人類学における「贈与」に近い行為といってもよいでしょう。
 これは、親と子の関係で考えるとわかりやすい。親は基本的に、子育てというかたちでさまざまなものをギブする(あたえる)わけですが、子どもに対してその分の見返りを目的にしているわけではない。いうなれば、無償の愛情です。しかし、いや、だからこそ子どもは大人になったら、親に「返す」ことをしなければならないというのが返報的な正義感なのです。親と子という範囲だけでなく、先祖から子孫へとあたえられてきたもの、伝えられてきたものがある。つまり自分の肉体そのものも先祖がいなければ存在しなかったわけですから、なんらかのかたちで先祖に返報しなければならない。それが、先祖崇拝といったようなことでもあり、また、自分の子への贈与にもつながっていく。
 あるいはもっと広くとらえて、村落とかの共同体、あるいは「国」とかに対しても同様で、私が「共同的結合体」と訳しているコイノーニア(国)に対しての返報をひとつの正義の問題として考えていかなければならない。つまり、家族から国家にいたるまで、あまねく共通したこととしてそのことはいえるのです。法があって我々は安全・安心な生活を営むことができる。しかし、法は国家が決めたもの。というよりも、国家は法的なコイノーニアだから、我々はこの国家に、返報的正義を抱く。このようにアリストテレスは考えています。祖国愛・愛国心の根底には、正しい国家に対する返報的正義の観念が生じるわけです。
 もっというならば、自然そのものと人間の関係としての「贈与」の問題がある。自然からの贈与である「恵み」に対して、人間はどのように報いるか。返礼するのか。現代の環境問題とも関連してきますが、これも自然と人間との間の正義の問題として考えていく必要がある。
 返報的正義というのは、このように非常に大きな射程範囲と距離を持っている。いわゆる「未開社会」から現代にまで通じる宗教的儀礼なども、それ自体としてはなんとも非合理なものだけど、自然からの贈与に対する人間の側の正義の姿勢として理解できるわけです。
 アリストテレスのいう正義論のなかには、このような多種多様な正義のあり方が含まれている。しかしもっとも重要なことは、彼によれば、人間それ自身、あるいは人間社会には、「正」と「正しい事柄」、つまり正義を判別し、実現しようとする人間に共通した態度・指向、そういうものが厳然として存在しているだろうというふうに考えられるのです。
 となると、人間にそのような「正」に対する姿勢・構えがなぜ生じてくるのか。そのことを哲学的に深く考えていく必要がある。正義を単純化した口当たりのよいワンフレーズで定義するということではなくて、正義を規定するためのさまざまな要素や条件といったもの全体を包括的に考えていかなければ、正義の真の姿を取り逃がしてしまうことになりかねない。そして、そのように「考える(哲学する)」ことと並行して、”もう一度”現実の正義の問題に立ち返ってみる必要があるだろうと思うのです。
 包括的にといっても、アリストテレスの哲学を細部にわたって探求しようとしたら、これはもう大変なことになってしまうし、忙しい人が多いなかで時間がいくらあっても足りません。それに「生きた哲学」としては、専門的に細かく字義に拘泥するようなことは、少なくともいまここでは、あまり意味のあることではありません。とにかくまずは、全体の輪郭とエッセンスの概要をざっと描いてみることが大事なことでしょう。そこから善く生きていくための考え方、ものごとを考えるための「枠組み」といったもののヒントをみなさんにつかみ取っていただければ、私としてもたいへんにうれしいことです。これからお話することも、既存の哲学的理解とは大きくズレているところがあります。これまでの学界のアリストテレス研究と私の考え方の相違については、2008年の1月か3 月に発表される『思想』や、これまでの私の学術論文を見てください。

