超読解『ニコマコス倫理学』第1巻 第4章

 第4章
 さて、話をもとに戻そう。はじめに、どんな知識も選択的行為も、そのことごとくが何らかの善を欲し、求めていると述べた。では、もしそうだとすると、すべてを統べる政治が目標として希求する善、すなわち、私たちが追い求め達成することを願う最高の善とは何だろう。
 おおよそのところで、その答えは一致しているのではなかろうか。政治家であろうが、一般市民であろうが、どんな人間にとってもそれは「幸福(エウダイモーニア)」にほかならない。さらにいえば、「よく生きる(エウ・ゼーン)」ことと、「せいいっぱいやる(エウ・ブラッテイン)」ことが「幸福である(エウダイモーネイン)」というのと同義であるとする点においても、人はみな一致していると思われる。
 しかし、では、その「幸福」とは何かということになると、見解は一致するどころか人によってまちまちだし、一般の人と政治家や知識人たちでは幸福のイメージはかなりちがう。
 一般の人々は、直接的で現実的なわかりやすい事例をあげる。たとえば感覚を満たす快楽であるとか、富とか名誉とかである。しかも、同じ人がその置かれた状況によって、何を幸福とするかまったく異なることもある。誰にも身に覚えがあるだろうが、病気のときは健康を、貧しいときにはお金をそれとして挙げるような場合である。彼らはまた、自分自身の無知と狭量さを自覚するときがあり、そんなときは、自分の能力の範囲を越えた、なにかしら偉大な企図を成し遂げようとする人々に感嘆したりするものである。
 その一方でアカデミアに属する一部の賢い人たちは、このような個々の多くの善とは別に、それらの善の大元となる善、それ自体が善である善、いうなれば善のイデアがあると考えている。——しかし、いまここで、ありとあらゆる善に関する考えを吟味することはあまり意義のあることではないだろう。私たちとしては、善に関してもっとも広く行き渡っていると思える考えや、それなりに理にかなうとされている説を検討することとしよう。
 また、 私たちは、すべての元となる源(アルケー)から発する議論と、源へ向かってすすむ議論とのちがいをわきまえねばばならない。やはりプラトンが原理からはじめてそれを敷延させる議論の道筋と、原理に向かって物事をたどり収斂していく道筋、競技のさいスタートラインから終点へ走る場合と、最終地点から反対の始点の方向へ走る場合との区別をつけるのももっともなこととされるが、さて、いかがなものであろう。
 私はといえば、思うに、どんなことに対しても私たちは明らかなことから取り組まなければならないと考えている。明らかなこととは、いってみれば「真実」であり、しかも、それには二通りある。私たちが生きている「この現実」にある真実と、普遍的かつ無条件にその原型としてあるとされる真実の二つである。
 そこで私にいわせれば、私たちにとって私たちの生きているこの現実の生活における事柄こそが始点であり、この講義はそこからはじめるべきなである。私のいう意味で政治学的な、すなわち興味深く、正しいと思われる事柄全般について講義を行うためには、生きているうえで習慣的に身につけたことの先導が必要なのだ。つまり、ここでは何をなすべきか、そのなすべきことを出発点とするならば、そして、そのなすべきことが何か明らかにわかっているのなら、なぜそれをなすべきなのかという原点的理由を議論する手間がはぶけるからである。
 なすべきことを日々の行いとして身につけている人は、なぜそれをするのか、すでにその根本的理由を「知っている」のだ。あるいは、そうしようと思えばその理由を容易に理解できるのである。もし諸君が、自分はそれほどできた人間でないというのなら、ヘシオドスの次の言葉を肝に命じておいてほしい。
 最高なのは、自分自身ですべてを知ることのできる人
 また、他人が口にするよき言葉に従う人も立派だ
 だけど、自分でわかろうともせず
 よき言葉を聴いても心にとめない人は
 もう救いようがない


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“超読解『ニコマコス倫理学』第1巻 第4章” への1件のコメント

  1. izのアバター
    iz

    『ニコマコス倫理学』 第1巻 第4章 《小川雄造・私/試訳》
    第4章 人間にとって“善”とは何か
      
     <それは一般には幸福だと合意されている。しかし「幸福とは何か」に関しては 様々な見解がある。
     始めるにあたって必要とされているのは、例えば良い生まれなどから派生する事実に関する不合理な確信である。>
     さて、我々の探求するところに立ち返って、総ての知識やあらゆる行動/追求は何らかの善を目指すという事実から考えて、我々が言うところの政治学が目指すものは何かとか、行為が到達可能な総ての善のうちでの最高位のものは何かということに言及してみよう。
     言うなれば、極めて一般的な了解事項がある。並みの人でも最上級の人々も、ともにそれは幸福だと言う。
     そして、良く生き上手く暮らすことを幸福と結びつける。しかし幸福とは何であるかに関しては、彼らは意見を異にする。そして、多くの人々は賢人の考えに同意しない。
     多くの人々は幸福を快楽、富、名誉などの何か単純で明白なものと考える。しかしながら、彼らは一人ひとり異なっている。そして、しばしば同じ人でさえ彼が病の時には健康に、貧しいときには富にといったようにそれを異なったものと結びつける。
     しかし、自らの無知を自覚しつつ、彼らは自らの理解を超えた偉大なことを宣言する人に敬服する。
     さて、或る種の人々はこれらの多くの善を離れて、それ自体が善で、その上それらすべての“善”の原因ともなる何物かがあると考えている。
     考えられる見解の総てを検証するのは多分なにがしか無益なことであり、最も普及しているものや尤もらしく見えるものを検証するので十分である。
     しかしながら、第一原理とそこから派生する議論/論拠には違いがあることを気づき忘れないようにしよう。
     というのはまた、プラトンはこの問題を提起し、彼がいつもしていたように「我々は第一原理に向かっているのか、そこから離れている途上なのか?」と問うていたことは正しかったのだ。
     それは、競技場において審判者から折り返し点に向かう走路かその帰路かで違いがあるのと同じである。
     我々は明白なことから始めるべきだが、ことは二つの観点で明白である。
     あるものは、我々にとって明白であり、あるものは無条件で明白である。
     それで、おそらく我々は我々にとって明白なことから始めなければならない。
     何が高貴で正義であるかについて、そして一般的には政治学の主題/問題についての講義に聡明にも聴講すべき人は、善い習慣で養育されて来なければばらない。
     というのは、事実が出発点であり、そのことが彼にとっては十分に明白なことであるなら、彼にはその上にも理由/根拠は必要ではない。そして、良く育てられた人は容易に出発点を得ることができる。
     そして、出発点を持っていない、または持ちえない人には、ヘシオドスの言葉を聞かせよう。
     最もよい人は、総てのことを自身で知っている人
     良いのは、人が正しく忠告する時に、注意深く聴く人
     しかし、自身も知らず、人の知恵にも耳を傾けないひとは無用の輩

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