戦略的思考を超えて[2-3]

……そして、「宜しき人(エピエーケース)」ヘ荒木勝(岡山大学教授)
– 正義における欲求、秩序、権利 –

 知性と愛について述べたところで、それと関連してきますので、再度正義の問題にもどってみましょう。配分的正義を取り上げるとわかりやすいでしょう。
 配分的正義というのはA,B,C…という複数の人たちにモノを分ける、各人に各人のモノを等しく分配することですね。ということはA, B,C…といった個別の人たちが基本的に等しい存在であるという前提がないと、配分的正義というのは成り立たないわけです。つまり、基本的に、モノを受け取る人間、配分を受ける人間が人間として等しく、万人が平等であるという直観的知性がそこにはたらいているということです。もし、奴隷は人間ではないと判断したら、人間でないのだから配分しませんよね。人間だからこそ分ける。
 家族の場合だってそうです。父、母、子どもたち、すべてが家族の成員だという直観的な認識がそこにあるのです。だからみんなに、役割に応じて配分しましょうとなる。貢献の度合いにおいて配分の割合は異なるけど、基本的にはそれぞれが配分にあずかれる平等な主体であるということ。
 正義が成り立つ前提には、人間が基本的に平等であるという直観的理解がある。これが第一。
 第二には、人間が自由な判断主体であることへの直観、いい換えれば、人格の尊厳性への直知がある。
 配分的正義には、いまいった貢献度の違いによる配分差の問題が当然出てきます。ですから配分の割合が間違っていると感じたら、受け取る側には不満が出てきます。たとえば、父親の分け方がおかしいと思ったら、子どもたちはブーブーと文句をいう。つまり文句をいうということは、貢献度に対する主観的な認識が父と子とではずれているわけですよね。ずれが生じたときには自由に抗議することができる。配分された主体が異議申し立てをでき、配分するほうもそれを考慮するということ。その際、重要な意味をもってくるのが、この自分の意志を相手に伝えることを可能にする「言葉」です。
 言葉が大事になってきます。人間だけでなく、家で飼っている犬や猫などにも食べ物などを分けあたえることはあるけど、犬や猫は言葉で異議申し立てができない(笑)。だから、言葉を持った人間が正義の主体であると、アリストテレスもいっているのです。
 三番目は、質的差異を量的差異に還元することの可能性を直知すること。家族でいえば、父親は外で仕事をし、母親は家で家事を行う場合、これは質的にまったく異なる内容なのだから、量的に文句が出ないように”公正に”配分するなんて、本来はおかしなことなわけですよ。端から無理がある。
 しかし、貢献度が質的に違っているのに、分けるときは量的に分けてしまうし、人はそれを納得してしまう。ということは、結局、質的差異を量的差異に還元することを”それなりに”認めているのです。交換的正義も同様です。まったく違う異質な物事を、人間は貨幣という抽象的なもので量に還元することができる。どのような手段で、どのような比率で交換するかは別にしても、質を量に還元できる可能性があることを、人間は直観的に”わかって”いるのです。
 市場価格というものも、こうした個々の人間の還元的知性の、ぼうだいな集積を前提として、市場に表現された結果をもとに成立するものなのでしょう。
 そこで四番目に、闘争と合意形成のなかで還元比率を決定するということが出てきます。だから正義を実現するということのうちには、必ず論争や闘争などの諍いが含まれているということです。久しぶりに聴く言葉かもしれないけど、賃上闘争なんかもそうでしょう(笑)。
 だから今度は客観的秩序、整序(アレンジメント)、法形成をいかに行うかが五番目の正義の構成要素になる。文句をいい合いながらも、社会は概ね「正」の方向に秩序が形成されていくわけです。そうでなければ安定した社会はありえない、と皆が合意する。しかし一方で、受け取る側の人間からいわせると、この正しい秩序形成は権利というかたちであらわれる。権利とは何かというと、正当な要求資格のことです。自分への配分を喪失した場合には、不正と思われる現状を法や権威に訴えて、喪失分を取り戻すことのできる資格のことを権利というわけですね。正義があるときには、必ず権利もある。正義と権利は相即不離の関係にあるものなのです。英語の the rightは、そのあたりの論理をうまく表現しています。正であると同時に権利。the right を客観的秩序の面からみれば”正”、主観的関りの面からみれば”権利”になります。
 このように考えてみると、正義における欲求、秩序、権利というものは、人間のみに固有な、つまり知性の発揮と結びついた本源的な偉大なはたらきです。そしてその正を合意しようとするときに法とか国家というものが形成される。
 繰り返すと、正とは比例的に整序(アレンジメント)された客観的な秩序であるということができます。この正を実現しようとする心的傾き(ヘクシス)が正義であり、徳(アレテー)としての正義です。正しい社会関係・権利を実現しようとする持続的な知性の構え、すなわち徳が人における正義なのです。
 アレテーというアリストテレスの言葉も、日本語に非常に変換しにくい単語で、「卓越的力量」という訳語もありますが、いまは「徳」としておきます。徳が人における正義であるとした場合、徳を身につけるための場・方法として、さきほどからいうように、教育のあり方がきわめて重要になってきます。それはいうまでもなく、政治のあり方とも深く関連してきます。

