ここで、幸福はそれについて学び習慣化することで身に付けることができるのか、なにか訓練や練習をすることで、つまり個人の努力によって得られるものなのか、それともある種の神の定めとか運(ティケー)によって与えられるものなのだろうか、という問題が生じてくる。
こうした問題は、どちらかといえば神に関する別の考察の機会を待つ方がよいかもしれないが、ここでもそれなりに述べておくべきだろう。
もし神々から人間に贈り物として与えられるものがあるとしたら幸福こそがそれであり、それは人間にとって最高・最善のものであって、もっとも人間にふさわしいものにちがいない。
また、かりに幸福が神から与えられるものではなく、人のアレテー(卓越した技量)やなんらかの学習・鍛練によって得られるものだとしても、それは神的な領域にもっとも近いものである。すなわちアレテーの報償であり目的・成果であるものは、比較を超えた善であり、個の範囲を突き抜けて生じる幸福であるといえるのだ。
とはいっても、幸福は万人のものであるべきだろう。じっさい、自然本性上のなんらかのアレテーを具えた人は誰でも、研鑽を積んだり心構えを強固にもつことで幸福を獲得することが可能なのである。
そのようにして幸福に達するのが「運」によって幸福になることよりまさっているとすれば(私はそう思うのだが)、やはり人はそのような仕方で幸福をめざすべきなのである。
「自然」は考えられる限りの優れた本性をもつものであり、技術的な面だけでなく、いかなる原因で行うことも自然本性の一部である以上、そしてその原因が最善の理由にもとづくものである以上、そうなのである。もっとも重要でもっとも善きもの、すなわち幸福を「運」に委ねてしまうのはあまりにあさはかな振る舞いというべきだろう。
この問題には、私たちの幸福についての規定がさらに光を投じてくれる。私たちは、幸福とはアレテーによる魂の善なる活動であるとしたのである。そしてそれ以外のことは、たとえ善であっても、幸福にとっての必要な”条件”だったり、本性上なにかしらその助けとなるもの、あるいは手段(道具)として役に立つといったものにすぎない、と——。
また、私たちのこうした考えは、先の「政治」について言及したことにもあてはまるだろう。すなわち、私たちは最高善の実現こそが政治の目的であるとしたのであるが、それは、政治とは市民たちを一定の方向に導き、彼らが善を行う優れた人間になることに最大の知力をはたらかせるものだからである。
私たちが牛や馬などの動物を前にして、その動物を幸福であると決していわないのはそれゆえである。動物たちがこのような政治的な活動にあずかることはできないからだし、同じ理由によって、年端もゆかぬ子どももこのような幸福を知ることはない。彼はその年齢による経験不足ゆえに、かかる種類の活動を行うことはできない。私たちのいう幸福であるためには、最高度のアレテーをもち、それが十全に発揮される必要があるからだ。
また反対に、幸福かどうかを判定するには、その生涯の終わりを待たねばならないこともある。つまり人の一生のうちには、幾多の紆余曲折、変転があり、想定外の運不運が生じるものだ。どれだけ栄華をきわめた者でも、たとえばトロイアの王プリアモスのように、その生涯を悲惨な変事で終える者もいる。このように不慮の災難に遭遇し、惨めな死に方をした者を幸福な人間とは呼ばないのが世の常であろう。
超訳『ニコマコス倫理学』第1巻 第9章
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