きょうはアリストテレスと現代との関わりということでお話をしようと思っていますが、その前に、なぜ「講演」というかたちで話をすることにしたのか、簡単に述べておきたいことがあります。
アリストテレスが書き、あるいは講議したものは、日本語でも岩波文庫、それから『全集版』などで一応読めるようになっています。しかし、みなさんも多分感じているとおり、非常にむずかしく訳されていて読みづらいことこのうえない。これはもう、ある意味で日本における「哲学」の宿命みたいなもので、明治の時代に西周(にしあまね)という人が中心になって訳したと思われますが、日本の日常語のなかに西洋哲学の用語にあてはまる適当な言葉がないからです。うまく該当する言葉がないものだからどうしたかというと、結局、主として仏教の言葉を借りてきて、苦労のすえに造語をしたわけです。そのため、日常語と哲学用語がそこで乖離を起こしてしまった。それ以来、われわれ日本人の日常生活のなかに西洋哲学は根付かず、遠ざかったままの状況になってしまっているのです。
ですから、アリストテレス哲学の、特に『形而上学』なんかは最初から読めたものじゃないような日本語の文章になってしまっているのです。これはある意味で仕方のない面もあるのだけれど、ギリシャ語で彼の本を読みますと、それはすべて当時のギリシャ人の日常用語から借りてきた言葉で書かれている。日常的にギリシャ人たちが普通に使っているような言葉で世界とか自然とか人間とかというものを分析しているわけですから、たいていのところは普通のギリシャ人でもわかるのです。ところが日本語になってしまうと、どうしても、抽象用語がいきなり出てきて、きわめてわかりにくい、像を結ばないような文章が連続してしまう。そのことに非常に大きなギャップを感じています。私自身、自分で翻訳を試みていますが、やっぱりむずかしいといわれることが多い(苦笑)。そこで、なんとか日常用語を使いながら、みなさんにもできるだけわかりやすくアリストテレスの世界を示してみたいということが、いまの私の問題意識であり、 “話言葉”での「講演」というスタイルをとった理由のひとつです。
それからもうひとつ、これまでの西洋哲学のなかの伝統でいきますと、どうしても、たとえばアリストテレスだとか、カントだとか、もちろん近代の哲学者といわれる人も、だいたいが論理だけで世界を構築しているというふうに、専門、一般に限らず考えられているわけです。しかし、そういう論理的な思考だけでは、どうしても人間や世界の本質に迫れないのではないか。あるいは、むしろ「本質」などといったとたんに、意思疎通ができなくなるんじゃないか、という疑念も感じています。そういうような問題提起が、「アリストテレスと現代研究会」(通称「アリ研」)にも出されています。
私には、ヨーロッパ近代のギリシャ哲学理解自体に、そもそも根本的な問題があるんじゃないかという感じがものすごくあるのです。たとえば、ヘーゲルのアリストテレス理解を見ますと、ヘーゲル独自の体系があるものだから、ずいぶん乱暴にアリストテレスやギリシャ哲学の世界をばさばさと切り分けてしまう。それでは本当に理解したことにはならないのではないか、というのが率直な私の印象なんです。もちろんヘーゲルだけじゃなくてカントもそうですし、それからあとでちょっとお話するホッブスなんかでもそうなんですけど、ヨーロッパの近代の人たちというのは本当にちゃんとアリストテレスを読んでいたのかというような感じを受けるほど、ガチガチの論理の世界で切ってしまっている。ですから、もういっぺんアリストテレス哲学の原典に戻って、しかも現代の日本社会と照らしながら、われわれにとって身近で切実なところで、みなさんの”顔”を見ながら、みなさんの感性とのやり取りのなかで哲学を見直してみたいというのが私のひとつの動機としてあります。
さて「戦略的思考を超えて」というテーマですが、これはここ数年、日本という国や日本に住むわれわれが直面しているさまざまな問題を考えていくと、やっぱり、モノに対する、あるいは人に対する接し方の所で根本的な問題が起きているんじゃないかなという強い印象から、このテーマが浮かんできました。企業にとっても、個人としての人間にとっても、なによりもまず、自分というものが中心にあって、自分自身のために経済的な利益だとかそういう欲求を実現したい、という思いが先に立ってしまっているような気がします。