– 国家論と教育の重要性 –

 アリストテレスの政治学全般からうかがえる特質は、教育とは正義と友愛を養うことであると主張されている点です。『政治学』の第八巻が教育論で終わっていることを見ても、それはわかります。
 昨今の日本社会に見られる教育への根本的疑念は、正義というものが、教育のなかで「徳」として子どもたちに形成されているかどうかにあるのではないでしょうか。あるいは教師と生徒たちの間に正義に基づく関係が実現しているかどうか。そこがもっとも本質的な問題であって、それをどういうふうに形成しなければならないかに、われわれは知恵をしぼらなければならない。そのための本質的な議論がないがしろにされているような気がしてなりません。道徳教育や「徳学」の奨励などという形だけの方法論ではなく、その目的、本質に踏み込んだ議論をしなければならない。そこには、「国」とは何かといった論議が当然あっていい。
 私は正合意論としての国家論こそ現実世界に対するアリストテレスの思考の根幹であり、最大の遺産であると思っています。つまり、現代のわれわれにとって彼の哲学が真に有効な意味を持つのは国家論を内包した正義論なのです。善き国家、すなわち正義の国家を建設しようとする行為と学問こそが、人にとってのもっとも高貴な行いであり、活動であるということをいっておきたい。
 最近、お国のために死ぬことの重要さ、美しさが取沙汰されていますが、人が自らの命を捧げる国家自体が何かを把握せずに一方的に国への奉仕が説かれるならば、それはやはり大いに問題です。正義を担う国家だからこそ、人は自らの命まで捧げる。ということは、いま大切なことは、国家とは何か、正義と国家とはどのような関係にあるかを明確にすることではないでしょうか。欧米の議論の根幹もそこにあるのであって、日本にはこうした視点が弱いように思われます。
 その正義・正が日本ではどこの教育現場でも、まったく教えられていないのではないでしょうか。いつもきまって統治機構論だとか政策論だとか、また、手段の合理的あり方(合理的選択理論)だとかね、そういうことばかりで、正義とは何かということをきちっと考えて教えていない。だからいつも問題が露呈すると、目先の合理的解決に走り、問題の本質を先送りにしていくことになる。もちろん、早急な合理的解決の必要な局面も現実世界にはあり、その手腕をとわれることもあります。しかし、本質的な議論を踏まえて、考え、行動していかないと同じ場当たり的な対応が繰り返されるばかりで、けっして世の中全体がよくなることはない。だから、国家論に関してはまた別の主題になりますのでこれ以上立ち入りませんが、こと教育に関しても、私にいわせれば「アリストテレスに還れ!」ということになるんです。