– 「霊魂論」における三つの柱 –

 それではこれから、力や法によったものでない正義、というより、むしろその根本にある正義、つまり”戦略的な”正義を超えた正義のあり方について考えてみたいと思います。「知性」が主題のひとつになります。
 知性について考える場合、どうしても避けて通れないものとして「霊魂論」があります。たいへんむずかしい話ですが、手短な解説を試みてみましょう。
 アリストテレスの霊魂論は大きく分けて三つの柱から成っています。
(1)霊魂とは、生命の根源であり、人間も他の動物も生きていることの根源的な力は霊魂にあるということ。では、肉体と霊魂はどういう関係にあるのかという問題になるわけですが、ちょっと難解な言葉を使うと、霊魂とは肉体の「現実態」であるという言い方がある。現実態はギリシア語でエネルゲイアといいます。
 肉体といっても”生きている”肉体ということで、死体は含みません。つまり生きている肉体は、動き、なんらかのはたらきをしているもので、その力の根源が霊魂である。だから、現実態というのは「はたらき」と言い換えてもいいわけですけど、肉体のはたらきをつくっているもの、その因となっているものが霊魂であると、アリストテレスはいっているわけです。
(2)霊魂というと日本では「死者の霊魂」というふうに、生きているということから分離されやすいので、ここでは「魂」といっておきましょう。その魂には、固有のはたらきといったものがある。たしかに魂は肉体を動かしている根源なのだけれども、それだけが人間の魂のはたらきではない。人間の魂自体がある別のパワーと機能を持っている。
 それは何かというと、欲求的能力と知性的能力であるとされる。このふたつの能力のうち、とくに、知性的能力は、魂の根幹にある固有のはたらきです。欲求的能力、つまり欲すること、何かを得ようとすることも魂がもつ大きな力なのだけど、アリストテレスは知性を発揮するということが魂の根本にある最高のはたらきであると強調しているのです。
(3)その場合の知性がヌース、日本語に訳すと「直知」、つまり直観的知性というものなんです。アリストテレスは、ヌース=直観的知性が人間の魂の根幹にある力なのだと述べている。つまり、モノを得たいという欲求もたしかにひとつの魂の力なのですが、モノを得るために、あるいはモノを得る前にモノを知りたいという力がつくる欲求的能力も、人間の場合は知的能力と結びついている。さらにアリストテレス哲学の根幹には、「幸福」とはその人が持っている力量の発揮という有名な規定がありますが、この力量の中に直知=ヌースの力が入り込んでいます。これが大事な三つ目の柱です。
 そして、この三つの柱をよく理解するために、アリストテレスの決定的に重要な三つの書物があります。すなわち『形而上学』『ニコマコス倫理学』『政治学』の三著で、三つの柱を咀嚼するには、これを三位一体にして読み込んでいかなければならない。
 それぞれの書から、要点となる言葉をひとつずつあげておきましょう。
『形而上学』には「ひとはすべて知ることを欲する」
『ニコマコス倫理学』には「善とは万物が希求するもの」
『政治学』には「我々が見るところによれば、国家とは最高の共同的結合体である。国家の根幹は正義である」
 と書かれている。
 つまりアリストテレスは、人間の能力をはかるとき、まず「知る」ということに重きをおいている。ギリシア語では、この「知る」ということは「見る」ということと同じ単語「エイデーナイ」です。見ること・知ることが人間の霊魂というものの第一の機能であるといっていい。それが知性的能力にあたります。
 また、さきほど欲求的能力といいましたが、人は何を欲求するのかといえば「善」なんです。善いものを欲求する。では善いものとは何か。それをまず知らなければならない。つまり、知りつつ欲求していくことになります。アリストテレスにおいて、霊魂の能力にはこのふたつ、知性的能力と欲求的能力があるということを念頭に置いておいてください。
 そのうえで『政治学』の第一巻で述べられている「国家とは最高の共同的結合体である。国家の根幹は正義である」ということを考察していく必要がある。正義が人間社会を幸福に成り立たせていくための基本だからです。
[2-2]へ続く


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: