2月25日に牛込柳町の自宅で死去した義父(橋口幸男)の遺品のなかに、『思(い)出のアルバム集』という文集があった。文集は若い頃の思い出を綴った作文4編で構成されているのだが、ここにそのうちの1編「戦災記」を紹介したい。
それは長い時の経過を標すように、うっすらと火で焙ったように茶色く変色し、丁寧に扱わなければ簡単に破れ散ってしまいそうな200字詰めの原稿用紙に、黒の細いインクの字で几帳面に書かれている。文字でびっしりと埋まった4編合わせておよそ100枚くらいの原稿用紙の上部は紙の紐で綴じてある。おそらく自分の手で綴じたのだろうその丹念さに、これを記録し遺しておきたいという義父の意思を感じとることができる。
今回の本欄への掲載は、デジタル化して義父の思い出を留めたいという私の思いとともに、この個人による戦争の記録を少しでも広く長く伝えたいという、「(市井に生きる)一般人」としておそらく義父がささやかに抱いていただろう平和への意思と幸福への願いを汲んでのことである。
ブログとしては相当に長くなってしまうが、あえて分載せずに「戦災記」の全文をここに掲載する。この記録は昭和20年の「東京大空襲」のさいの東京の早稲田近辺のことが書かれている。この年の3月10日、4月13日、4月15日、5月25日、かつてない規模の被害を東京にもたらした爆撃がアメリカ軍によって行われた。「東京大空襲」とは通常、なかでも最も大きな被害があったとされる3月10日を指すことが多いが、この「戦災記」は5月25日のやはり大きな空襲により、義父がその父母を亡くしたときの体験が記されている(ちなみに本文中に「達雄」とあるのは、義父の兄のことである)。
この「戦災記」を一文字ずつキーボードで打ち込みデジタル化するにあたり、基本はできるだけ原稿(原文)に忠実であることを心掛けた。しかし、以下の点に修整を加えたことを断わりとして記しておく。
1)手書きの原文は改行がなく、原稿用紙の升目にびっしりと書かれているが、読みやすさを考慮して、私の判断で全編に適宜改行(一行アキ)を施した。
2)原文は句読点、とくに読点がほとんどないが、これもところどころ補った。
3)文字の表記もできるだけ原文に忠実であることを心掛けたが、明らかな誤りは正すと同時に、若干現代的表記に換えた文字もある。
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[ 戦災記 二〇・五・二五〜二六 ]
朝八時頃研究所へ行く。父も母も朝がゆっくりで良いと喜んでいた。別に仕事もなく、午後から慰安会があるので正午帰宅しようとしたら警戒警報が発令され、間もなく空襲警報が発令された。小型機が来襲、立川方面を銃爆撃しつつあった。空中戦を演じている。一時間ばかりで解除となる。直ちに友人と一緒に帰る。途中、新宿文化に寄って『サヨンの鐘』、及び武蔵野館へ寄って『残菊物語』等を見て帰る。
家についたのは夕方になってしまった。兄は夕方から僕の制服を着て切符買いに出て行った。父は夕方帰って来て前の畑から掘り出した物品(主にフトン類)をカブト屋あとの防空壕に移す。暗くなるまでかかってやっと移し終る。その後暫くして兄が帰って来たので早速夕飯にする。今日は兄の満二十七年の誕生日にあたる日なので、ささやかながらも楽しい夕食を餌(ママ)った。食後テーブルを囲んで皆で紅茶を飲む。兄が持って来た(多分四月頃来た時に持ってきたものだろう)砂糖を入れて飲んだので実に美味しかった。暫く雑談の後、父母のフトンを引いて(ママ)から二階へ上って月を眺めながらハモニカを吹く。いいなあー実に静かな晩だ。
階下から父が「達雄–」。二声目は大きく「達雄!!」。「えー?」「碁どん打たんかい」「うん今日は打ちたくないや」。あきらめたとみえてまた静まり返った。「……あーあ白菊あー白〜菊」どうも最後がうまく吹けない。何回も最終部をやりなおした。すると又階下から「達雄–達雄!!」「うん?」「碁どん打たんかい」「うん明日が早いから今日は寝かして呉れ」。如何にも残念そうに父はひっこんだ。明日早く兄は隊へ帰らねばならぬので、最後の夜と吹いたり歌ったりして一時をたのしくすごす。私のフトンは西向き南側、兄のフトンは西向きで北側。
