茶会のためのテーブル=破壊された「継ぎ手・仕口」の再生
この茶会のためにもう一つ、正座が苦手な人のために椅子席でお茶を飲んでもらう為の、やはり「破壊と再生」のテーブルをつくりました。これは古い建築の「継ぎ手仕口」といった古典的な建築技法を、取り壊された廃材から探し出し、主に柱材ですがそれを3本横並べに繋いで60cm幅のテーブルとして再生したのです。柱にはほぞや鎌といわれる継ぎ手の突起部分が、一つの造形効果をもつようにしました。もちろんその表面にドローイングをし、絵の具のドリッピングもしています。こうして紙に描く場合と殆ど違わないやり方で描きました。最後に全体を蜜蝋で覆うように、これもドローイングしました。
これはしかし、ここへきて新たに始めたことではなくて、アトリエに居るときから考えていたものですが、やっと実現したという感じです。今迄私が制作して来たもののなかで、一番立体的なものになりました。その上の明らかに一つの用途を持っているところが単なる絵画の仕事とは違うものです。このテーブルは最初の茶会には間に合わなかったのですが、2回目ぐらいから登場しました。
この”用途”という点では以前20年ほど前、或る男性雑誌の依頼でクリスマス用のジャケット3着に”クローンド・ヴィーナス”のドローイングをして以来のことです。このジャケットは今回の茶会を通してそれを着ながら点前をしました。それを見たセビリーヌ嬢が、ぜひ自分にも描いてほしい、といって新しいワイシャツを用意してきました。そこで私は自分の”クローンド・ヴィーナス”の説明をしながら、それならばジャケットをクローンするつもりで描くから、出来上がったものは私の絵のクローンになることを告げて承知したのです。
描き上がったそれを嬉しそうに着込んで展覧会のオープニングに臨んだセビリーヌはまさに”クローンド・ヴィーナス”ならぬクローンド・セビリーヌといったところでした。もちろん私も件のジャケットを着用して出席したことはいう迄もありません。パーティの席上、出席者の面前でことの顛末を述べながら、私たちがクローン関係にあることの喜び? をハグを交わして分かち合う、というおまけまでも付いたのです。なにしろ韓国での人クローン胚の成功で、にわかに現実味が増してきたクローン人間です。もしかして私たちのこの中にも、クローン人間は既に紛れ込んでいるかもしれません。
テーブルに次いでこんどは床に正座する人のための座布団6客分と各自のお盆も6枚作りました。何しろコンクリートの床に直に座るわけにはいきませんので、いろいろとした道具が必要になります。とにかく始めてのことですから、自らも茶道をする日沼学芸員とともにいろいろと工夫をしました。座布団は紙子仕立てにすることにして、麻紙にドローイングを施し、それを3人のサポータの皆さんにウレタンの綿を入れた座布団に仕立ててもらいました。お盆の方は楕円に切り抜いたベニヤ板に、”クローンド・ヴィーナス”の切れ端を貼り合わせながら、更にドローイングを描き継いだりして、お盆らしきものにするのです。
ふだんから平面とも立体ともつかぬ作品をして来た私でしたが、ここに至ってその境目は一層低くなって、自由に両方の、というよりは私の絵画をまさに、平面とか立体といったそういう視点から描くという作り方をしなくなった、ということでしょうか。
以上述べてきたように私は数々の企画を立てたりそれを実現することにより、いつもとは違った成果を上げることが出来たわけですが、これは言うまでもなく私一人の力で成し遂げられたわけではありません。そのためににはまず基本的にACACという特殊な美術館によるAIRという青森市の芸術家支援の仕組みがあり、それに加えて実に多くの方々のサポートによって始めて可能になったものだということを大きな感謝とともに申し述べておきたいのです。そしてこれはかねてからの私の持論でもあるのですが「作品は自分だけのものではない/アンチ・コピーライト」といった考え方の根拠にも繋がることなのです。
