久しぶりの亀甲館だより

蓜島庸二展2016
ヨハネス・ゲンスフライッシュ・ツール・ラーデン・ツム・グーテンベルク氏の
松果体である書物である・・・」
 2016年6月3日(土)~6月15日(水)11:00am~6:30pm
 ストライプハウスギャラリーM,Bフロア/東京都港区六本木5-10-33

和漢薬と蘭方薬の明治維新


 越中富山の反魂丹
 鼻くそ丸めて万金丹
 それを呑むやつぁ アンポンタン

 子どものじぶん、そんな囃子詞を歌いながら遊んだものですが、今回の私の個展では、なんとこの反魂丹の古い衝立て看板が登場しました。それは私の作品の一つに「王たちの練丹術」という一群の展示がありますが、それは古代中国の王(権力者)たちの不老不死という欲望を通して死とは、生とはなにか、さらに現代文明の進歩発展願望の堕ちいっている深い陥穽へと繋げて提示するつもりのものでした。

 そうした古代の人間の欲望をはるか現代に伝えるものとして「反魂丹」という漢方薬の看板を象徴的に展示したものです。反魂──いちど身体を離れた魂を再び返(反)す、つまり死者が蘇るほどの仙薬(丹)という意味のものです。

 丹は赤色で、鉱物の丹砂、或は辰砂とよばれて、漢方の薬方帖には多く登場するものです。日本画ではこの辰砂を赤い絵の具として今でも、もちろん私も使ってきました。

 不老不死と丹との関係は次回のこの欄で詳述することにして、展覧会のその突飛な情景のところへ、今回は岡山大学のアリストテレス学者荒木勝先生ご夫妻にご覧いただく機会に恵まれたのですが、ふだんから先生を中心としたアリストテレスと現代研究会の事務局ならびにこのブログであるカフェヌース主宰の石井泉さんご夫妻、それにちょうどもうひとかた、今回この看板がここにあることの機縁を作ってくださった、生駒肇さんご夫妻が、はるばる小松市からお出で下さって、この看板の来歴なども含めた皆さんで荒木先生のお話を伺う、という好機をいただいたのです。

蘭学事始

 じつは荒木先生ご夫妻はこの後、千葉県佐倉市にある佐倉順天堂記念館へ蘭学教育の資料を見学のためにお訪ねになるそうで、話はしぜんと佐倉順天堂の蘭学と、それがこの国の明治維新の医療制度になってゆく過程で、蘭学をもととした岡山大学の医学部の果たした役割について荒木先生から伺いました。あとで調べてみると岡山大学の前身は岡山医専という医学校だったそうで、そういえば私の義兄は三高の学生の頃、密かに医学を志していた、ということをつい先日、その息子(つまり甥)から聞いたばかりでした。なんでも三高と岡山医専というコースは割合とポピュラーなものだったようです。

 先生の岡山大学もそうですが、岡山は確かに蘭学をもととした開明思想の気風の強いところだったようで、かつて私は、岡山県の北東、内陸部にある津山市に毎年4月、それも10年間にもわたりアートイベントに出たことがありましたが、教育委員会の担当者から、洋学資料館へ案内されたり宇田川玄随や箕作阮甫などの蘭学者についての話も聞かされ、大いにその蒙を啓かれたものでした。おまけに市街の外れにある刑場跡にも案内され、刑死者が出るたびに蘭医たちが腑分けの研究にやってきた、といった話を聞かされたものです。有名な『解体新書』が活躍した時代です。

 そうした蘭学/西洋医学の興隆はひとえに従来の漢方医学の限界を際立たせることになって、明治政府による医学の大改革が起こるのですが、その辺りの事情について、インターネットで興味深い記事を発見したので、少し長くなりますが下に引かせて頂きます。

──幕末には蘭方医学(オランダ医学)が一定の地位を得ていましたが、日本で西洋医学の有用性が広く認識されたのは、幕末の1866(慶応4)年に起こった戊辰戦争がきっかけでした。戦時下で銃槍(銃創か?)への外科的な対応に迫られたとき、江戸時代の主流であった漢方医は内科が中心だったため、あまり役に立てませんでした。代わりに幕末から活躍していたオランダ人医師ポンペの弟子たちや、イギリス人医師ウィリスなど、西洋医学を身につけた医師が敵味方に分かれ軍医として活躍しました。
 こののち、戊辰戦争時に政府軍負傷兵を献身的に治療したウィリスが明治政府に重用され、一時期イギリス医学が優勢になります。
 しかし明治2年、34歳の若さで新政府の医療担当者を務めていた相良知安(佐賀藩)と岩佐純(福井藩)に医学制度改革が命じられたことで、風向きが変わりました。知安は「ドイツ医学こそ世界最高水準であり、日本のとるべきはドイツ医学である」と強固に主張し、政府要人を説き伏せました。こうして、臨床医学主体のイギリス医学ではなく、学理、研究を重視するドイツ医学の採用が決まりました。(EPILOGI 医局の歴史「ドイツ医学導入までの変遷」より)──

