アリストテレス政治学における「正」の位相7

タクシス(整序)とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より荒木勝(岡山大学教授)
[7]結びに替えて
アリストテレス政治学における「正」の位相

タクシスとエートス(整序)、
政治学と倫理学の相関の視座より

CONTENTS
[1]問題の所在
[2]訳語の問題
[3]「正(ディカイオン)」の構造
   〜タクシス(整序づけ)論の視角から〜

[4]「正(ディカイオン)」の構造
   〜エートス論の視角から〜

[5]「正(ディカイオン)」の二重性、
   不安定性、倫理学から政治学へ

[6]拡張的転用としてのディカイオン
   〜奴隷制について〜

[7]結びに替えて

 以上にのべてきたことを確認しておこう。

 アリストテレスにとっては、正(ディカイオン)とはなによりもまず比例的関係を意味していたし、正義はその比例的関係を実現しようとする人間の心的傾きであった。そしてこの正は、基本的には人間がなんらかの共同的結合の関係に随伴しているものであった。

 しかしながら、その正義は個々人の個人的な完成努力にまかされるかぎり、ある種の不安定性を内包するものであったから、比例的関係の実現のためには、当該社会の全体的正を実現しようとする「立法者的精神の担い手」による整序の行為が必要とされた。しかもこの全体的正実現への個々人の志向性、すなわち全体的正義、法的正義を思考する力量もまたディカイオンとよばれ、ある意味で正=ディカイオンの分有というべき権利を意味するものであったといえよう。しかもこの正・権利は、国家によって実定的に保障されるものであるばかりか、個々人の自然本性よって育まれながら、何らかの共同的結合の形成の中に可能的に用意されるものでもあった。

 さらに、こうした正・権利の関係は本来的には自由人の間に成立するものであり、原理的に自由と平等の立場に立つ市民は基本的のこの正・権利を分有しうる存在であった。また、こうした事態は、奴隷と自由人の間には成立不能であるが、アリストテレスにおいては自然本性的奴隷自体の中にも理性の一部分の存在を措提することによって奴隷と自由人のあいだにある種の正が存在するとされるのであり、そればかりではなく、アリストテレスにおいてはこの自然本性それ自体が長い歴史の中で変動するものと捉えられることによって、奴隷制そのものの変動も視野にはいってくる可能性も展望されるのであった。

 さて、こうした正・権利理解には1つの問題が残されていた。正がそれ自体としては比例的関係を意味し、正義がそのような比例的関係の樹立を志向する心的傾きであったとしても、その比例関係の基となる、共同的結合の構成員の均等性を認識する際に不一致が生ずる、ということが指摘されていたはずである。アリストテレスにおいて、まさにそこから国家体制の変動が生ずる、という認識も提示されていた。しかしそうした変動はアリストテレスにおいては、価値の多様性に事態をゆだねて放置されていいものとはされず、真の理想的国家体制を志向せねばならない、とされているのである。その真の理想的国家体制は、最善の人々が統治する国家体制であり、そこでは最善の人々の徳と市民の徳とは一致するとされている(『政治学』第三巻第十八章)。

 ところが、この最善の人々が統治する国家体制を論じた『政治学』第七巻では、最善の生について、観想的生と実践的生の比較論が主要なテーマとして取り上げられ、観想的生が実践的生にたいしてはるかに実践的である、と論じられている。正義の実践の相対性を克服すべく、国家体制の収斂点として提起されているこの理想的国家体制論において、なぜ永遠不滅なるものを思考する観想的生と「他でもありうる」蓋然的生を対象とする実践的生とを対論しなければならないのであろうか。またこのことは正義の収斂点を理解することになんらかの関わりも持つものであろうか。それを問うことがわれわれの次の課題となるはずであろう。

* 本稿は2006年5月の荒木先生の論文「アリストテレス政治学における「正(ト・ディカイオン)」の位相 ── タクシス(整序)とエートス、政治学と倫理学の相関の視座より──」を元に、web版として若干の修整を施し編集したものです。注や付記等は掲載していません。エディション・ヌース

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