今回参加した5人の作家それぞれに一人づつ担当学芸員が決まっており、私の場合は日沼禎子学芸員にお世話になりました。その他に2人の学芸員と創作棟を始めとする技術関係を主に管掌する椎啓チーフ・エンジニアと、計4人ですから、一人で二人の作家を受け持つ学芸員もいたことになります。
といっても自分の担当学芸員にしか相談出来ない、というのではなく、そのとき目に前にいる学芸員に何でも相談すれば、誰でも同じように相談に乗ってくれ、その結果はすぐに担当の学芸員に連絡されていました。この学芸員のサポートというのは、例えば私が当初ミツバチを飼うという企画を出しましたが、それに対して日沼学芸員は、この地の養蜂業者を探しだして私を連れて行ってくれ、何群かのミツバチを購入する手はずを整えてくれたり、蜂場でこの地の専門の養蜂家の作業を体験出来るように取りはからう、という交渉迄してくれるのでした。また美術館で養蜂するということが問題となるや、県庁の畜産課まで私を同道して一緒に交渉してくれたりもする、という具合です。
またある時は”お接待としてのパン焼き”のイベントをするという私たちを、岩木山の麓でおむすびを作ることで、さまざまな心の障害を癒し続けてきたけてきた『森のイスキア』の佐藤初女さんのもとにつれて行ってくれました。
『森のイスキア』というのは宿泊施設を具えたキリスト教の教会? で、私たちがお邪魔した日はちょうど写真家と舞踊家というカップルの結婚パーティが、その広場で行われていました。たくさんの郷土料理と、海苔を巻いた大きいおむすびを頂きながら、初女さんのそのおむすびに込める優しい心をしみじみと味わいました。そしてこれから行おうとする自分達のパン焼きに込めるお接待の気持ちを図らずも再確認することになったのでした。
この会場で、後に述べるエフエム青森の奥村潮さんと初めてお目にかかったのですが、これは実は、奥村潮さんの紹介によるものだったのです。もちろん奥村さんの番組のとのトークの時にも、その時の佐藤さんのお話が出たことはいうまでもありません。
また日沼さんは、私が『庸二の楊子」プロジェクトで津軽塗りで有名なこの地の漆を求めたい、という相談を持ちかけるとただちに、弘前市で津軽塗りの現場を見せてくれる、北奥舎という漆店と、それからもっと専門的な知識を得るためにと、弘前地域技術研究所を訪ね、そこの石川喜郎部長と引き合わせてくれたのです。これは私に取ってとても大きなことでした。
私は何でもそうなのですが、漆もまったくの自己流で始めたことですから、漆の何たるかも知らぬまま、徒にいじりまわしてきたものです。ここでも石川さんが膨大な津軽の漆の知識を語ってくれるのですが、その殆どが理解できないまま、でも幾らかの歩留まりはあって、なんだか一人前の塗師になったような気分を得たのです。この気分はこの地の津軽塗りや縄文時代の漆工芸を考えるのに、そして楊子削りのパフォーマンスをする気構えに、大いに資するところがありました。結局地元では漆は求められず、石川さんから福井の漆のプロショップを紹介してもらって、そこから取り寄せることが出来たのです。
もう一つ困るのが言葉。一応日常会話程度の英語を話すことがAIRの条件になってはいるのですが、私などは片言しか話せなくて、ふだんは何とかごまかしながらやっていけますが、ちょっと込み入った話になるとやはり学芸員の英語力に間に立ってもらう必要が生じます。
他の2人の学芸員近藤由紀さん、主任学芸員の真武真喜子さんについても同じようなことがいえるわけで、特に外国から参加している作家たちが見知らぬ土地で出会う、それぞれに特殊な問題を実に親身になってサポートし、或る場合には勇気づけてくれたりしていました。そして三内丸山を始め恐山、街の美術館や、とにかくここは有名なねぷたの里ですから、そうした展示物その他、文化的なインフォーメーションもしてくれていたようです。またこの地は有数の温泉地で、近所にはたくさん温泉がありますからそういうことも教えてくれました。
