アリストテレス政治学における「正」の位相3

タクシス(整序)とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より荒木勝(岡山大学教授)
[3]「正(ディカイオン)」の構造〜タクシス(整序づけ)論の視角から〜
アリストテレス政治学における「正」の位相

タクシスとエートス(整序)、
政治学と倫理学の相関の視座より

CONTENTS
[1]問題の所在
[2]訳語の問題
[3]「正(ディカイオン)」の構造
   〜タクシス(整序づけ)論の視角から〜

[4]「正(ディカイオン)」の構造
   〜エートス論の視角から〜

[5]「正(ディカイオン)」の二重性、
   不安定性、倫理学から政治学へ

[6]拡張的転用としてのディカイオン
   〜奴隷制について〜

[7]結びに替えて

 アリストテレス政治学における「ディカイオン」の考察にとって、決定的に重要な箇所は、やはり第三巻の第9章から第13章にいたる文章であることは、大方の一致しているところであり、先に挙げたミラーも自説の展開の最大のよりどころとしているところであった。

 さて、アリストテレスにとって、正(ディカオイン)は国家の本質であり、国家の維持存続の根幹的原理であったが、その内実がこの九章でまず言及されている。いまその論理展開を整理してみるとおよそ次のようである。

【正(ディカイオン)の本源的規定】

 まず正(ディカイオン)についての本源的規定が確認されている。

「正(ディカイオン)とは、誰かにとっての正であり、また先に『倫理学』で述べたように、事物においても、人々においても、等しい方法で分けられること(ディエーレータイ・トン・アウトン・トローポン)であるが、事物の(分割の)平等性については意見が一致するが、(分与されるべき)人々における平等性については意見が分かれるのである」(『政治学』第3巻1280a16-19)。

 この引用文の前半では、正とは、人と人との関係性のあり方を示す語として登場しており、また「等しい仕方で分けられる」と言われていることから、正とは、「等しい仕方」で分けられることを指している。前者は人と人との関係のあり方を示す語であり、後者はこの関係のあり方から帰結される成果を示す語である。すなわちここでは正はこうした2つの意味を内包した言葉であったことをまず確認しておこう。

 さて、この引用文で言及されている『倫理学』とは、通例は『ニコマコス倫理学』第5巻第3章の箇所を指すとされているが、そこでは正は、端的に人と物の比例的配分を意味する、とされる。

「正ということも、すくなくとも四項からなり、その比が同一なのである。すなわち人々の間、(配分さるべき)事物の間の配分の仕方が同様に行われること、である。」(『ニコマコス倫理学』第五巻第3章1131b4-5)。

 ここでは正は比例関係としての関係性のあり方として理解されている、といってもよいであろう。しかもアリストテレスにおいては、この比例的関係が幾何学的比例なのか、算術的比例なのかに応じて、正の種類を2つに分けているが 、どちらにあっても、分与を受け取る者の一定の均等さ(イソン)が前提とされ、また分与される物のその人への帰属が前提とされるのである。

「もし不正とは不均等ということだとすれば、正(ト・ディカイオン)とは均等(イソン)を意味する。このことは議論しなくとも万人に判明のことであるように思われる。・・・実際、正とは、かならずやすくなくとも4つの項を予想するものでなくてはならない。すなわち正が存在する場の当事者が二、当事者において正がかかわる物事(プラグマータ)が二だからである。そしてこれらの人々においても物事においても同一の均等性が存在するであろう」(『ニコマコス倫理学』第5巻1131a18-21)

 すなわち均等な人々における均等な比例的関係性こそが、正の根源的意味であった、と理解してよいであろう。そこから、この正をもたらす行為が複数形で表示される「正しい行為・事柄(ディカイア)」であり、またこの関係が生み出す成果が同じ言葉で「正(ディカイオン)」と呼ばれているのであり、また先に言及したように、この関係が当事者間に分有される事態も想定されているのである。「正は等しい仕方で分けられるもの」。

