ワヤン・クリットの夜【バリコラージュ2】

[ウブドの光る雨2ー1]より H夫妻、そしてM夫妻に
080610.jpg パパさんの村はどこにあるのだろう。
 ピタ・マハの食堂で「バリ風おかゆ」の朝食をとり(これがなんとも旨い! すずやかな洗練された美味しさ)、私たちは朝の光に満ちた貴重な時間をおしむように、現地ガイドさんが迎えにきてくれたミニバンにいそいそと乗り込んだ。ライステラス(棚田)の美しさで有名なテガラランを経由し、バリヒンドゥーの総本山ブサキ寺院へと向かう計画。
 テガラランはウブドからそう遠くない。自転車でも行ける距離だが、その短い道すがら、私はパパさんのことを思い出していた。もしかすると、ここからそう遠くないところに、パパさんの村があるのかもしれない。
  ★
 1982年、私と妻は、当時映画プロデューサーだった友人のM夫妻とともに、夏の休暇をとり、はじめてバリ島に来ていた。パパさんは、私たちのこのはじめてのバリ滞在中、ずっとガイドをつとめてくれたバリ人。名は知らないが、おそらくバリではよくある名前だったのだろう。紹介してくれた旅行代理店の若い日本人ガイドは彼のことを、まぎらわしさをさけるためか、年齢差を思ってか、愛称でパパさんと呼んでいて、私たちもそう呼ぶことにした。会った瞬間、ずいぶん年輩のガイドさんだなと思ったが、ジャズ・ベーシスト、ロン・カーターのように長身痩躯で、浅黒い顔もすこし似ていた。使い古した野球帽をかぶり、バリ人には珍しく黒縁の眼鏡をかけていたが、けっして粗野な感じはなく、知性とひきしまった体躯がつりあったような、一種のカッコよさがあった。
 今回と同様、そのときも5日間のバリ滞在だった。私たちは、サーフィンのメッカとしてだけでなく(当時、日本人の若い観光客のほとんどがサーファーだった)、その後21世紀に入っておこった「あの」爆弾テロで一気に世界中に報道され、その名が知られるようになったクタに宿をとっていた(2度目の爆弾テロは、今回の5回めのバリ旅行のあと、やはり私たちが帰国前に立ち寄ったジンバランで起こった)。
 帰国前日のことだった。海に(当時は「悪霊の島」、誰もいかない「無人島」といわれていたレンボーガンにも、モーター付のカヌーで何時間もかけて行った)、芸能に、食事に、絵画や工芸の鑑賞に、ショッピングにと、思う存分欲張りにバリを堪能していた私たち4人には、ただひとつ思い残すことがあった。まだワヤン・クリット(影絵芝居)を見ていない! ケチャ、レゴン、バロンダンス、ファイアダンス(一種の「火渡り」)は見たが、当時ワヤン・クリットは観光客向けに上演の場がほとんどなく、パパさんに「見たい、見たい」とせがみつづけていたが、最後の夜になっても、その思いははたされずにいた。


 バリでの濃密な日々に、さすがにくたびれきって、翌日の帰国のための荷造りをしていたときだったと思う。数時間前にガイドと運転手の役を終え、「じゃあ明日」といって別れたはずのパパさんがクタの私たちの宿を訪ねてきた。
 片言の英語だったせいか、用件はよくわからず、とにかく自分のクルマに乗れという。疲れていた私たちは、もう夜も遅いし、どうしようか迷ったが、これが最後の夜だと思い、少し不安を感じつつも、ともかく好意を抱きはじめていたパパさんに付いていくことにした。
 夜の道を行きながら、暗い車内で、疲労と眠気のために私たちは押し黙ったままだった。クタから北方向、ウブドの方へ向かっていることはなんとなくわかったが、デコボコ道の外は真っ暗闇で、私たちは心もとなくなり後悔の念もわきはじめていた。
 どのくらい走ったのだろう。1時間、2時間、それとももっと? 時間の感覚も曖昧になったころ、クルマの前方にかすかな明かりが見えてきた。どこかわかないが、とにかくある村落に着いたようだ。もう真夜中に近い。