– 宜しき人へ –

 ということで、ここからは「愛」についてもう少し考えてみましょう。しかし、アリストテレスにおける愛論は、これもまた非常に奥の深い”こみいった”話になりますので、ここでは正義論に関連する重要なポイントを抑えておくだけにとどめます。
 正義に関連する愛とは友愛、すなわち知性のはたらきが強い愛のことですが、アリストテレスにおいて愛は「他者の善を希求することである」と、規定されます。同様に正義も善を希求することですから、愛と正義は重なっており、友愛がなければ正義もないということになります。ある意味で他者とは未知の存在ですから、未知なものに対する好意がなければ正・正義もありえません。したがって、友愛の徳と正義の徳とは内在的関係にあるという言い方もできます。
 これまでの話から理解しておいていただきたいのは、●敵とは正義をともにしえない、●家族が正・正義の起点である、●現在の教育現場でも問題になっている「いじめ」とは正義の対極、奴隷主的統治のことであり、いじめの克服は正義の徳の養成以外にない、という三点です。
 ここで新しく、アリストテレスの重要な言葉を提示しておきましょう。愛と正義の接点にあるエピエイケイア「宜(よろ)しさ」という言葉です。これはアリストテレスのなかでも独特な言葉ですが、一般にはあまり知られていないようですので、彼の書物のなかから二,三引用させてもらいます。エピエイケイアとは法的正義と友愛の中間であると考えるとわかりやすいのですが、私はこのエピエイケイアの喪失こそが現代社会の諸問題の要因にもなっているのではないかと思っています。「戦略的人間から知慮的人間へ」ということを前回お話しましたが、さらにいえば「宜しき人間(エピエーケース)」を目指すことが、正義の実現にとっては欠くことのできないことであると、私は強く指摘しておきたいからです。
宜しき人とは、「正」であっても法に則してのそれではなく、かえって法的 正義の補完、……杓子定規的ではなく、むしろ法が自分に有利であっても過小に取るというたちの人である。(『ニコマコス倫理学』第五巻第十章)
 わかりやすいように、前にいった例をもう一度あげると、お餅を家族で分ける場合、きまった割合で公正に分けるのは配分的な正義ですよね。それに対して、父親が自分の感じたところで、たとえば一番下の子の取り分が少ないと思ったとき、自分の餅をその子に少し”余分に”分けてあげる、といったようなことがエピエイケイアです。つまり杓子定規ではないかたちで正義を実現しようという姿勢です。
 それゆえ宜しき人は誰よりも自己を愛する人であるといってよいが、しかし非難される類の自己愛者とは別の人であり、両者の異なりの程度は、理性に基づいて生きることと、情念に基づいて生きることとの相違、あるいは美しいものを欲求することと、利益になると思われるものを欲求することとの相違に対応している。……宜しき人は知性に従う。立派な人に関して、彼が友や祖国のために多くのことをなし、必要な場合には友や祖国のために死ぬこともある、というのは真実である。なぜなら、立派な人はお金や名誉や、その他一般に争いの的となるもろもろのよきものを投げ出し、自分自身に美しいものを確保しようとするからである。(『ニコマコス倫理学』第九巻第八章)
 父親が子どもに自分の分をあたえるのは、配分的正義に対抗しようとしてそうしているわけではなく、自分自身に父親像として「美しいもの」を確保しようとして行うわけです。彼の取り分は父親としての美なんだ、と。美でもって正義を実現していこうとする態度(ヘクシス)を具えている人。それが宜しき人ということです。
 人間の弱さに寛大さをもって臨むこと、法にではなく立法者に、法の条文にではなく制定した人の立法の精神に注目すること、……蒙った被害よりも受けた恩恵のほうを、自分が与えた恩恵よりも自分が受けた恩恵のほうを思い出すこと、不正を受けてもこれに耐えること、直接行動に訴えるよりも言論によって黒白をつける、法廷の判決を仰ぐよりも調停にもっていくこと。(『弁論術』第一巻)
 以上のように「宜しさ」というのは、愛と法的正義の中間にあるということです。アリストテレスが正義論のなかでこのように論じているのは非常に重要なことで、彼の正義論ならではの大きな特徴になっているということを強調しておきます。
 「宜しさ」というのは現代の日本では、なじみの薄い、あまり使われることのない言葉です。しかし、この言葉をもとにして、現代社会の「いじめ」など、身近なさまざまな問題を考えてみてはいかがでしょう。世の中の不正、あるいは社会の窮屈さとか息苦しさといったものは、「宜しさ」の喪失と関連している場合が多いと、心に思いあたることがあるはずです。
 宜しさの中間的性格に関連して、全体的正義と部分的正義についても、少し補足しておきましょう。
 家族の例でいいますと、それぞれの取り分を権利として主張・要求することができるというのは正義ですよね。父親は父親の、母親は母親の、子どもは子どもの取り分を要求する。しかし、みんなが要求するとき、それぞれの要求がうまく合致すればいいのだけれども、要求が食い違ったときに、たとえば父親なら父親が全体を見る観点から、母親はこう、子どもはこうといったかたちで調停することがあって、家庭の正義が保たれる。父親だとか政治家などは、自分”個人の”正義から取り分を要求し配分するというよりは、全体的な観点から正義を実現する必要が出てくるわけです。そのように正義を部分的正義と全体的正義として分け、その部分の「間」で全体的に調停していくことにも「宜」、つまり「宜しさ」が問われてくるケースがあるということです。
 それで、全体的正義の立場から当該の家族とか村や町とかを正義に基づいた秩序ある集まりにしようというときに、とくに要請されるのが、前回のテーマである「知慮(プルーデンス)」です。もうおわかりかと思いますが、知慮とは、正義を現実世界において実現するための知的徳、より正確にいえば、正の目的を知的に宜しく直観し、それをさらに具体的状態において正しく手段化する心の傾き、別の言葉でいえば正にかなった宜しい知性と理性の結合、それが知慮です。いままで述べてきたことは主に直知のはたらきでしたが、現実の社会にそれを適用しようとする、そうした宜しき目的を適切な目的-手段の関係のなかに入れて、より具体化しなければなりません。家でケーキを配分する際にも、適切な計量の機器とかケーキをきれいに切るナイフとかの道具が必要であるように、企業でも国家でも具体化のためのぼうだいな手段が必要となります。知慮とは、従って宜しき目的を宜しき手段を用いて実現する力量であり、そこで計算理性も必要となってきます。頭のキレが要請されます。今回の知性と理性の議論をふまえて。少しくわしく知慮を分類してみましょう。
[2-4]へ続く


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