 さらにこの正を作り出そうとする心的傾き(ハビトゥス)が「正義」(ディカイオシュネー)となるのである。それゆえ厳密にいえば、正=ディカイオンと正義=ディカイオシュネーとは意味する次元が異なっているのである。以下正義についてのアリストテレスの定義を掲げる。

「われわれは、あらゆる人々が以下のような心的傾き(ヘクシス)が正義であると言おうとしているのを見るのである。すなわち人々を正しい事柄(タ・ディカイア)を行うような人に向かわせるような心的傾き、つまり人々をして正しきをおこなわしめ、正しい事柄(タ・ディカイア)を願望せしめるような心的傾き、である」

 したがってアリストテレスにおいては、正義は正を獲得しようとする心的傾きを意味しているのである。

 いずれにしても正とは、その根源的意味においては、まず均等な者たちの間に成立する比例的関係を意味していたことを確認しておこう。

 さて、こうして正の一般的規定がなされたあとで、アリストテレスは、『政治学』第三巻第9章の以下の叙述で、国家における正を規定するために、第一巻でなされた国家論を念頭におきつつ、再度国家そのものの規定に立ち返っている。

「従って、国家とは、場所(トポス)における共同的結合体(コイノーニア)ではなく、またかれら相互に不正を犯さないとことするための共同的結合でもなく、交易関係(メタドーシス)のための共同的結合でもないことは明らかである」(1281b29-31)。

 すなわち国家とは、単なる地縁的共同性に基づくものではなく、私人間の相互不可侵を約束する契約共同体でもなく、経済的共同性に基づくものでもない、とされる。では国家とはなんであるのか。

「むしろ、もし国家が存在するとするならば、これらの事柄は必要条件として存在しなければならない。けれどもまたこれらの事柄がすべて備わったとしても、すでに国家が存在するということにならない。そうではなく、国家とは、家族や一族にとっての、善く生きるための共同的結合体、完全で独立自存の生のための共同的結合体である」(1280b31-35)。

 ここでは、国家は、「よく生きる」ための、「完全で独立自存の生」のための共同的結合体である、とされ、一個の固有の目的を持った存在として規定されている。この箇所では、「よく生きる」についての内容規定は与えられていないけれども、すぐ後に続く箇所では、それが「美しく品位ある生を生きる(ゼーン・カロース)」「市民的政治的力量(ポリティーケー・アレテー)」「人としての卓越的力量(アレテー)」と関係づけられており、「よく生きる」というこの国家存立の目的は、市民が徳ある生活を達成できることにおかれていた、といってもよいであろう。そこからアリストテレスは、この国家目的に貢献した市民に、国政参加へのより大きな資格を認めるという論理を引き出している。

「したがって、市民的政治的な共同的結合体(ポリティーケー・コイノーニア)は美しく品位ある行為のために存在するのであって、単に共に生活するために存在するのではない、と考えるべきである。それゆえ、このような共同的結合体にもっとも多く寄与した人々こそ、自由と生まれにおいて同等かもしくはより高い位置にいるとしても市民的政治的力量(ポリティーケー・アレテー)において劣っている者よりも、より多く国家に関与する資格を有する(メテスティ・ポレイオン )のであり、また同様にかれらこそ、富において凌駕していても人としての力量(アレテー)において劣っている人々よりも、よりおおく国家に関与する資格を有している」

 こうして国家は「よく生きるため」のもの、人としての卓越的力量を発揮させるものと規定された。しかしながらその国家目的に貢献した人に、単なる報償ではなく国政参与の資格が優先的に与えられるとされる論理は直ちに引き出されるわけではないであろう。国家と市民との関係、いやそもそも市民とはなにか、についての説明がなければ、このアリストテレスの論理は把握不可能であろう。国家の存立目的と国政参与の資格とのあいだには、その目的を現実化する国家のありかたー国家の本質規定の説明が必要とされるはずであろう。その点についてアリストテレスは、実はすでに第3巻の冒頭部分で一定の論理展開を果たしている。