突然「ブー…」無気味にあたりの静けさを破ってサイレンが鳴り響いた。各家の電灯は一斉に消され、全くの沈黙状態となった。然し月があまりさえているので燈火管制の効力も餘りききそうにもない。時に二十二時十分。直ちに階下に降りる。母は体の調子が悪いのでまだ床に入っていた。最近しきりに「達雄はどうしているかねー、もう一度逢って見たい」としきりに口ぐせの様に云っていた。それが叶って安心したせいか昨日あたりから急に体の調子が悪くなっていたのである。今まで張りつめた気持で喘ぎ喘ぎ辛抱して今日までやって来た母が兄に逢えた喜びと嬉しさに気持がゆるんで体の調子が悪くなったんだろう。全く母には頭が下った。よくぞ病身の身でありながら今日までやって呉れたと感謝し偉大な精神力に感服した。
今その母が床から起き上がれぬ程までに病勢悪化し、あわれな姿を見るにしのび難かった。すいません母よ! 私は直ちに荷物を防空壕まで運ぶ。兄は母に馬乗りになって按擦(ママ)をとってやっていた。実際良い子供をもったと両親は満足らしかった。それでいいのだ。私は嬉しかった。然しぐづぐづ(ママ)してはいられなかった。済まないとは思ったが母を抱き起こして着物を着せた。帯の中には貯金通帳その他現金をまきつけて肌身離さなかった。それでもよろよろよろめきながら防空壕へ一緒に行く。父は父で一人でそわそわしていた。普段の性質が良くあらわれていた。兄は武装を整え鉄兜をかぶりいさましくもたのもしい出立をして我が家の防衛につとめた。
其の時既に空襲警報発令され敵数機は頭上にあった。防空壕の中で三人しばらくだまっていた。抱き起す時に母が「死んでも良いからこのまま寝かしといて下さい」と精根尽きた母の声が耳にこびりついて取れなかった。兄は我が家を守るべく、私は父母を守るべく防空壕に入って敵の動静を見守った。
敵機の爆音漸くはげしくなる。時折防空壕より顔をだして空を仰ぐ。いるわいるわ、敵機味方機高射砲の響き騒然として来た。敵機の打ちだす機関砲実に奇観だった。依然敵機の後続目標は数を増しつつあるとの事、これはいかんと思った。父は母に按擦(ママ)取ってやっていた。そして時々「そがん外ばかり見とらんで中へ入らんかい、今日は何時もと違うから」。再三注意された。
突然「ヒューン」と弾か破片か分からぬものが頭上近くを通過した。思わず首をちぢめた。それから少しおじけがついて防空壕の中でおとなしくしていた。「お前少し肩をもんで上げなさい」と云うので代わってもんでやった。暫くして外(?)で歓声があがった。見れば綺麗に命中、火達磨となってなお飛び続けている。「お父さんお母さんちょっと見て御覧よ綺麗だから」少しはしゃいだ。「馬鹿に外が明るいね」と中から驚いた様な父母の声。父は防空壕から首を出した。「ほほう」。其のうち機首を換えて一直線にこちらへ迫って来る。今にも落ちそうな恰好で「危ない危ない」と人々の声・声。さっと防空壕の中に父はかくれる。私は平然?として断末魔を見極めんものと目を見張る(ママ)。然し、益々迫る。危ない頭上に落ちそうだと見る間に機首を下に向けたと思ったら真逆様、途中空中分解して真赤にあたりを染めて落ちていった。兄はこれを見に行く。
再び防空壕に入る。そしてしみじみ父母を眺める。実際毎日毎日空襲ではやり切れんだろう。特に弱い母をして父をみる度に何て不運な世にめぐり合わせたのか、母も心の中では泣いているだろう。本当だ、毎日毎日ぢゃなあ。何だか悲しくなった。
其の時だった。「シュルシュルパンパン」と大分近くに落ちた模様だった。間もなく警防団の人が「防火活動出来るものは皆出て活動せよ」との事。父母と共に防空壕を出る時、父の外套とラヂオと時計は必ず出して呉れとたのまれた。母は防空壕を出て、火の手の餘りに近いのに呆然として立ちすくんでしまった。そして云うには「どうすればいいの」と自分をつかまえてはなさぬ。此の様な場合は心を落着かす事がまず第一と思い、自分にはかまわないで「父と一緒に安全な所へ逃げなさい」と云い切った。母の目頭は赤くはれていた。厭世的涙か恐怖の涙か、あー。
