ヴァルター・シュピースという画家の名前を知っているだろうか。
バリ島が好きで、バリの文化、芸能や絵画などに興味のある人は、あるいはその名を耳にしたことがあるかもしれない。
シュピースは、1925年にはじめてバリ島を訪れて以来、この小さな熱帯の島の魅力に取り憑かれ、2年後ウブドに居を移して、十年以上におよんでバリの「客人(マレビト)」となり「住人」となる。そして、オランダの植民地支配がつづくなかで、現地バリ人とともにさまざまな芸術活動をおこなったロシア生まれのドイツ人である。
私は、80年代、2度目か3度目にバリを訪れたさいに宿泊したウブドのホテルで彼の名をはじめて聞いた記憶がある。そのバンガロー風のホテルは「ホテル・チャンプアン」といい、たまたまシュピースにゆかりのある宿であった。また、そのバリ旅行のとき、やはりウブドの美術館でシュピースの絵を見た。彼の作品は1点しかなく、格段優れた絵だとは思わなかったが、妙に心惹かれ、なぜか「好き」になってしまうような不思議な魅力があった。
以来、シュピースの他の作品や、彼の来歴、バリでの活動のことをもっと知りたいと思っていたが、彼の「全体像」が伝わる適当な資料を見出せぬまま、年月ばかりが経過した。何冊かのバリに関する書物にシュピースの名を見つけるたびに、彼がバリの文化・芸能に欠かせぬ人物であることを断片的に知り、その都度彼への興味は募ったが、私にとって「うわさ」ばかりの、いうなれば幻の芸術家にとどまっていた。
7年ほど前、やっと伊藤俊治の『バリ島芸術をつくった男―ヴァルター・シュピースの魔術的人生』という本(平凡社新書 2002年1月発行)が出て、適度に渇を癒すことができた。この小さな本はシュピースに関する初めての評伝であり、彼を視座に据えたすぐれたバリ島論ではあったが、シュピースの履歴や伝記的側面はいささか食い足りず、人物像にもっと肉薄したいという思いをさらに高めるものであった。
2004年に5度目のバリに行って以来、ここ数年は仕事や日常の雑事に追われ、バリもシュピースも「具体的」には意識の遠景に後退していた。
『バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝』(文遊社 2004年12月発行)に出会ったのは、そんな折りである。一月ほど前、仕事の打ち合せで新宿に出たさい、帰りがけに立ち寄った書店(ブック・ファースト)の棚にこの本を偶然に見つけた。坂野徳隆(さかの・なるたか)という著者の名ははじめてで、かなり厚手、定価も5800円とそれなりに高かったが、装丁もよく、シュピースの絵(右は本書の扉)や写真も豊富で、その場で買うことを決めるのに時間はかからなかった。出会いとはそんなものであろう。
本や映画の紹介をするとき、あまりその筋や内容には立ち入らないのが私の主義なので詳細は省くが、シュピースへの関心の渇きをやっと潤すことができ、時をわすれて読みふけることができたことは言っておきたい。ここに取りあげたのもそのためで、バリにたいする興味、知識をさらに深めてくれたことは言うまでもないが、シュピースの「人と成り」、彼の人間関係(家族、友人たちとの交流、バリ人とのつきあい)、当時の文化状況などが取材や書簡などの「第一次資料」をもとに織りなされてくるさまは、一本の映画を見るようで予想以上に愉しく説得的であった。専門家の論として構えた仰々しさもなく、平易でさりげない記述スタイル(文体)にも好感がもてた。
私としては、ことに、吸血鬼映画『ノスフェラトゥ』で名高いドイツ表現主義映画の巨匠ムルナウとの交友(美術顧問としての、また、「愛人」としての)とその死、そしてバリでの弟コンラッドの死、またシュピース自身の投獄と死という「三つ巴」の死にまつわるエピソードは、けっして思わせぶりということではなく、バリというひとつの場所と時、その何かを象徴する出来事として忘れ難いものだ。炎の光にゆらめくワヤン・クリット(影絵芝居)の影のように、ダラン(人形使い)であるはずの語り手(著者)を、その死の影が逆に操り導いたのではないか。
バリは予兆の島であると言ったら、やはりそれは、あまりにバリ的にすぎる言い方であろうか……。
しかし、そんな読後の余韻が、バリをめぐる記憶(物語)のなかでガムランの残響音のように共鳴し、私の「夢の景色」を静かに振動させたことを付け加えておきたい。
『バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝』 [バリコラージュ 7]
投稿者:
タグ:
コメントを残す