これらの知慮が発揮される場として、自己(魂の諸力の整序)、家、地域、企業・諸団体、国家、国際機関などがあります。
知慮のそれぞれの面は別個に存在するものではなく、互いに結びついているものですが、いまの社会はそれが狭い範囲のなかで、部分的にしか検討されていない。また、知慮の多様性は、自己のなかでも魂の諸力としてアレンジメントしていく必要がある。全体をとらえる広い視野と、個別の状況に応じた明確な決断力が同時に問われます。ありきたりな言葉ですが、そのためには、愛と勇気が欠かせないことはいうまでもありません。
愛と勇気なきところに正義もない、ということを肝に命じておいていただきたい。
ここに挙げた以外にも、知慮には、前にも少し述べたように、怜悧とか、ネガティブにいうと邪知というような側面があります。どういうことかというと、たしかに正義というのは比例的配分を実現しようとする徳なのですが、怜悧とか邪知というこれらの知慮の側面は個人的・部分的「欲求」ということに着目した心のあり方なのです。しかし、全体的正義を実現しようとするときには、欲求よりも知性と理性による人間と世界(共同体全体)への理解が求められる。そのため、この知慮の分類のなかには、このような欲求的知慮は含めていません。
さてそこで、知慮の実践ということに移ります。正義を行うには、平等(“均一”ということではない)に配分されるべき対象と資源に対して正しい認識がないといけない。重要なのは、善悪・正邪の事柄を正しく判断し実践しようとする心的傾き(ヘクシス)に加えて、実践的三段論法、目的-手段の合理的選択といったことが必要になってきます。つまり全体的正義を実現するためには、まず、目的と手段を正しく認識し、正確に“計算”して遺漏のないように配分しなければならないからです。そういう点では、きわめて合理的な理性がないと正しい配分ができない。冷静に判断をして持てる資源を適切に配分することがもとめられているわけですから。そういう意味で、実践的三段論法を駆使した推理の力を養う必要がある。
しかし推理力だけでは、いまいった怜悧だとか邪知と訳される狭い意味での正義の範囲を出ることができない。知慮がほんとうに正しく発揮されるには、先に直知という言葉でいった感性的な知性認識が「現場」で必要になってくる。配分にあずかる市民とか子どもたちがいま、現にどういう状態におかれているのかを頭のなかだけの資源配分で考えるのではなく、現場に身を置いたうえでの直観的理解がどうしても欠かせないのです。つまり、現場において個別をとらえる感性、共感的知性がないところで、机上で考えた合理的配分をしたってダメなんです。中間管理職の悩みもその辺りにあるのではないでしょうか。上司の命令を現場で実践しようとすると部下の眼が気になる。あまりに理不尽な命令は、たとえ上司の命令であっても言い出せない、といった葛藤が生じるからです。
それから、もうひとつの知性の力はなにかというと「観想」、要するに全体を眺めることです。実践的普遍的命題への直知、間主観的合意。これはどういうことかというと、長い歴史的な経験のなかで蓄積されてきた社会的通念はよく知っておかないといけない。しかし、社会的通念、慣習的判断基準に合わせることだけを考えて、合理的な配分、処理をするだけではやっぱりダメなんです。それを超えた直知のはたらきがなければならない。社会的な通念などは絶対的なものではなく、間違えであることがよくある★1。つねに社会の現状を批評する目を持っていなければならない。その目を、いまここでは“神的”直知と理解しておいていただきたい。くどいようですが、知性と理性の両方を、知慮の持っている力、はたらきとして腑に落としておく必要があるのです。
さて、アリストテレスの実践的三段論法の例証をあげてみましょう。
B 鶏肉は軽い肉である。<個別命題> したがって
C 鶏肉は健康によい。だから豚肉より鶏肉を食べるべき。<結論>
Aの基本命題は、一般的通念としてある時代ある社会が共有していた理解です。その次には何が軽い肉かということを発見しなければならない。それが Bの個別命題の「鶏肉」です。これは些細なひとつの事例にすぎないけど、このような個別の発見を無数におこなって実践的なある決定に結びつけなければならない。それによってCの結論が導きだされるわけです。
もうひとつ。
B 黒人は人間である。
C 黒人を奴隷的にあつかってはいけない。
上と同様にAは基本命題。この例でも問題は、Bの「黒人は人間である」という個別命題。つまり、いまでいえば当たり前のことだけど、少し前の時代には、黒人を人間として認めず売買してもよいという社会通念があったのです。黒人は人間であるということを判定する基準はどこにあるかというと、やはり「現場」における触れ合いのなかで直観的知性によって気付くことから形成されるわけです。先ほど直知は批評であると述べましたが、個別命題の設定次第で、基本命題や結論にも変化が生じることは理解できると思います。