かくして私は早速家へ行ったら奥から火の手が上っている。藤村家あたりに落ちたらしい。少し手が震える。早速庭先の防空壕に土をかぶせる。すると父が後ろから呼んだ。「早く外套を出してくれんかい」と叫ぶ。早速出してホーリ投げた。父が云うには「もうこうなったら逃げた方が安全だ。何しよるかい。早よう逃げんかい」。兄は云った。「其んな人ばかりだから火事を大きくするのだ」としかりつける様に云った。その時は既に上ってしまっていた。
母は防空壕の前でどうしているだろうと暫し考えた。然しそれもつかの間、火は目前に迫っていた。兄と私はバケツを持って奥へかけつける。皆既に消火につとめていた。火の手は藤村家あたりを境にその以北は火の海だった。寮の人達も一心に活躍した。堅さんと「とうとう来たなあ、頑張って消そうぜ」と励まし合った。田中さんの塀をたおす。井戸から水をどんどんくんで一生懸命消火につとめた。風は益々強くなる。しかも敵機は容赦なく投弾する。かくして必死の健闘にも拘らず火勢衰えず遂にあきらめて寮の人達は人員点呼、直ちに退避に移ろうとしていた。
私と兄は家の中に入って家中水びたしにした。引いてあったフトンもびっしょり、机の上の本もびっしょり。かくして父の云われた通りラヂオと時計を取りはずし前の畠に埋める。自分は一旦寮の人達と一緒に通までゆく。既に馬場下では火の海と化し、坂上も火の海、四面火の海と化した。ちょっと動揺す。三・四杯水を頭からかぶった。何のことはない、実際こうなると何てことはない。父母の姿は見えなかった。かくして又、我が家にもどる。兄と二人で再び奥へ行って消火につとめた。
火勢は益々猛威を揮い、魔の手は次第に拡張していった。三十分ばかり消したろうか息は苦しくなるし、とうとうあきらめた。見れば平松家あたりまで迫っていた。やむなくフトンをひきづりだし水にひたしてかぶって逃げる。前のお寺の中を奥へ逃げる。反町さんの所まで行って下を見るとまだ田中さんの所はもえていなかった。
ややあって又もや投弾、シュルシュルパンパン。其の時お寺に火がつく。遙か家を見れば火は刻々我が家に迫り大煙の中にあり。そして心から家に別れを告げた。嗚呼十有余年間住みなれし我が家は今まさに魔の手にのまれようとしている。神よ神よと祈れど無なし(ママ)。一瞬にして火達磨となる。あたり漸く煙に霞み、熱気は無気味に顔をなでてゆく。我が家よサラバ、泣きたくも泣き切れぬ。本よサラバ机よサラバ、ミシン、カマ、フトン、碁盤もサラバ。ああ、皆焼けゆく、残念無念なり。
かくして同所に居ることあたわず、火の手は次第に拡張し、遂にその場を去って安全地帯へ待避す。煙もうもうと立ちこめややもすると人影を失う。声を限りに唯一のたのみとするより手はなかった。反町家裏道を通り抜けて寺塚家前に出る。おお居る居る。避難民二十名程いた。ノドがからからにかわいていたので反町家で貰った水は実にうまかった。然し何時までもこうしてはいられなくなった。火は迫ってくる。暫く蹲った(ママ)後ダラダラ坂を上って陸軍病院に向け火の中をくぐってゆく。やっと達した室内も煙で一杯、息が苦しい、おまけに真っ暗だ。声をたよりにやっと明るい所へ出る。一時そこで休んで更に安全な所へ逃げる。
やっと落着いた。あー急に疲れが出て来た。然し目はさえて眠れぬ。洋服もびっしょり濡れているので寒い。燃え盛る火の側へ行って乾かす。かくして壕の中でほんの一寸眠った。別に夢も見ず目が覚めた。夜は白みかけていた。
