こういう作品を見たあと、私たちはいったいどんな言葉を口にしたらよいのだろう。プログラムに映画監督の黒沢清も書いているように、ただ黙って「ひれ伏す」しかない厳しいほどにスキのない完璧な傑作であり、安易にわかりやすい紋切り型の言葉を探る前に、なんども繰り返し見ることで自分の感性と思考をスクリーンとの間で往来させながら、意識に浮上しようとする言葉をその都度とらえなおし、心の動揺を鎮めるしかないような、作品=映画。
いうまでもなく、クリント・イーストウッドの新作『チェンジリング』のことである。
完璧な作品とは、自ずと「すべて」を作品自体が語っている作品であり、作品外の要素による「解説」を必要としない完結性を備えている(と感じられる)ものだ。だから、『チェンジリング』に関して、少なくともいまは「理解」のための頭の整理も準備もできず、書くことも書くべきこともすぐには出てこないのだが、とにかく、「すばらしい!」ということだけは言っておきたくて、終映になる前にここに取り上げることにした次第。
これが映画だ! まだまだ映画もすてたものじゃない。見るべし!
したがって、すでに見た人、これから見る人にとっては蛇足にすぎないが、主演俳優に惹かれて見る人たちに一言だけ。
アンジェリーナ・ジョリーが、とってもいい。出演者のだれもがはまり役に見えてしまうのも、キャスティング+監督の演出力の賜物とは思うが、それにしても「意外にも」彼女抜きには成立しなかったと自然に感得できるほどの作品との一体感はすばらしい(惜しくもアカデミー賞は逸したが、そんなことはどうでもいい)。
なかでも特筆すべきは、彼女の涙、いや涙の彼女である。とはいっても、「お涙頂戴」ではない。その逆を行く、観客に涙を流させる演技=演出ではなく、涙を拭わせる演技=演出といったらよいだろうか。
子どもが行方不明になってからのクリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)は、いつも涙を流している。叫ぶわけでもわめくわけでもなく、涙を大きな目に溜め、こぼれ落ちることで悲しみと辛さを示し、他者を責めることなく、心の葛藤に耐えようとする。しかし、ラスト・シーン、「最後」の涙をこぼしつつも、「希望」という言葉を小さくつぶやくときには、涙は雨のように「あがっている」。はじめて、彼女は涙をぬぐい去り、巻頭と同じ、路面電車の走る町の通りのなかに姿を消していく。絶望と背中合わせの希望。
このような変わるもの(人)と変わらぬもの(風景)の対比は、『ミスティック・リバー 』を想起させずにはおかないが(川と道路のアナロジー!)、見る側は、ズッシリと重たいものを受け取りつつ、涙ながらに見た悪夢から目覚めたような気分で劇場を後にして、自らの「現実」へと帰っていく。
変わらぬはずの風景が、この映画を見る前と後とでは異なって見える。それは夢と現実が通底していることの明かしだし、この作品が、われわれ見る者の夢に確かにとどいた証拠でもあろう。
チェンジリング、夢と現実の「取り換えっ子」
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“チェンジリング、夢と現実の「取り換えっ子」” への1件のコメント
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『チェンジリング』
ちょっと前に観ていたんですけど、なかなか忙しくて記事があげられずにいた『チェンジリング』の感想をあげますー。
思っていたよりも感情の抑揚が静かな映画だっ…
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