以上のことが明瞭になったところで、幸福とは人が賞讃すべきものなのか、あるいは何か尊いものとして祝福されるべきものなのかを考えてみよう。どっちにしろ、幸福は単なる可能性(デュナミス)としてだけ論じられるものではないのだから。
どんなものであれ何かが讃(ほ)められのは、それに固有の性質だけでなく、他の何かとの関係のあり方に対してである。たとえば私たちが正しい人や勇気ある人、つまり一般の善き人やそのアレテー(徳、卓越性)の優秀さを讃めるのは、その行いやそれによって達成される成果によってである。また、たとえば力の強い人や足の速い人などを賞讃するのは、その人たちが持っている特別な能力において何か善きものとある仕方で対比しているからである。
このことは神々への賞讃からしても明らかである。神々をわれわれ人間と照らして賞讃するなどというのは愚かなことだが、じっさいにそのようにして賞讃することがあるのは、賞讃するということ自体が何か他との照合のうえでなされることだからだ。したがって賞讃が何か善きものとの関係や比較のうえで行われるものである以上、最善のもの、つまり幸福を賞讃することなどありえず、賞讃よりもっと優れた善きことがあるのは誰にでもわかることであろう。それは確かなことだ。
すなわち、幸福は人が賞讃するものではなく、神々により祝福されるものであり、そして同様に人間のなかでももっとも神に近い人を幸福な人と呼び、われわれも祝福するのである。
「善」にもそれはあてはまる。正義の行いを賞讃するようには誰も幸福を賞讃することはない。むしろ、より神的でより善きものとして敬い、祝福するのだ。
天文・数学者のエウドクサスが(ある弁論のさいに)快楽こそ最高のもの(幸福)だと顕揚する言い方はなかなか巧妙だ。彼は快楽がよきものでありながら賞讃されることはないそのことが、快楽が賞讃されるべきことなどより優っていることを示しており、神々や善がまさにそうしたものであるのと同様だというのである。じっさい彼は、快楽以外のものごとをこれら祝福されるべきものと照らし合わせることで賞讃したのである。
じつのところ、賞讃はアレテー(徳、技量)にあたえられる栄誉である。なんであれ、それが素晴らしい行いになるかどうかはアレテー次第であるからだ。そして栄誉となる賛辞はその成果—-肉体的なものであれ、精神的なものであれ—-に対して与えられる。もっとも、精確にこうしたことを述べるのは、賞讃の仕方について研究してきた人たちにまかせるべきだろうが。
ということで、私たちにとって、幸福とは敬い尊ぶべき究極的なものであることがわかったであろう。それが間違いでないことは、幸福が生きることのアルケー(根源、第一の目的因)であることからも明らかなはずだ。なぜなら、われわれ人間は誰でも幸福のために他のすべてのことを行い、諸々の「善」の原因であり目的であるものを尊重し、祝福されるべき神的なものとしているからである。そう私たちは考える。
超訳『ニコマコス倫理学』第1巻 第12章
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