火勢は大分衰えたが、それでも物凄い音だった。そして危険な所をヨケヨケ、まだくすぶっている材木の上をトンビトンビして歩く。学院に出る。見れば焼夷弾がブスブスささっているではないか。中には不発弾もあった。幾十本という焼夷弾が地上につきささって行く手をはばんだ。それをよけよけ行くと乾パンが落ちていたので鉄兜の中に入れる。進むにつれてその数を増し、兄と二人で一生懸命取る(拾う)。富も貧もあったものではない。ダットサンのところで消えていた。見ればダットサンは乾パンが一杯つまっていた。そこからこぼれ落ちたのだという事が分った。入るものには全部一杯つめこんで引上げた。
もう大分あたりは明るかったが煙で太陽が真赤に見える。無気味な色をした太陽を始めて見る。胸をわくわくさせながら我が家の前に達した。灰燼と化した中からまだチョロチョロ赤い舌を出して燃えていた。通りを横切って坂をおり防空壕に達す。父母よ健在であれ、唯それのみを念願していた。誰もいない。さてはと思ったが、絶対にそんなことはないと否定はしたものの心は落着かなかった。ややあって飯田さんが来る。父母の行方を聞いてみたが審らかでなかった。
兄と私は悄然として暫く佇んでいた。防空壕のふたの上には土がかぶせてあった。暫くして兄が「俺は一寸さがして来る」と云って出かけた。
早稲田大学はまだメラメラと燃え続けている。避難民が続々引上げて来た。原町町会がまず旗を先頭に帰って来た。臭気が鼻をつく。喜久井町町会も来た。この時こそ我が胸を躍らせて一心にみつめた。長い長い行列がゆき過ぎた。成城中学へ向け皆出発している。ついに見つからない。♬もしや坊やの父さんが帰って来たのじゃあるまいか♬の歌を思い出した。どこにいるのだろう。次に鶴巻町町会が来た。その中にも見あたらなかった。その中、兄がしょんぼりと帰ってきた。「いないなあ」。如何にも落胆した様にその声は元気がなかった。
さっきから臭気が鼻をつくと思ったら、地上には黒こげの塊がある。良く見れば人間ではないか。あすこにもここにも、あっちにもこっちにも黒こげ死体がゴロゴロしていた。思わずハッとした。「今度は僕が探して来る」と云って出かけた。
馬場下にも半死の人がうなっている。そこここに死体が横たわっている。もしやこの中にいるのではないかと思ったがいなかった。高田馬場あたりまで探した。朝飯は食べていなかったが緊張していたせいか別に苦痛はなかった。唯父母の健在なることのみ祈りつつ探し廻った。然し我も又兄と同様悄然として帰らざるを得なかった。代わって兄は又何処かへ探しにいった。
呆然として腰を下ろして休んでいると、昨夜の疲れか少し眠くなってウトウトするとそのすきにフトンと鉄兜の中の乾パンごと持っていかれた。隣の人が起して持去った方を教えてくれたので急いで取りにゆく。坂道をまたのぼり切らない所にリアカーに乗せてまだ居たのでひっつかまえて談判して取りかえして来た。何てたちの悪いやつだろう、うっかり眠れもせぬ。
兄はやっぱりしょんぼり又帰ってきた。隊へは帰らねばならず、かと云って弟一人を残してゆくのも不憫だと思ったのだろう。防空壕の中に入り、もしもの場合に備えて色々思索し相談する。そして「先ず俺は隊へ帰らねばならぬから誰かと一緒に壕でしばらく起居せねばならぬから、誰か良い人と一緒に居て貰おう」と云うので、飯田さんにそのことを話したら一も二もなく承諾してくれた。飯田さんも涙をながしていた。やはり父母は死んだのか。
兄は「如何なる苦難をも乗りこえて俺が再び帰ってくるまでは我慢して頑張ってくれ」と悲壮な決意を示し、叔父に書置きしてゆく。ああ我が父母は何処におわすか! 途中まで兄を見送る。兄は一途に父母の健在なることを祈りつつ別れをおしみ、振返り振返りだんだん小さく遠くなってゆく。私は後を見送りながら小さく小さくなるまで瞬きもせず見守った。兄よ兄よまた會う日まで頑張って頑張って頑張り抜きます。万一の事があっても大丈夫、覚悟は出来ていますと硬くその後ろ姿に誓ったのである。やがて曲がり角を曲がったので見えなくなり、やむなく防空壕に引きかえしたのである。
《後記》
その後判明した事であるが、公協(ママ)横穴式防空壕から掘りだされた死体は実に貮百五拾五名の尊き犠牲を出したのである。そしてその死体は近所のお寺に収容された。そして一般の人といっても未だ帰って来ない遺族の人に公開された。
