5.22●『M』(フリッツ・ラング監督 1931年)
思っていたより何だか「おかしな」映画だ。さほどスリラー仕立てのものではなく、偏執的殺人狂のキャラが、ちょっと奇妙で無気味ではあるが、あまり悪いやつに見えない。少女たちよりも、彼のほうが気弱そうで、何かに怯えている感じ。
本筋とは関係ないけど、見ている途中で、これはやたら煙たい映画だな、と思った。煙草は一昔前まで映画に欠かせない小道具だったが、この映画は煙草を吸う人の仕草を描くというより、その煙草の煙の量のすごさを描いている。犯人捜査の「会議」のときの部屋に、火事じゃないかと思えるくらいに煙が充満するのだ。昔は人が集まるとじっさいこうだったにしろ、画面を覆わんばかり、人を判別できないほどのあの煙の量は半端じゃない。どうでもいいことかもしれないけど、私が子どものころ、スクリーンのなかのスターたちだけでなく、映画を見ながら観客は煙草を吸っていたものだ。館内は煙がたちこめ、その煙のなかを映写機から投射される光線が束となって貫いていた。
それにしても、あの犯罪者や奇術師の「組合」って何だろう? 彼らが裁判を行ったりして。警察と容疑者とこの集団の三角関係がおもしろい。ブレヒト劇と何か関連するのだろうか。精神分析的な作品というより、きわめて社会学的な映画なのかもしれない。個人の異常心理というより、集団(群衆)の心理。時代を考えると、いろいろ「深読み」できそうだが……。ゴダールが『映画史』で取り上げている。『映画史』も、その煙草(と葉巻)の消費量は相当なものだ。
5.23●『普通じゃない』(ダニー・ボイル監督 ユアン・マクレガー、キャメロン・ディアス主演 1997年)
『ナイト&デイ』の普通じゃないトム・クルーズが普通のユアン・マクレガーに変ったような作品(こっちのほうが古い作だけど)。恋愛に普通じゃない冒険を求め、冒険に普通の恋愛を求めるキャメロン・ディアスの「普通じゃない」女性の超普通な役柄は、その「天然ボケ」ぶりとともになかなかにいい味! と、なにをいってんのやら。要は「恋」とは、ハラハラドキドキの普通じゃない体験のことを指す言葉なんだ!ということ(!?)。
5.24●『映画史 2–B 命がけの美』(J.L.ゴダール監督 1994–1998年)
『映画史』を見ながら、日本語で一単語に置き換えづらいフランス語の「Histoire(イストワール)」という言葉の意味の多重性、複数性(Histoire(s)とゴダールは書く)を考える。歴史である物語。物語である歴史。語られたとき、歴史はすでに物語である。取り合えず、歴史とはひとつの(事実の)物語であり、物語とはひとつの(架空の)歴史である、と言ってみる。とすると、前者がドキュメンタリーで後者がフィクション、ということになる、かな? ドキュメンタリーとフィクション自体に、両者を明確に分ける線を引くことはできないけど。
ところで、「命がけの美」とは「痙攣する美」だよなぁ。
5.27●『ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バード監督 トム・クルーズ主演 2011年)
007シリーズと同様に、新作となるとつい見てしまう。今作は、敵側のあの女の殺し屋に、ことさらに際立ったところがないにも拘らず、ちょっと不思議な魅力を感じた。
5.29●『猟奇的な彼女』(クァク・ジョエン監督 2001年)
これも二度ほど借りては見れずに返却していた作品。内田樹氏が『いきなりはじめる仏教入門』で推薦していて、先日これを読んだのを縁に再度のレンタル。たしかに、とてもいい話!だ。恋愛における、出会いの宿命性。韓国ドラマお得意の誇張した役柄と演出だが、でも、ごく稀にだけど、こういうことってあるよな〜、って思わせてくれる清々しい秀作。
5.30●『上海特急』(ジョセフ・スタンバーグ監督 マレーネ・ディートリッヒ主演 1932年)