みなさんも、たとえば家庭や、学校、企業のなかで女性や子ども、経営者や従業員などに置き換えて、身近な問題をこの三段論法で実践的に考えてみていただきたい。社会通念(常識)と現場における個別的な実感の往還のなかで問題をとらえ直してみてほしいのです。
さて、長々とお話しましたが、きょうの講義をトルストイの『イワンのばか』を紹介することで終わりたいと思います。これはトルストイ晩年の傑作だと思いますし、本講義のテーマ「戦略的思考を超えて」のひとつのまとめとしてもふさわしい。つまり「個別的な目的-手段関係の合理的計算」を超えて知慮的人間へ、さらに宜しき人へといたるために、政治と宗教の相克からいかに脱皮するかが、いま、この社会に生きる私たちに強く求められているからです。
ご存知の方も多いと思いますが、本日の話をふまえて、もう一度このロシアの民話をもとにしたトルストイの小噺を読んでみていただきたいと思います。『イワンのばか』は岩波文庫版に九編収められたトルストイ民話集の総タイトルで、「イワンのばかとそのふたりの兄弟」というのがそれです。
三人の兄弟が三つの力として象徴的に表現されています。
軍事的力(暴力による統治、併合)を象徴する長男(セミョーン)、経済力、貨幣、「頭ではたらく」合理的知性による富の獲得を表す次男(タラース)、それと「宗教的無知」の知の力、自然の贈与、「額に汗する」自己労働、共有、無抵抗平和主義を示す三男(イワン)がいます。
その三兄弟に、親分格である老悪魔と、やはり三人の小悪魔が絡み、協力するように見せかけながら、この兄弟たちを亡き者にしようと、いろいろな悪さを仕掛けてくる。末っ子のイワンをのぞく二人の兄弟はまんまと小悪魔たちの思うつぼにはまるのですが、「ばか」なイワンだけは、なかなか意のままにはならない。
いくつかの経緯を経たのち、三人の兄弟は三人とも自分の国を持つことになる。その国に敵が攻めてきたり、悪行がはびこったりする。もちろん悪魔たちが仕組んだ仕業なのですが、それによって「ふたりの兄弟」の国は滅んでしまう。しかし、イワンと彼の国の民たちは、他国のように泣いて逃げ回るどころか、悪魔やふたりの兄弟の要求をなんでも受け入れてしまい、彼らが予想もしない方法で無理難題を解決してしまう。攻めても攻めても抵抗しないものだから、しまいには攻撃する側が気味悪がって、撤退してしまうというようなお話。
たとえば、経済的に金持ちになる方法(簡単にいえば、金が金を生むといったような、現代でいえばデリヴァティブを使って「市場経済」において金持ちになる技術)を悪魔が教えようとする。でも、イワンや農民たちはそんな「頭」ではたらくことはしたくない、畑で汗を流しながらはたらくのが一番の幸福、それだけで十分だと「ばか」の一点張り。つまり、理屈で抽象的に金儲けする話にぜんぜん耳を貸そうとしないものだから、けっきょく悪魔は説得に疲れ、逆に痛い目に遭って退散してしまう。イワンたちにとって金貨はキラキラしていてきれいだから、子どものおもちゃとしてはいいけど、遊具としてある程度あればそれ以上多くはいらないというわけです。
ここでは軍事的力よりも、また経済的力よりも、宗教は無知の方が勝利する、とされています。トルストイが到達した地点がいかにもあざやかに示されています。だが、現実の世界は、宗教的な無知の知・共有・無抵抗的平和主義だけでほんとうに救われるのかという問題が残ります。この世界では、政治はつまるところ軍事的暴力であり、経済は投機的な、計算合理的な富の獲得でしかないのか —— 。トルストイの思考に私自身強くひかれると同時に、そのトルストイの世界に、正義の論理の欠如、知慮論の欠落を見てしまうのです。現実の政治が暴力的な力ではなく、正義の力によって解決されるものでもあること。経済もまた、正義にもとづく富の獲得でもあること、こうした思考の弱さをトルストイに感じてしまうのです。
そして、こうした思考傾向、現実の政治や経済の変革ではなく、疲れはてて窮乏的に宗教的世界に救いを求めてしまうことは、私たちにも無縁ではないことを痛感します。この、トルストイの限界を越えること —— ここにアリストテレスを学ぶ重要な意義のひとつがあるのではないでしょうか。宗教それ自身の意味はまた、幸福論の問題として別に論じる予定ですが。
アリストテレスからそのような「考え方」、知慮のヒントを学びとることにこそ、彼の哲学をいまに甦らせる意義があり、そういう意味でアリストテレス哲学の射程は、まだまだこれからの未来へと延び広がっているのです。