時に五月二十七日、S君と一緒に見に行ったというよりも死を確かめに行った。S君の兄堅君、妹敏子さんは無念にも発見された。窒息死である。今日は発見できなかった。
あくる二十八日夕刻、I君とS君と三人でまた出かけた。一人一人注意深く探して歩いた。するとどうだろう。まぎれもなき父の死体を発見したのである。と同時にI君もS君も忠告した。自分は心の動揺を制しつつ平然として答えた。「父はもっと丈が大きかったぞ」と云うと、別に意義もなく「そうだなあ」と云った。然しこれこそ我が父であった。目のくぼみ、鼻梁(?)、左肩の上がり具合、肌着の毛の襦袢等をもってしても明瞭に父だった。ああ、慈父は目前に黒焼死体となって無残な最期を遂げていた。直ちにその場を去って他へ移った。
ああ、父はこの目で確認した。然しやさしき母の死体を発見できなかったことはかえすがえすも残念だ。かくして父は五十七年二百九拾六日、母は四拾八年六拾五日をもってはかなく人生を終る。我々は何をなすべきか!! 時計は十二時二十一分四十秒を指して止まっていた。永遠に忘れるなこの悲劇を!! 二二・八・十三(再完)
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左は原稿用紙の裏に描かれていた近辺の地図。
戦災記 《義父による「東京大空襲」の私的記録》
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“戦災記 《義父による「東京大空襲」の私的記録》” への2件のフィードバック
石井様
久しぶりの投稿に掲載された貴兄義父殿の『戦災記』を拝読し、感銘を
受けました。
我々の父母にあたる世代は 殆どの人が多かれ少なかれ 先の戦争を様様な
カタチで経験していると思いますが、文学や映画で描かれた戦争(空襲)と
身近な人がリアルに綴った体験記では圧倒的に切実さが違うと思われます。
<当「戦災記」を拝読していて、一昨年亡くなった叔母に 嘗て聞かされた
その空襲体験談の有様を 思い起こしました、、、>
<私の祖父/父の町工場も、確か20年5月の名古屋大空襲で灰燼に帰したと
聞かされております、、、、>
3月10日の大空襲は 荷風筆の偏奇館炎上記でも有名ですが、そのほかにも
本当に無数の羅災記録が存在することが改めて認識されました。
戦争(空襲)で肉親を失う悲惨さ無念さは とても表現できないくらい深刻な
ものだという筆者の思いが 行間からはひしひしと伝わって来ます、、、、
これらの文章には、余りにも大きな事実の重みが有り 他からの感想やコメント
などは一切無用なような気がします。
庵頓亭主人
真心のこもったコメントありがとうございます。「感想やコメントなど一切無用」という一言に感じ入りました。
横道として、ひとつだけ自分のことを付け加えておきます。
この「戦災記」の冒頭に『残菊物語』を見たという、さりげない記述があります。この映画の題名も、監督が溝口健二であることも知ってはいましたが、私はまだ見たことがありませんでした。
今から一週間ほど前のある日、レンタルビデオ・ショップをブラブラしていたら、棚に並んでいたこの作品が突然のように目に入ってきました。そして、これをひとつの縁とも思い、迷わずにレンタルして観てみました。
一言でいうと『残菊物語』は予想を超えたたいへんに素晴らしい作品で、映画の終盤では感動のあまり涙が出て止まりませんでした。
むろんその感動はこの「戦災記」の内容とはまったく無関係ですが、なんといえばよいのでしょう、ある時代には確かにあったと思える、人が人を思う気持ちと、それを許さない社会、それゆえの悲しみと孤独、しかしまた、それゆえの強さとやさしさ、、、文を通じて伝わってくる義父の人柄に、そんな共通した面を感じとってしまったということも確かにあったようにも思います(単純に、ここの数年は歳のせいか俄に涙もろくなっており、それだけのことかもしれませんが)。