このような欲求は多かれ少なかれ、誰しも抱くことだし当然のことだと思うのですが、それを中心的な第一の目的にしてしまうと、「他者」を自分の利益を実現していくための手段としてしか見れなくなるわけです。そういう傾向が引き起こすさまざまな問題が一気に、もう、どうしようもない形でいまの社会に露呈しているのではないか。逼迫した切実な問題として、いろいろな局面で噴出している。もしそうであれば、この現状を何とか超え、突破していくための”共通理解”を作っていく必要があるというのが、いま社会全体が問われている一番大きな緊急の課題だと感じています。
そのことを私に具体的に痛感させるきっかけになったひとつの事柄は、アリ研の会員のひとりからメールで紹介をしてもらった大手自動車会社の社長の発言です。これには2種類ありまして、その人が社長に就任したときの話と、それからこの4月の話とあるのですけれども、この2つの演説を対比して非常に印象深かったのは、とくに2回目の話のなかで「正義」という言葉が出てくることです。企業の社長から正義という言葉が出てくるってこと自体が、私にとっては非常な驚きであって、なぜ彼が正義ということに触れたのかなということを中心に、ちょっと考えてみようということにしたのです。
みなさんのなかにはご存知ない方もいらっしゃると思うので、私なりにちょっと整理をしておきますと、その社長は3つの柱を立てて問題を提起されています。この会社は世界企業として突っ走ってきて、その規模や収益からいっても日本企業のなかでダントツで、ここ数年で世界のトップを窺おうというようなところまで達した。しかし、その企業の原点はあくまで「ものづくり」にあり、その会社が目指さなければならないことは利潤の追求よりも「夢の車づくり」だ、と述べているのがまず第一点。ひとことで夢の車づくりといっても、現実にはそれに関わるいろんな複雑な問題が出てくるわけで、夢の車づくりという以上、「人間にとってふさわしい車とは何か」ということが当然そのなかに入ってくる。そうなると「人間とは何か」「人間にとって夢とは何か」という根本的・哲学的問題を、企業の人も真剣に考えないとこれからのものづくり、車づくりはできないという段階に達したのではないかという思いが強くしたわけです。
第二点は、「高い倫理性」ということを大きく採り上げていたという点です。そこに「品格」という言葉が用いられているんですが、これもアリ研のメールで一時よく出てきた「国家の品格」とか「武士道」だとかとも関連します。20〜30年前に日本がバブル期にあったことを考えるとまさに隔世の感がします。「武士道」は前からあったので別にしても、「品位」とか「品格」とかね、そういう言葉を現在非常に多くの人が、特に社会のリーダーと目されている人がいい出すというのはいったいどういうことなのか。私にとっては大きな衝撃でもありました。そして、品格という言葉の関連で、この社長の口から「正義」とか「信義」という言葉が出てくるのです。ですから、ものづくりへの情熱を原点にして「高い倫理性」「正義」「信義」に則った会社をつくるという、これが彼の話の柱になっているのです。
第三点は、以上のことを踏まえての具体的展開ということで、いろいろとお話になっています。たとえば、ものづくりに関連しては品質管理の問題だとか、それから倫理性だとか品格という問題でいえば社会貢献活動だとかコンプライアンスだとかの重要性を述べておられます。両方に関わっているんだろうと思うのですけれども、他社を凌駕し他社を圧倒する企業をつくるとか、そのための人材育成の必要性だとかいうことも強調されています。それから、その具体化のための課題として、政治的、通商的リスクをこれからはしっかりと考えていかねばならない、と。世界的に戦略を考えていったら、たとえばアメリカと日本のいろんな政治的なリスクも出てくるでしょうし、アジアと日本とのむずかしい関係も出てくるわけですけど、それらの障害を乗り超えていくような販売活動とか広報活動とか、そういうものを戦略的に展開していかなければならないといっているのです。