 以下この点についてのアリストテレスの論理を整理してみよう。アリストテレスは『政治学』第三巻第一章の冒頭部分に次にように国家を規定している。「国家は市民の一定数からなる集合体である。」とされる。では「市民」とはなにか。

 市民とは、端的に無条件的には、「国政評議と裁判にかかわる権限(エクスーシア)を有する者」であるから、国家とは、結局、「端的に言って、生活の独立自存に十分なだけの、このような市民達の集合体である。」とされる。この規定は、国家が市民の人的集合体であるとすることによって、国家が、市民に国政評議と裁判に関与することを可能にする一定の政治制度を固有に持つことを不可欠の特質としていることをも意味している。したがってある一定の土地において同一の人的集合体が、歴史的時間的に連続的継承関係において存在していたとしても、市民の関与する政治制度が根本的に異なったものとなった場合は、そこに国家の同一性を想定することはできない、とされるのである。

「もし国家というものが、一種の共同的結合体(コイノーニア)であるならば、すなわち、市民による国家体制(ポリテイア)への共同的関与(コイノーニア)であるならば、国家体制がその種類(エイドス)において異なり、また相違してくるならば、必然的に国家もまた同一のものではないと考えざるをえないからである。……それはあたかも、同じ音よりなるハーモニーも、ある時にはドーリス風に、またある時にフリーギア風になるならば、別のものであると言うようなものである。したがって、事柄はこのようなものであれば、明らかに、主としてその国家体制(ポリテイア)に着目して国家は同一の国家であるというべきであろう」(1276b1-10)。

 こうして、アリストテレス政治学においては、国家を規定するものは、一定数の市民数の存在(と彼らが住む土地)だけではなく、市民の存在様式としての国家体制(ポリテイア)のあり方であった、ということができる。それではそもそもこの国家のあり方を規定するポリテイアとよばれる国家体制をアリストテレスはどのように規定しているのであろうか。

 アリストテレスは、第3巻第6章の冒頭に次のようにポリテイアを規定している。

「さて、国家体制(ポリテイア)とは、国家の諸々の統治職(アルコン)、なかんずく、あらゆる事柄について最高の権限を有する統治職を整序づけるもの(タクシス)である」(1278b8-10)。

 ここで言及されている「タクシス」とは、組織、秩序と訳される場合もあるが、本来「タッソー」すなわち「整序づける」「アレンジする」という動詞の名詞化されたものである。したがって、国家体制(ポリテイア)は、上は王の職や最高の統治職(アルコン)から下は民会員にいたるまで統治になんらか関わる職を、整序づけるもの、アレンジするもの、ということになるであろう。したがってまた国家体制にとって根幹をなすものは、この整序付け、アレンジメントの範囲と方法ということになる。そしてこの統治職の整序付け、アレンジメントの方法についての議論こそが、今まで論及してきた第三巻第9章以下で検討される正(ディカイオン)の議論であったのである。

 こうして、この統治職の整序、アレンジメントが市民間に正しく行き渡ることこそ、正しい国家体制を規定づけるものであることは議論の必然的帰結となった。「よく生きる」という国家の目的にもっとも貢献した人物によりおおくの国政参与の権利が与えられるとした先ほどの論理は、この「よく生きる」ことが国家の統治職の正しい配置、アレンジメントに懸かっているということを示しているのであり、「よく生きる」ことに貢献した市民はこの統治職体系のなかに正しく位置づけられることを結果したのである。しかしながら当面の文脈にとって興味深いことは、このような市民が配分を受ける統治職の市民の側の配分根拠そのものについても正(ディカイオン)の語が用いられていることである。

「実際、おそらく人は次のように言うかもしれない。すなわち統治職は、それがなんであれ、人の長所の卓越に応じて、差をつけて配分されるべきであり、たとえ他のすべての点においてすこしも差はなく平等であったとしても、そうしなければならない、と。というのは、他人より優れた人にとっては、正(ト・ディカイオン)も、またその人の価値に応じたことも、他とは異なっているから、というのである。しかしもしこれが真実であるならば、皮膚の色や体の大きさや、また何であれ他の長所において優れている者には、ある一定の市民的政治的権利(ポリティコン・ディカイオン)のより多くの取り分が存在することになるであろう。しかしながらこうした見解は明らかに誤りではないだろうか」(1282b23-29)。