 ミニバンを降りると、道端に小さな屋台がでていて、ピーナッツや飲みものを売っている。数匹の螢が、小さな人魂のように幽かな明かりの光跡を描いていたような記憶もある。深夜なのに、月明かりのなかに子どもたちが数人たむろし、私たちをめずらしそうに遠巻きに見ている。どうもここは、パパさんの生まれ育った村のようだ。私たちはまず、村長とおぼしき人の家の小部屋にとおされた。赤いTシャツを着、サロンを腰に巻いた、その小太りの人はパパさんよりずっと若く、アメリカへ留学していたことがある「インテリ」らしかったが、バリ語、インドネシア語はもとより、英語もさほどできない私たちは、立ったまま饒舌に語りかけるその人の話を断片的にしか理解できないまま、テーブルのまん中にドンと置かれたナンカという西瓜ほどもある熱帯の大きな果物の実を指でつまんでいた。
 そのあと、私たちは、村の集会所のようなところへ案内された。日本の小中学校の体育館の3分の1くらいの広さだろうか。窓や壁のない、何本かの柱に屋根がのった大きな四阿といった風情。奥に竹で組まれたシンプルな枠に、白い布のスクリーンのようなものが張られているだけの閑散とした空間に、映画『エマニュエル夫人』でシルヴィア・クリステルがすわっていたような、籐でできた立派な椅子が4脚だけおかれている。他に目に付くのは、洗面器のような器に花びらや米、そして線香などが盛られたお供えがいくつか。
 そのとき、ハッとした思いに胸をつかれ、眠気も疲れも一瞬にして吹き飛んだ。ここでワヤン・クリットを演じてくれるのだ。4脚の椅子は私たち4人のためのものであり、私たちはパパさんが自分の村に招いてくれた客人なのだ、ということがやっと了解できたのだ。
 音合わせのためだろうか、「序曲」なのか、ガムランが静かに響きはじめると、外にいた村人たちが集まってきた。パパさんはなんの説明もしなかったが、この上演会は、私たち異国の人間のわがままな願いのために、特別に村をあげて催してくれたものだった。
 やし油の黄卵色の炎が揺らめくなか、白い布に影が写り、ダラン(人形使い)が歌うような声で語りはじめた。「演目」はヒンドゥー神話(「ラーマーヤナ」それとも「マハーバーラタ」?)をもとにしたものであるらしい。王子や姫が、そして猿や悪霊たちが、入れ代わり立ち代わり影として登場しては消えていく。ストーリーは私たちには、ほとんどわからない。しかし、村人たちは、笑いさざめき、恐れ、ときに喝采をおくる。
 私ははじめて影というものの存在を目にしたかのように、一種のショックを受けた。日本にいるときに想像していたのとは、まったく違っていた。電球や蛍光灯の明かりになれてしまった私たちは、影絵芝居を思い描くとき、その人工的な強い光と、くっきりとした影を想像してしまう。しかし、これはほのかに揺れる炎の光(明かり)と、牛革で象られた薄っぺらな人形たちによって演じられる、輪郭がぼやけたゆらめく影のドラマなのだ。夜の現実。闇の形象。影は炎の弱い光によってつくられる動く闇の切り絵である。夢幻劇という言葉が、これほどふさわしいものはない。じっさい、筋書きのよくわからない私は、不思議な夢に誘われるように、いつのまにかうつらうつらしていた。
 そして、やはりいつのまにか劇は終わり、ヒンドゥー宇宙の宗教的シンボルである「世界樹」のシルエットがスクリーンのまん中にエンドマークのように写っている。これだけはスクリーンに接して幕の後ろに置かれるので、縦長の楕円形をした樹木の輪郭がはっきりとしている。
 私はあわてて椅子を離れ、少しうしろにさがってカメラのシャッターを1回押した。そのとき、無意識にストロボを焚いた。ドラマの最中は、カメラを構えることを憚り自重していたのだ。だから、この場でシャッターを切ったのは、このときの1回きりである。