新政府による和漢薬への介入

 こうした先進医学の眼からは従来の和漢薬、ならびに漢方医術は総じて胡散臭い非合理的なものとして、明治3年、大学東校(現在の東京大学)に対し、以下のような訓令を発して、これら検定制度を導入し、取り締まりを始めます。

 「・・・従来売薬の中、有名無実の分、かつみだりに勅許御免等の文句を用うることを禁じ、神仏の名をかり、あるいは秘伝、秘法などと唱え商民をあざむき、分外の高料を貪り候悪癖をのぞき、向後大有益の奇薬発明の者へは年限をもって専売の利を与え候様の御規則に定められたきご趣旨につき、その趣意の方法、検査、規則・手続等詳細取り調べ申し出すべきこと」(玉川しんめい著『反魂丹の文化史』)

 以後、すべての漢方薬はつまり「反魂丹」を始めとするいわゆる越中富山の売薬類も、効果の定かでない=つまり非科学的な医薬とされ、ひとえに蘭学系ではなくプロイセン(ドイツ)医学の指導検定を受けることになった、ということのようです。

 荒木先生の仰るには、そのようにして以後、日本ではドイツ式の医学が中心となって、医学の習得はすべからくドイツへ留学する、といった流れが出来上がっていったということです。なるほど、かの森鴎外の小説『舞姫』はそうした体験のなかから生まれたものですから・・・。

 そしてそれは太平洋戦争の終結によって、アメリカ医学という新しい選択肢が出来るまで続くのだと思います。

 しかしこうした統制は、とりもなおさず富山の伝統的漢方薬の廃止に繋がるもので、富山の売薬業者によりさまざまに陳情が行われた結果、熊肝丸、奇応丸、紫金錠、万金丹、反魂丹、感應丸の7種に対し免状が下付された、という経緯があります。それが明治4年。以後この検定制は大学東校から文部省へ、さらにそれも改められて、予め富山県に於いて審査し、その結果を同省に送って許可を得る、というようにめまぐるしく変化したということです。

伝統医薬の抵抗

 先述した看板には「反魂丹」の文字の頭に(上の写真参照)、これは右横書きで「官許」と標されており、つまり「官許反魂丹」と読めるのですが、この看板の制作年代が明治12年と裏書きされていることから、この官許こそは、それ迄の「勅許」とか「家伝秘薬」といった恣意的な誇大広告とは違って、明治政府によって新たに製薬販売が許された、そのお墨付きの、そして如上のような経緯をくぐり抜けてきた「官許」の、いわば新時代の誇らかな文字だったのです。

 そして更に思うにこれは、明治維新の医学改革の欧化の流れに危うく呑み込まれそうになった伝統的和漢薬の本草の学問が辛くも、改革の力に抗してその伝統を守り抜いた、まさに切羽の時にうまれたという、また、そのことによって現在の私たちの医療の在り方に──例えば私など、基本的には西洋医学の或は現代の医療の先端的治療を受ける一方で、その症状によっては、同じ医師によって漢方薬の処方を施される、といった複眼的な豊かさをもたらすことにもなった、これは記念すべき看板だったのです。

 明治維新の医療制度改革のめまぐるしい有様を、反魂丹の看板をもとに辿ってきましたが、さらに荒木先生のお話で、岡山大学の構内に牛骨が発見されて、それは役牛でもなく、食用でもない牛、つまり牛痘用に輸入された牛だったということです。種痘といえば小学校の「読み方(今で言う国語)」の教科書にイギリスのジェンナーが、自分の子どもにこの牛痘を施して実験した、という逸話が載っていたのを思い出しながら、荒木先生によるまことに豊かな日本の近代医学レクチャーの時間を過ごしました。

 次回にはさらに、この看板が今日、こうして私の展覧会に出品されることになった経緯、今日ご一緒くださった小松市の生駒さんご夫妻を仲立ちにして、この看板の持ち主である隣家の梶永久堂薬局さんの歴史など、私の「町まちの文字」探求としても興味深い物語へと繋がります。どうぞご期待ください。

荒木先生、石井さん、生駒さん、そして遥かに小松市の梶永久堂さん、どうも有り難うございました。(続く)


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