『ハンナ・アーレント』、哲学と煙草と映画と

140114.jpg 久々の映画備忘録。『ハンナ・アーレント』(マルガレーテ・フォン・トロッタ監督)を、やっと見ることができた。
 この映画は、私にとって見るのになかなかつらいものがあった。私でなくとも、ある人々にとっては目に毒なシーンの連続なので注意が必要だ。
 つらいというのは、この映画がナチスによるユダヤ人虐殺を思い出させたり、「悪の凡庸さ」すなわち平凡なわれわれ誰にでも悪を行う可能性があることを考えさせられるからというのではない。
 そういう「つらさ」を回避してはならぬというメッセージ性でいえば、この映画はむしろ予想通りの(予想の範囲内の)「良い映画」であったというべきだろう。全体主義や偏狭なポピュリズムを乗り越え普遍主義をめざす……みたいな、アリストテレス的理想擁護には心地よく組みしたい気持ちにもなった(アレントの思想自体がアリストテレスをどう読むかを軸に展開されていたらしいことは意外と知られていない。初期のハイデッガーにとってそうだったのだから当然といえば当然のことといえるのだが)。
 私にとって予想外のつらさを感じた原因は、そんな「本論」とは別にある。
 それは、、、煙草である。この映画、描かれた時代背景もあるとはいえ、あらゆるシーンで人が滅多矢鱈と煙草をのむ(吸う)のである。口から出るのは言葉だけじゃなくて、煙も一緒という具合。セリフ以外に、出演している役者たちは煙草をふかすかキスするかの演技しかもとめられていないのではないかと思いたくなるほどだ。
 じっさいハンナ・アレントも相当な愛煙家だったのか、映画のなかでも煙草を指からはなさない。彼女が煙草を一本取り出して火をつける。これは見るものに対して、なにか本質的で重要なことを考える、あるいは喋るぞという合図になるである。煙草を吸いながら大学で講義をするシーンなどもあるが、現代の若い人には目をうたがうような信じがたい光景に映るだろう。
 かくいう私も2年ほど前まではヘビースモーカーだった。喫煙経験のある人はわかるだろうが、煙草というものは他人が吸っているのを見ると脳のミラーニューロンが活性化して(まさに引火して)、反射的に吸いたくなるものである。だからこの映画、禁煙中の人には見ているのがなんともつらくなる映画なのである。
 私は昔から哲学(者)つまり考えることと煙草(やパイプ、煙)は切り離せないという偏向したイメージをもっていたし、映画と煙草にもなにかのっぴきならない関係性を感じてもいた。ことに近年の映画で、「煙草」をどう扱うかは興味の対象ともなることが多い(その点、大好きなジャ・ジャンクーの数年前の傑作『長江哀歌』は見事で感動的な例だが、話が長くなるのでここでは触れない)。
 この映画を、今世紀に入ってからなおさらに力を増しつづける、紋切り型の禁煙イデオロギーに対する異論ととるのは穿ち過ぎの見方かもしれないけど、いえるのは、なにが善か悪か、正常か狂気か、是か非なのかを単純に(凡庸に)決めつけないで、「考えつづける」姿勢(ヘクシス)を持続することこそ哲学なのかもしれないということ、かな。
 ……ああ、煙草が吸いたい(このポスターの写真がブレているのは禁煙による禁断症状のため、、、嘘です。岩波ホールじゃないのに、人は結構入ってました。この前火災があったたばかりの有楽町駅そばのビルにある映画館で)。


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