 この「一定の市民的政治的権利のより多くの取り分(プレオネキシア・ティス・トーン・ポリティコン・ディカイオン)」の訳についてはバーカーは、”a claim for a greater share of political rights”と訳しており、またソンダースも”advantage in political rights”と訳し、仏訳のペレグランも独訳のシュトルンプもほぼ同様の訳を与えている。したがってここでの正(ディカイオン)は、国家の正を担う根拠としての、いわば正当な資格要求、別の言葉で言えば、構成員にこの要求を尊重させることを求め、他の成員に対して対抗できるものとする、能動的な法律上の地位、すなわち実定的権利としての意義を持っているのである。

 もちろん、この市民的政治的権利と訳されるポリティコン・ディカイオンはこの文脈においては、この権利を要求することができる根拠として、上述の皮膚の色や体の大きさではなく、以下第一二章末尾から十三章冒頭のところで言及されているように、生まれ、自由人たる資格、富、多数性に求められているが、それらは国家が存続していくためには不可欠の要素であるが、国家がよく統治されるためには、正義(ディカイオスネー)と市民的政治的徳性(ポリティケー・アレテー)がとりわけ必要不可欠なのであった、とされる。

「統治職への関与の要求は、国家を成り立たせているところの構成要素に基づいてなされなければならない。まさにそれゆえに、生まれの良い者や自由人の資格ある者や富者が、名誉の公職を要求するのは理にかなったことなのである。なぜなら、国家には、自由人や一定の税金を納める納税者が存在しなければならないからである。・・・しかしながら、確かにもしこれらの人々(自由人と納税力ある富者)が必要であるとするならば、正義と市民的政治的徳性もまた必要となることも自明なことである。実際、これらがなければ、一国の統治もありえないからである。ただし前者(富者と自由人)がなければ、国家は存立しえないが、後者(正義と市民的政治的徳性)がなければ、国家が善く統治されるということもない。」(1283a15-22)

 しかしながら、先にも述べたように、アリストテレスにおいては、国家の存在はとりわけ「よく生きる生」の実現に懸っていたのであるから、統治職への関与を要求する根拠の中でも、とりわけ正義の徳が統治職要求の正当な配分根拠として重要視されることになるのは、まさに論理のおもむくところであった。

「すでに述べたように、教養(パイデイア)と卓越的力量(アレテー)こそが統治職を要求するのに最も大きな正当性を持ちうるであろう。……同様に、我々はまた、人の卓越的力量(アレテー)というものは、正当な要求権を持つことができると主張する。なぜなら正義(ディカイオスネー)というものは、人間の共同的結合における卓越的力量であり、まさにこの正義に他のすべての卓越的力量は従うことにならざるをえないからである」(1283a24-31)

 こうしてアリストテレスにおいては、国家の正(ディカイオン)は、統治職の整序づけ(タクシス)に与る市民たちの各種の要求根拠として措定されている。しかしこの正は個々の市民の個人的な特性にかかわることであったから、この正は共同関係としての正ではなく、個人の有する正ということになり、しかもそれが正当性を持っているとされるのであるから、この文脈での正=ディカイオンはいわば分有的正といってもいいであろう。またこの分有的正は個人化されている以上、権利という側面も持つことになったといってもいいであろう。そして正義のアレテーは、こうした分有的正の要求根拠においてもとりわけ際立った正当性、権利をもつとされるのである。

