「海の日」で休みのとれた16日の真昼時、私は炎天下の東京・代々木公園にいた。
人の海——。こんな光景を目の当たりにするのは、ほんとに久々である。同世代の「呼びかけ人」のひとりも述べていたように、40年ほど前、70年安保のときに、この公園で同じように大勢の人々にまじって、そのなかに身を置いて以来のことだ。当時は高校生(浪人生だったかな?)の身分で、ノンポリを表明し、当然ノンセクトだった私は(あらゆる集団行動が嫌いだった)、しかし好奇心もあって誰か「活動家」の友人に誘われて来たのだった(と記憶している)。
16日も、どちらかというと好奇心が先行した。しかし、原宿駅を降り大勢の人々にまじって会場に向かって歩きながら、私はいささか興奮し、感動していた。小さな子どもからお年寄りまで、文字通り老若男女が入り混じる多種多様な「一般市民」が、程度の差はあれ、ひとつの「同じ」必死の思いのもとに、全国方々、さまざまな地点からある特定のポイントに向けて黙々と参集してくる、私もその一人であるという事実には、なんというか、やはり心動かされるものがあった。強い陽射しの下、帽子をかぶっている人は多かったが、40年前とちがい、さすがにヘルメット姿はみかけない。日傘の女性もたくさんいた。
その日の夜のテレビニュースや翌日の新聞などでも、この「さようなら原発」の集会のことは報道されたので、ここでなにがあったかは、あえて述べるまでもなくご存知のことだろうと思う(それらの報道の一面性はあまり真に受けないでほしいのだけど)。ここでは、この目と耳と肌でこそ感じられたその「場のリアリティ」には、さまざまな想像を広げ、そこにないものへと思考をめぐらせるうえでも、なかなかに得難いものがあったことを強調するにとどめておきたい(大胆不敵な省略法!?)。
家に帰ってから気がついたが、腕が日焼けしていた。公園内では帽子をかぶり、Tシャツの上に薄手の長袖シャツを腕まくりして着ていたのだが、そのまくって露出していた腕の部分が見事に赤くなっている。家人に顔も焼けていると言われた。まさに猛暑の一日だったが、熱中症の心配はしたものの、日焼けのことなどまったく考えもしなかった。炎天下の長時間外出は滅多にしないし、とっくの昔に海水浴という夏の慣習もなくなっていたから、当然のことかもしれない。しかし、この日焼けは嫌な気がしなかった。子どものころには、海に泳ぎにいって真赤に日焼けした肌が、都会っ子の私にとってひとつの勲章のように思えたものだった。私にとって、2012年の予期せぬ「海の日」となった。
ほぼ40年ぶり、代々木公園で
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コメント
“ほぼ40年ぶり、代々木公園で” への2件のフィードバック
石井様
本当に暑い中、お疲れさまでした。
毎金曜日夜の首相官邸といい このたびの代々木公園といい、やはり
これまでとは全く違った状況が起こりつつあるようですが、それを
まさに現地現物で実感/体感されてこられたようですね、、、、
<この辺りのことは、今日の朝日朝刊での小熊英二氏の対話記事やダイヤモンド
オンラインでの田中秀征氏の記事が かなり正確に分析・紹介しています。>
どちらにしても、昨年の3・11以降 日本は本当の崖っぷちに来て どうやら
確実に変わりつつあるようです、、、、
庵頓亭主人
そうですね、いちばん崖っぷちにあるのは、「言葉」なのではないでしょうか。たとえば、テレビニュースをつけると聞こえてくる政治家や電力会社やなんとか委員会のお偉方がしゃべる言葉、これほど言葉が空々しく響く時代はなかったのではないか。みえみえの嘘、いつわりの言葉をまき散らし、性懲りもなくそれを「方針」「政策」として押し通してしまう破廉恥さ。嘘が露見したら、「すいませんでした」とあやまれば済むと思っている、いや済んだことにしてしまい、数日もしたら、またまた嘘を繰り返し重ねる鉄面皮ぶり。安全にすれば安全ですから安全だ、約束すると約束しますと約束しましょうというような、論理もへったくれもない人を馬鹿にしっきった同語反復の新手のオレオレ詐欺。言葉から「リアリティ」がどんどん失われている。いまの日本という肉体=言葉から、血=リアリティが流れ出して止まらない状態なんだと思います。このままだと出血多量で死は間近。そんな言葉の状況はテレビドラマにも波及しています。たまたま戦後の蒲田が舞台というので見ている朝ドラ。このドラマの役者たちのしゃべるセリフがひどい、ひどすぎる。言い訳じみた説明的セリフというばかりでなく、あまりに空疎で、なんの説得性も面白みもない。役者のせいではないにしろ、こんなんで人が感心したり感動したりすると思っているのかと、見ていてイライラするばっかり。っていうか、これはドラマの悪口ではなく、政治や、その判断・決定が社会に大きな影響力を持つ責任ある人間が口にする言葉が、できの悪いドラマの台詞以上ににひどすぎると言いたいだけです。かつて「言葉が売春している」といったフランスの詩人がいます。言葉=魂をお金で売渡し、人間の「高貴さ」といったものをあまりに無自覚に蹂躙する。・・・これが、こんな言葉をめぐる状況が、マジにヤバイと思います。救いは、こんな嘘、偽りがどうどうとまかり通ってきた社会のおかしさに気づき、これはほんとにマズイ、小手先ではなく根本から変えなければならないと思いはじめた人々が徐々にでも増えてきたという点でしょう。そのためには、大切とされてきたあるものを捨てる覚悟ができてきたのではないか。私はかつて夢中で読んだ『指輪物語』をついつい思い起こします。いまこそ、それを持つことで欲望と権力を思いのままにできるという指輪(リング)を、崖っぷちから、私たち自身が勇気をもって火口に投げ捨てるときなのです。