また美術館のあるここ雲谷の森から街の中心部迄はバスで約40分、料金が500円ぐらいかかります。ところが外国人作家については半額で乗れるウェルカム・パス? を市からもらえるという、これも有り難いサポートのひとつでした。
実際の制作に当たっても創作棟を自由に使って制作するわけですが、そこに設備されているかなり専門的な工作機器や工具類、ACACご自慢の巨大な銅版画のプレス機など、私たちの意欲をしきりにかき立てて止まないものがありました。しかし、ふだんから2、3の電動工具を使うくらいで、殆どは手仕事でしたから、全く使えなくて、そういう問題についてはチーフエンジニアの椎啓さんが専門的な相談に乗ってくれる仕組みになっています。私も茶会に使うテーブルを作るときなどは、古材の柱を繋ぎ合わせる方法をいろいろと教えてもらったりしました。
椎さんはもともとご自身が音楽家でもありパフォーマンス・アーチストでもある方で、今回私と一緒に参加した金沢健一さんの彫刻で、大きな鉄板を幾つもに切り抜いてつくった、鉄の切れ端を一つの音具として行う音のパフォーマンスがあったのですが、椎さんのサポートがその効果を一層のものにしていたのです。
或る雨上がりの午後など、ちょうど作家が留守だったのですが、アプローチに展示された作品「音の切れ端」の鉄板の、既に赤錆が浮き始めている何十枚もを、一枚一枚丁寧に拭き取っては、オイルを塗り直していた姿が印象的でした。また或るときは椎さん自身も金沢さんのパフォーマンスとコラボレーションをしたりして、観客を大いに楽しませていたことも強く記憶に残ることでした。それにコンピュータやオーディオ機器にも詳しくて、茶会の床の間を飾る私のビデオ映像もDVDに編集し直してくれるとか、そういったことも彼の器用な手で成し遂げられるのですが、オランダから参加したジャン・マルクは、自分の作品を映像としてギャラリーの壁面に投影することになって、それの実現には、プロジェクターの設置、調整から部屋の遮蔽の加減に至るまで、椎さんの技術が重要な役割を果たしていたと思います。
これらは期間中私が目にすることができた、ほんの一部に過ぎないので、各作家の細かいいろいろを集めると、それはそれは大変な数の事柄が起こっていたのだと思います。
学芸員のもう一つの仕事にこのAIRのプロモーション活動が上げられます。滞在中、さまざな方面への参加作家の紹介とか、新聞やラジオ、TVなどへの取材依頼などなど、主に水面下の非常に大切な仕事です。水面下であるために私たち作家にはそれほどよくわかりませんが、作家たちのそれぞれをTV局やラジオ局へ連れて行って、出演の機会をつくってくれたりして、展覧会自体を宣伝するわけです。
私自身は展覧会期中の7月いっぱいの毎週土曜日朝、先に述べた奥村潮さんのFM青森の番組に出演して、作品のことから、ACACひいてはAIRに付いての話をしたり、割れ茶会とか、敦子も一緒にアピオスパンのイベントのことも話すことが出来たのです。もう一つ、青森ケーブルTVの名物番組で自分の今回の作品やイベントのことを話する機会を得たのでした。そのほか展覧会の初日前後から青森テレビによる作品の制作風景の取材や二日目の割れ茶会を撮影してくれたり、それから市内の甲田小学校に於ける私のワークショップ”悟空よ!”の模様を、やはり青森テレビのニュースワイドによって取材、放映してもらったのです。
これらは日沼学芸員によって進められたのですが、甲田小学校のワークショップの場合には事務職の若狭谷さんを中心に、日沼さんと椎さんそして3人のサポーターとともに連れられて行ったのです。
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