 さてここで正=ディカイオンについての議論を整理しておこう。正とは、なによりもまず、人と人、それに関与する物の、均等な比例的関係であった。この正を現実化しようとする当事者の心的傾き(ヘクシス)が正義(ディカイオシュネー)であった。だがそれだけではいかにそのヘクシスとしての正義が慣習化し、市民の間でエートスとして形成されたとしても、現実に正を実現することができないであろう。なぜなら正はそれに関与する物と人との比例関係であったが、それは正に関係する人にたいする評価を伴うものであり、その評価が相互に均等なものとして了解されなければならないのであるが、この了解は往々にして一致しないからである。正が実現されるためには、さらに正義を求める人間の関係が整序・アレンジ(タッソー)され、その整序(タクシス)・アレンジメントの結果、整序を安定化させる制度化・組織化が、さらにはその制度を一般的に普遍化するための法が制定されねばならないであろう。そしてこの整序が実現されるときのその整序の担い手を支える根拠、すなわち統治職要求の根拠が権利としてのディカイオンとされているのである。

 また正の不安定性を克服し、より安定的な正を確立するために、強制力を持った整序化としての法が形成される。またギリシャ語のタクシスは、この整序(付け)、組織(化)、を表現する言葉であった。すなわちエートスとしての正義からタクシスによって保障される正・権利への展開。これがアリストテレス政治学においては、国家体制(ポリテイア)の形成である、ということになるであろう。あるいはまた正に即して言えば、市民的政治的正(ポリティケー・ディカイオン)の成立といってもよいであろう。

「市民的政治的正(ポリティコン・ディカイオン)とは、独立自存ということのために生の共同的結合関係に立っているところの、自由人の資格を有し、かつ比例的、算術的に均等である人々の間における正である。・・・正ということは、お互いの関係において法(ノモス)が存在している人々にとって存在する」(『ニコマコス倫理学』第5巻1131a26-30)

 さらにこのタクシスとしての正は、また同時に正を受け取る当事者の観点からはタクシスとしての正の分有をも意味していたことに注意すべきであろう。それが各市民に分有される時、市民権という権利が生じる。バーカーもミラーも指摘する国家の法の下での市民権とはこのようなものであった。

 しかしながらこの権利としての分有的正(ディカイオン)それ自体は、実定的な資格付与としての権利と呼ぶことはできても、市民個人に内在する固有な権利と呼ぶことはできないであろう。自由人としての資格は、市民の国家帰属によってもたらされるのであって、アテナイ市民であるからこそ、アテナイ市民としての各種の権利が生ずるということができるからである。たしかにここには権利は市民個人に付与されるのであるが、その前提に市民の国家帰属という前提的事実が横たわっているからである。アリストテレスの権利論をめぐる論争において、クーパーやクロート達がミラーを批判する論拠も市民権付与に先行する市民自体の国家帰属という事実、またそれによって生じる市民権の不安定性・脆弱性の主張に基づいている、ということができよう。

 しかしながらここで今一度、前述したアリストテレスの主張、すなわち、統治職を要求する根拠として市民の正義の徳性が挙げられ、しかもその徳性こそが、国家を真に国家たらしめるものとされたことを想起すべきであろう。すなわち市民の正義の徳性が統治職を要求する根拠とされる場合、もしこの正義の徳性が各個人に内在的にかつ個人の自由意志によって形成されるものであるならば、その場合には、この徳性の力は、統治職を要求する文字通りの内在的権利と理解してもよいのではないか、という問題が生じるのである。

 しかしまた別の可能性も想定されるかもしれない。すなわち、この個人の正義の徳性ですら、国家による教育陶冶によって外在的に市民のなかに移植育成されるものであると解することも可能であろう。そのような理解にたてば、正義の徳性がもつ一定の統治職要求権(ディカイオン)を市民に内在的な権利という名前で呼ぶことはできないであろう。バーカーやシュトラウスがアリストテレス政治学に権利論をよみとらないのもこの点にかかわるのである。こうした観点から見て、正義の徳性とは、真に個人に内在的な権利の担い手と呼ぶにふさわしいものであるのか、否か、またそれは国家の正(ディカイオン)とどのようにかかわるのであろうか。この点への見通しが必要となってくるであろう。そこで以下この論点について主として『ニコマコス倫理学』に展開される見解を取り上げて検討してみよう。

その4へ続く


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