 本来ワヤン・クリットは祭事などのとき、夜を徹して演じられるものであるらしい。しかし、この日は儀礼の日ではなかったはず。私たちのために特別に短縮して演じてくれたものだったのだろう。私たちは夜の明ける前にクタの宿へもどった。何も報酬を要求しようとはせず無言でニコニコと微笑むパパさんと固い握手をかわしたあと、私たちは部屋のベッドに倒れ込み、気絶したように眠った。
 失敗に気づいたのは、帰国後、プリントがあがってきてからである。写っているのは、こちらを振り向いている、私以外のすこし間の抜けたような3人の顔と、そのうしろの白い、使い古した布のスクリーンのみ。当然のことながら、スクリーンに写っていた影はストロボの光によって消されてしまっていた。残念な気持ちと同時に、私と妻は、そのプリントを見ながら、高らかに笑ってしまった。あの揺れる光と影、あのときの夢幻的な体験を、写真で再現することはどうせできっこない。私たちは、そのことにさっぱりとあきらめが付いたのだ。全体の雰囲気までを含めた経験が一回性のものである以上、それでいいのだ。いや、あの夜の体験の全体を記憶に残すには、かえってそれがよかったのだと思う。
 お金にかわる何かをお礼に返したくとも、村の名前さえ、私たちにはわからない。パパさんの名前さえも知らない。しかし、私たちの記憶には、いつも、そしていつまでも、あの夜の体験は心の奥底に秘められた「贈り物」として遺りつづける。
 ★
 テガラランのライステラスは、稲の刈り入れを終えて間もないときだったらしく、以前に見たときと同じ美しい緑をたたえてはいなかった。少し残念ではあったが、私たちはクルマを降り、しばらく椰子の木や他の植物の木などと一体になった棚田を眺めた。
 常夏の島バリは基本的に二毛作の地で、場合によっては三毛作もできるという。一時はインドネシア政府の奨励により、三毛作が盛んな時期があったが、地元バリの農民たちによる「土地をいじめたくない」という反発によって、二毛作にもどったようである。
 かつては2〜3軒しかなかった土産物屋が数多く軒を連ねるテガラランの通りを少し歩いていると、谷の反対側に木々におおわれた細い道をみつけ、私たちは、その道を登っていった。
 少し行くと、年輩のバリ女性が3人、頭に供物のようなものを載せて、はち合わせするかっこうで、こちらに向かって歩いてきた。「スラマット・パギー」(こんにちは)と挨拶すると、あちらも同じに挨拶を返してくれ、頭の上のものを道の脇に置き、使い捨てライターで火をつけた。やはり、それは古くなったオファリング(お供え)や乾いた笹の葉、椰子の実の殻で、不用になり捨てに来たのだろう。ということは、すなわち、なにか近くで儀礼でもあったのだろうか。
 そう思って道の先に目をやると、木々に囲まれてやや小さなチャンディ・ブンタール(割れ門)が見える。プラ(寺)である。私たちは手を合わせる仕種で門の中に入る了承をもらい、小さな寺院の中を見てあるいた。いくつもある社(やしろ)は金や赤の装飾品で飾りつけられており、オファリングものこってはいたが、「食物」には蠅や虫がたかりはじめていた。思ったとおり「祭りのあと」だったのだ。
 私たちは早々に門の外へ出た。カラカラという乾いた音に気がつき、空を見上げると、長い竹の先に、やはり竹で作った、先っぽに「風車」をつけた風向計のようなものがついていて、それが風によって回り、自然のガムランのように音楽を奏でていたのだ。私は上に書いた最初のバリ旅行のときに、土産物としてそれ(たしかペンジュカンと呼ばれる)を購入し、日本に持って帰ったことがある。しかし、日本、少なくとも都会の環境にはなじまない。心地よく耳に響いてこないのだ。バリのように、遠くから静かに響くように、もっと高く、広い空の近くまで高くあげなければいけないのかもしれない。
 私はこの「再会」にちょっぴりうれしくなって、私たちを待っているクルマに戻って行った。


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