テリー・ギリアムの『Dr.パルナサスの鏡』は、冒頭、巨大な山車のような「折り畳み式」の舞台が馬車に載って出てくるあたりから、もうたまらなく面白くって、アナログな機械仕掛けと、そのうす汚れた絢爛さに、一気に映画のなかに引き込まれ、想像力の導火線に火がつき、フェリーニ式の道化劇やサーカスを思い出して胸がさわぐし、なぜか、萩尾望都の『ポーの一族』巻頭の四輪馬車までが脳裏を走る。
呼び込みの口上とともに登場する役者たち、くり出される大道具小道具、舞台や衣装の意匠、ガジェットのたぐいがどれも蠱惑的、ランボーの称揚する安っぽい大衆的な美に誘惑されているのに、映画のなかの通行人は誰も見向きもしないからか、うち捨てられたガラクタだからこその「私的」親密性、その幻惑に抗うことがどうしてできるだろう。
さらには、浅草「花屋敷」や、江戸川乱歩の「パノラマ島」や、かつて熱に浮かされたように通ったテント芝居(紅テント!)を思い出し、ああいう見せ物風道具立てだけでも、郷愁が郷愁を誘い、狂気じみた遊びのオン・パレードに合わせ海馬が踊りだすため、このあたりの「連想ゲーム」のこたえは見る人によって様々だろうが、こんなおかしな見せ物世界に正面から手招きしてくれる作品は久しぶりのような気がする。
アメリカ生まれのイギリスの映画監督という些かひねた経歴をもつテリー・ギリアムの最初の映画作品は『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』で、その後も、『未来世紀ブラジル』『フィッシャー・キング』『12モンキーズ』『ブラザー・グリム』『ローズ・イン・タイドランド』、、、などなど、どれもそのお伽話的物語世界や疑似ヴィクトリア朝(そしてヴェネチア調)ともいうべき高貴さと下賤さが丁々発止とないまぜになった美術や、ユートピアとディストピアが回り舞台のように入れ替わる芝居仕立ての演出が好きでほぼみんな見ているけど、製作管理側とのトラブルも多く、まあこういう商業芸術の世界ではありがちなことだが、ときに「うまくいかなかったんだな」とちょっと落胆してしまう作もある(たとえば『バロン』)。
しかし、この『Dr.パルナサスの鏡』は、その面から見ても比較的うまくいったほうなんじゃないか、というのは、今回も主役の一人ヒース・レジャーが撮影中に急逝するなどの不幸に見舞われはしたが、結果的にタロットカード「吊られた男」のモチーフを活かすかのように不運を宙返りのアクロバットでかわし、全体のバランスもかろうじてとれているように感じるからか、話の展開にはちょっと大雑把すぎるところもあるけど、辻褄は見る側の想像力で合わせられる範囲、彼のおもちゃ箱的バロック世界は集大成的に全開! 他の作ではときどき、息切れした感じで、そのユーモアが通じにくくて退屈してしまうのもあるわけで、これはかろうじて尻切れトンボにならず物語の出口までたどり着け、鏡の向こうから帰還できたんじゃないかと思う次第で、この「かろうじて」っていう微妙に危うい感覚が、ギリアム・ファンとしては好きなところでもあるんだが。
鏡の向こうの夢のなかで駆使されるCGなんかを使ったヴィジュアル・イフェクツは、写実性の追求ではなくいかにもの嘘っぽい作り物感があってギリアムらしいし、日本映画も見栄でかっこばかりつけないで、こんなVFXの使い方を学んだらいいのにと思った(なかには『嫌われ松子の一生』などのようにちゃんと「わかって」遊んでる秀作もあるけど)のであって、ギリアムにはデジタル3Dなどやってほしくないし、本人も自覚しているからか、ラストの飛び出す絵本風の「紙芝居」は、見ようによっては人の空想力を優位においた3D批判ととれなくもない、というのは、ギリアムの映画の世界自体がすでにして、覗きからくりのような一個の立体である「箱」、ある意味、ジョセフ・コーネルの箱のように。
キャスティングにもいつも凝るギリアムだが、ヒース・レンジャーの急死によるジョニー・デップなど代役の飛び入り3人組(結果として4人1役!)はさておいても、悪魔役のトム・ウェイツ、パルナサス役のクリストファー・プラマーなど、見ていて思わずクスクスっとくる楽しさで、あの二人のちょっとくたびれた「引退間近」みたいな雰囲気が、なにかと疲れるいまの現実社会を鏡に映しているようだし、「偉大」になんかならないのが、ギリアムのいいところなんで、あのファニーな少女(=母)役の女優も悪くない。
・・・それにしても、こういう映画は、なによりもまず好きか嫌いかで評定するっきゃないんじゃないか、嫌いっていう人にいくら理屈で説得してもはじまらないわけで、でも、若い世代の人はどうなんだろうって感想を聞いてみたい気はするけど、世代を超えて共有できる「昔の思い出」が失われつつある今、郷愁さえ抱けずにあの「失われた楽園」を面白いと思えるんだろうかと考えてみると、あっ、でもコミックやゲームやカード遊戯があるか!? あのいかにも「子どもだまし」と揶揄されそうなマジカルな世界感覚は、カタチは変わっても世代を超えてずっと引き継がれていくものと思いたいところで、でもマズイのは身体感覚とつながった「経験」の場がなくなっているのかもしれないことであって、小さな経験さえあれば、いつだって子どもは好きでだまされるんだし、っていうことは、だまされることなんて承知のうえで、そのフェティッシュなモノへの固着を突き抜け、「それでいいのだ!」と肯定できてこそ人ははじめて大人になれるのかも、なんてただの願望にすぎないかもしれないが、そう願ってしまうのは、これまたなぜなんだろう、やはり、二次的、代理的経験の機会しかなくなってきていることへの不安があるからだろうか。
「幸せ」は、幼年期の「黄金時代」を追認することのなかにしかないのかもしれない、と思うからかもしれないし、黄金時代はつねに、「聖杯(ホーリー・グレイル)」のように、すでに失われたものとしてしか存在しない(そういえば、ギリアムのなかでもことに私の好きな『フィッシャー・キング』は現代の聖杯探索物語である)のだけど、しかし、この時代、「失われたものとしての存在」さえ存在しないのだとしたら!? あらかじめ幻想のテロス(因)さえ奪われているとしたら、そこには幸福も不幸もないだろう、なんてそんなことを考えるのも、ただの幻想、いや幻想への郷愁にすぎないのだろうか・・・。
最後に、本稿とは無縁のようだが、ちょうどいま読みかけのインドネシアの小説『人間の大地』(プラムディヤ・アナンタ・トゥール・著 押川典昭・訳 めこん)から引用しておこう。ニャイ(現地妻)である母が自分の娘に語りかける。
「誰だっていちどは幸せなことがあるものですよ、それがどんなに束の間で、わずかな幸せであっても」
『Dr.パルナサスの鏡』または幻想のテロス
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