第5章
先にも述べたが、世間一般の人々にとっての善(よきこと)とか幸福とかは、ひとことでいえば快楽(ヘードネー)にほかならないだろう。それも無理からぬところで、ほとんどの人は快適で享楽的な生活を好んでいるものだからである。というのも、人間の主な生き方、「生」のかたちには3種類あって、いまいった一般的な生と、政治的な生、そして観照(「神」の認識、テオリア)的な生である。
快をもとめる一般の人々は、いうなれば動物的生のあり方と変らぬ生活を選択しているのであって、自ら自然的欲求に対する奴隷的な人間であることを明かしているようなものである。われわれは奴隷とちがうという地位の高い人々だって同様で、単に、アッシリアの伝説の王サルダナバロスの嗜好を共有しているのだと表向きを取り繕っているにすぎない。
一般の人より洗練された見識をもち、社会的な活動をしている人たち、すなわち政治的人間に関していうと、彼らにとって善であり幸福とは名誉を得ることである。名誉をあたえられることが政治的に生きることの目的であり成果のようなものだから。しかし、それも私たちがもとめている善というには、あまりに底の浅いうわっつらのものにすぎない。むしろ、名誉はそれを受ける人より、それを授ける人に属するものであり、私たちの考える善は、その人自身から発するものであり、簡単に他人があたえることなどできないものだからである。
さらにいえば、人は自分が善なる人間であるといわれ、自分でもそう思いたいがゆえに、名誉を追い求めるところがあるような気がする。つまり、他の優れた人々から自分のことを誉めてもらうことで、多くの人に認めてもらい、それは自分が卓越した能力(徳、アレテー)をそなえた人間であることを自他に示したいからにほかなるまい。ということはすなわち、アレテーは彼らにとって、よりよい(より善なる)ものであるということである。
そのため、彼らにならって、人は政治的に生きることの目的はアレテーにこそあると考えるかもしれない。だが、それも、そう断じるのは早計である。なぜなら、優れたアレテーを有しながら、それを眠らせたまま一生を無益に終えることもあるのだし、このような有徳の人が思わぬ災難に遭遇し不幸になることだってありうるからだ。それでも私は幸福だと当人が意固地に言い張らないかぎり、そのような人を誰も幸福な人とは呼ばないだろう。
しかし、このことは他でも論じたので、もう十分である。観照的な生(人生、生活)のあり方を、三つめの善、すなわち幸福として考えねばならぬが、それはまた、あとで考察することにしよう。
蓄財的生活、つまり金儲けを主な目的とする人生は、本来いわば外部的要因により、外からの必要に応じて営まれるものである。すなわち、富が私たちのもとめる善でないことは、これまた明らかである。富は他の何かの手段であり、何かの役に立てるためのもの、富以外のもののために存在するものでしかない。まだしも、それ自体のゆえに好まれるのだから、人は前にあげた快楽とか名誉とかを目的とすべきであるとしたほうがよいだろう。しかし、これも究極的な目的にはならず、私たちにとっての善=幸福でないことは明らかである。それがなぜかはすでに述べたので、ここでもう説明の必要はなかろう。
超読解『ニコマコス倫理学』第1巻 第5章
投稿者:
タグ:
コメント
“超読解『ニコマコス倫理学』第1巻 第5章” への1件のコメント
-
『ニコマコス倫理学』 第1巻 第5章 《小川雄造・私/試訳》
第5章
<善は愉楽であり名誉であり富であるという通俗的な見解に関する議論。観照の人生という第4の人生に関しては、後ほどの議論にとっておく>
しかし、我々がわき道にそれてしまった地点から我々の議論を再開してみよう。
人々が営む人生/生活から判断すると、殆どの人(それに、最も無教養なタイプ人々)は(無根拠ではなく)善もしくは幸福を愉楽と結びつけているようにみえる。このことは、何故我々が享楽の人生を愛するかの理由でもある。
我々は丁度今述べた(愉楽や富・名誉の)生活、政治的生活、第3の瞑想的生活という3つの特徴的なタイプの生活があると言ってもよい。
さて、殆どの人間は明らかにその嗜好において奴隷的なので、獣に相応しいような生活/人生を好むが、高位な人々はサルダナバラスの嗜好を共有するという事実から、その見解についての根拠を持っている。
卓越した生活のタイプについての考察は、より高い洗練さをそなえ活動的な性格の人々は、幸福を名誉と結びつけるということを示している。というのは、それがおおよそで言えば、政治的生活の目的だから。
しかし、我々が探し求めているものとしては、それは余りに表面的過ぎるように見える。
というのは、名誉はそれを受ける人よりもそれを授ける人次第であると考えられ、しかも我々が探し求める善は何か自分自身のものであり、たやすくは他から受け取れるものではないから。
更に言えば、人は自己の功績を保証するために名誉を追い求めるように見える。少なくとも、栄誉を授けられることを求めるのは、実際的な賢明さをもつ人によるし、そのことを知る人たちの間で自身の徳に基づいてのことである。そして、明らかに彼らによれば、いづれにしても徳はより良いものである。
そして多分、人は名誉よりも徳が政治的生活の目的であるべきだとさえ思うかもしれない。
しかし、これさえもいくらか不完全に見える。というのは、徳の所有は、実際のところ眠っているか、生涯に亘っての不活動と矛盾しないし、更には最大の受難や不幸と適合する。
しかし、彼が如何なる犠牲の上にもその主題を維持しようとしていない限り、そのように生きている人のことは、だれも幸福とは言わない。
しかし、これでもう十分だ、というのはこの主題は通俗的な議論に至るまでに十分に扱われたから。
三番目として、観照的生活が来るがそれは後ほど考えよう。
金儲けに熱心な人生は、強いられて始められるものであり、富は明らかに我々が求めている善ではない。
というのは、それは単に有用なだけで、他の何かを目的とするものである。
そして、人はむしろ前述のものを目的であるべきと捉える。というのは、それ自身の為に好まれているから。
しかし、これらさえも目的でないのは明らかである。
これまで、それらの支えのもとで多くの議論が浪費された。
それで、もうこの議題については止めよう。
コメントを残す