映画と汽車。ヒッチコックの『バルカン超特急』を想起したが、作劇術は数段この『バルカン超特急』が面白くて格上。「売り」は上海リリー=ディートリッヒなのだろうが、全体にあまり見どころを感じなかった。唯一、機関車が猥雑な狭い中国の町の通りいっぱいに画面の奥(上方)から進入してくるシーンは、おおって感じで一瞬の間視線を釘付けされたくらい、かな。
5.31●『汚名』(アルフレッド・ヒッチコック監督 1946年)
見るのはたしか二度目だが、ほとんど前に見たときの記憶が残っていない。作品自体も、主演のイングリット・バーグマンも、ケーリー・グラントも、ヒッチコックのなかでも他の作品のほうが印象的だったからか。しかし、これだけの質の高い作品を数多く「創りつづける」ことのできる(つまり、ほとんど「はずれ」のない)映画監督は、たしかに希少であろう。ヒッチコックの「すべて」の作品にヒッチコックの名が刻印されている。『サイコ』のように「強い(恐い)母親」の主題が仕込まれているのも面白かった。
6.1●『生きるべきか死ぬべきか』(エルンスト・ルビッチ監督 1944年)
見ていて、ついついタランティーノの『イングロリアス・バスターズ』を想起してしまう。「敵」はナチス(ヒトラー)で、場所は劇場、「名もなき」者たちと敵とのだましあい……。素朴な連想かもしれないが、ともにスタイリッシュだし。少なくとも、タランティーノはこの『生きるべきか死ぬべきか』を「お手本」のひとつにしていることはたしかなのでは。
6.2●『クライ・ベイビー』(ジョン・ウォーターズ監督 ジョニー・デップ主演 1990年)
「バッド・テイスト(悪趣味)」で名高いジョン・ウォーターズを見るのは初。やはり内田樹氏が『うほほいシネクラブ』で彼をベタホメしていたのと、ジョニー・デップ初主演であること(ジョニー・デップはほぼみんな見ているのに、これは「未」だったので)に惹かれて。DVDがたまたまブック・オフで目にとまって、迷うことなく購入。
見てみてどうだったか。ここでは、ともかく、サイコー!とだけ言っておこう。他の作はどうか知らないし、あまりにエゲツナイものを好んで見る趣味はないが、少なくともこの『クライ・ベイビー』に関しては、始まりの学校での予防注射のシーンからジョニー・デップが登場するあたりで一気に引き込まれてしまった。あとはその映像と歌の「テンポ」に乗っていくまま。この「おバカ」ちゃんたちの説明抜きの美学は、理屈抜き(というか理屈前)に楽しくて愉快爽快!
6.3●『テルマエ・ロマエ』(武内英樹監督 阿部寛主演 2012年)
北越谷のレイク・タウン内のシネコンで。レイク・タウンの店で買いたい物があったので、ついでに。『クライ・ベイビー』のノリで、なにか「おバカ」なのを見たくて。ジョニー・デップ主演のティム・バートン新作『ダーク・シャドウ』を見たかったが、その時間帯は吹替え版しか上映がなかったので。『テルマエ・ロマエ』の着想の意外性と面白さは、ヤマザキマリの原作マンガを読んでいない人ほど「えっ何!?」って感じであっけにとられ、思いっきり笑えるだろう。私はこのマンガのファンで、第1巻が出たときから読んでいたので……。
6.4●『近松物語』(溝口健二監督 長谷川一夫、香川京子主演 1954年)
溝口作品は『雨月物語』『西鶴一代女』を含め数作しか知らなかった私にとって、この2か月ほどの時間は、総じて私自身の溝口健二「再発見」の眼による旅だったともいえそうだ(いまも、つづいているが)。たとえばこの『近松物語』にも漂う、見る者の眼を画面に引きつけて離さないこの力。魅力あるいは魔力ともいうべきこの不思議な力はいったい何なのだろう。映画に魅了されるというが、では、私たちは映画の何に魅了されるのだろうか。
良質の映画を見るとき、私たちは「顔のない眼」と化しているのではないか。それこそが映画の力であり、映画を見るという体験であり、見ることのひとつの意味であろう。
映画備忘録(5.22〜6.4)
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