その話のなかで、これもまた非常に重要な問題を提起されていると思いますが、「良き企業市民とは何か」ということを考えなければならないといっているんです。企業人にとっては当たり前のことかもしれませんが、「企業」と「市民」という言葉が結び付いて使われているわけで、私の専門である政治学の観点からみますと、これはいったいどういうことなのか。企業と市民というのは本来、まったく別のもののはずなのですが、これを結び付けるというのは、何を意味しているのか、と。
また片方で、「他社を凌駕し圧倒する」あるいは「品質管理を徹底しなければならない」というような発言が出てくる。つまり、この大企業は一方ではやはり当然のこととして、企業として他の競合会社との競争に勝たなくちゃいけない。競争する主体として考えていったら、戦略的に相手を圧倒する戦略戦術というものをきちっと立てて、とにかく相手に勝たなければいけないという、いわば企業人が当然持つべき戦略的思考というのが、原則として浸透しているわけですね。
ところが、戦略的思考をどんどん追求していくとどうなるか。とくにこの会社のようにこれから世界の頂点に立つというほどの企業を考えたときに、今度は、全体を統治するという問題、車社会全体に対して責任を負わなきゃいけないというような話になってくることは避けられない。さらに車社会だけのことではなく、これだけ企業組織が大きくなると当然、国家とか社会とか文化とかというものと関わり合っていかねばならないということになってくるわけです。つまり、勝ち負けでの論理、これを「戦略的思考」と呼ぶとしますと、もうそのような論理だけに自足している状況ではない。勝ち負けの論理を基軸にした戦略的思考というものを超えていかなくてはならないという段階まで来てしまっている、というふうに私はこの話を読みました。
それでは、勝ち負けの世界を超えて何を考えなくてはならないかというと、そこにこの社長がいった「正義」の問題が出てくる。ということで、この日本の大企業そのものが正義論、すなわち正義とは何かという問題を根本的に考えていく段階が到来したんじゃないか。そういう意味でいうと、いまは、一企業のみならず日本の会社社会全体が、大きな転機に来ているんじゃないかという気が、私にはしています。
あまり認識されていないかもしれませんが、一般的に「会社」を示す「カンパニー」という言葉自体がじつはその問題を本来的に含んでいるのです。「カンパニー(company)」という単語には、ご承知のとおり「com」という接頭語が付いています。これは「together(共に、一緒に)」という意味ですが、その後にくる「pany」は何かというと「パニス」というラテン語から来た言葉です。あの、食べる「パン」のことです。まさに、「一緒にパンを食べる仲間」というのがカンパニーの本来的な意味で、「一緒に乳を飲む仲間」だとか「一緒に櫃(ひつ)を共にする仲間」だとかというような形でアリストテレスの『政治学』の第一巻のなかにも登場してくるものです。要するにカンパニーというのはもともとそういうものだったのです。だからどの会社も企業も、みんな最初は家族的、同族的な形で始めざるをえない。これはどこの国の社会でも同じようなものです。
だから当然のことながら、この大手自動車会社も同族会社的な所からどんどん成長、発展してきた。同族会社的な結集力をもって敵とも戦ってきたわけです。ところがものすごく大きくなって、自分の存在自体が相手を殲滅してしまうのではないかというほどの強大なパワーまで持ってしまった。しかし、本当に相手を殲滅していいのかとか、あるいはその影響力の大きさからいって、真剣に社会とどう向き合うべきなのかというような問題になったときに、これまでの発展の仕方、考え方で本当にやっていけるのかどうか、やっていっていいのかどうかという問題が問われてきた、といえます。
[1-2]へ続く