人間の過剰を吸収するアート『炭書』グーテンベルグ期の終末に
実は私は、このギャラリーでお茶のパフォーマンスをするに当たって、少なからぬ不安を持ってきました。それはここは美術館として当然ながら作品を”見る”ということを主眼とした空間であるせいか、音響の状態がイマイチで、反響して相手の話がよく聞き取りにくいのです。茶会の楽しみは、もちろんお茶そのものの味も大切ですが、何よりも出席の人々との間で、当日の趣向や並んでいる作品の感想や、この地にまつわる様々な事柄に迄及ぶ”会話”を大事な要素として望む私としては、肝心なその話が聞き取りにくくては・・・と、そういう危惧を抱きながら始めた茶会でした。
しかし茶会が始まって、始めはかしこまって誰も積極的に口を開きませんでしたが、そのうちに青森の駅前の市場のこと、近く始まるねぶた祭の情報とか、パンに練り込んだアピオスの産地、今日出された饅頭の話題から、奈良にある饅頭の神社の話がいつしかこの先の酸か湯温泉の近くに「まんじゅう蒸かし」という変わった温泉がある、といった、実にさまざまな楽しい話、茶会という切り口からさまざまな青森を知ることが出来たのです。
というように、ふと気が付くと、割合と話がよく通っているではなありませんか。相手の話もなんとか聞き取れるし、こちらの言うことも・・・つまりなんとか会話が成立しているのです。何故だろうか。点前をしながらいろいろと考えたのですが、つまり茶室であるギャラリーの壁面には、私の作品と、小学校の生徒たちへの”クローンド・ヴィーナス”のワークショップで制作した、やはり破壊と再生の、分厚く張り重ねた段ボール絵画がびっしりと埋めています。中には立体作品もあります。この不思議は多分そのせいなのではないか。子供たちの作品が過剰な音の反響を吸い取ってくれた効果なのではないのかと思うのです。もしふつうの展覧会のように私の薄っぺらな作品だけを並べていたのでは、おそらくこういう効果は得られなかっただろうと、思わず胸を突かれる思いがしたのです。
結局これは私にとって大きな覚醒となりました。自己をしゃにむに押し出してゆくアートではなく、人間が作り上げてきた様々な過剰を吸い取ってくれるアート、という啓示です。
そこから、書物を炭に焼く『炭書』という発想が殆ど瞬間的に生まれました。菊池仙陽さんがオブジェに使ったりんごの樹の炭を焼いてくれた、つがる市深浦町の建設会社経営の岩谷義弘さんと会えたことで非常に早く実現しました。
そもそも言葉を発明して以来の人間というのは、様々な過剰を生み出してきて、私たちが今見るような大きな余剰を抱えた豊かな社会を生むことになったわけですが、書物はその大元にあるものです。特に15世紀半ばグーテンベルグによって発明された活版印刷術は、それまで王や貴族たちと僧侶のものであった書物を、一気に広範に、誰にでも手の届くものとしてきて、現在の巨大な文明を生み出してきました。つまり耳のものであった言葉は、以来、目のものに取って代わられて来たのです。しかしそれも今、高度に発達するエレクトロニクス時代に再び取って代られることになって、その役目を終えようとしています。これはそういう書物を炭に焼いて、この書物が築き上げた過剰な環境の浄化を果たさせるという書物の再生プロジェクトです。そしてまさに『手と目と耳の先へ』そのものです。それはまた、何よりも先ず、自分の中のグーテンベルグ期の乗り越えをこそ促して止まないものなのです。
いま岩谷さんは炭が持つ環境浄化能力に自分の仕事を賭けて、本業の傍ら、ひたすら炭焼きをしています。岩谷さんの炭焼きの特徴は、在来の炭焼きのように、山の樹を伐って炭を焼くのではなく、青森の地で品種改良やなにかで多量に伐採されるりんごの樹を環境浄化装置として”再生”することです。そして岩谷さんの本業である建築の、廃材もそれに加わって、まさに『破壊と再生』そのものの仕事なのです。
その岩谷さんの協力によって、この『炭書』のプロジェクトは感激的な早さで実現して、私の最後の茶会の床の間を飾ることが出来たのです。
書籍を炭に焼く、というと、いわゆる焚書坑儒とう権力的なものが思い浮かびますが、これはもちろんそういうものではなく、また実際に書籍がこの世から要らなくなるとか、ということでもないのは言う迄もありません。現に今私がこうして書き綴っているこの文章も、まずホームページにでも乗せて多くの人に見てもらう、という方法もあるかもしれませんが、それと同時に、小さな冊子にして・・・、ということはやはり一つの書籍という形にすることを念頭に置いて書いているものだからです。ですからこれはあくまでもそれは理念形としての『炭書』ということなのです。
炭に関してもう一つ、私が先の『庸二の楊枝』12.000年プロジェクトで、非常に気になっていた点は”再生”と称して削り出す楊枝はまあいいとして、そうしてどんどん削っていくことで、そこに止むを得ずたくさんの”削り屑”という新たな”破壊”を作り出していってしまう、という点です。
つまり、破壊を再生しようという私という人間が、更なる破壊を起こしているわけで、その状態を私はギャラリーの壁面に小さな棚を吊って、削り出した楊枝をそこに並べたていったのですが、同時にこの削り屑を楊枝の列の棚の下の床面にぱらぱらと撒いていったのです。そうすることでその私の所行に伴う忸怩たる思いを顕在化してそれと向き合ってゆくことにしたのです。つまり自然による”破壊”⇒楊枝としての”再生”⇒削り屑、というさらなる”破壊”で終わる、という図式をです。ところがこの削り屑を『炭書』と同じようにやはり炭に焼くことで、環境浄化或は活性化装置としてもう一段の”再生”を果たす、という納まりをつけることができたのです。これもまったく岩谷さんのお蔭です。
”クローンド・ヴィーナス”の宇宙学とは聊か大げさですが、その上にこのプロジェクトには根本的に非常に気に入っている点がありました。根本的に、と書きましたが、それは”クローンド・ヴィーナス”という仕事全体が持っている、という意味です。それは「余白の再生」の項でも書いたように、切り刻んでゆく作業が終いにはクオークといった極微の宇宙へ、反面それを貼り合わせてゆくことで極大の宇宙へ、という意識があったように、こでは楊子を削りに削っていってやがて極微の宇宙へ削り落として行く、という意識です。それがさらにリフレクトする極大の宇宙へ、という私の意識のありかを一層直截的に際立たせてくれるように思えるからなのです。
そうした極微・極大の宇宙の中間に、自分の”今”を差し挟む、という気持ち。或は自分の身体の中を極微・極大の宇宙の流れを通過させる、或はそれに身を委ねるという感覚です。
ところがこうして私の『炭書』について書いている10月14日、テレビのWOWOWで、「デイ・アフター・トモロウ」という映画があって、見るともなく見ていたのですが、これこそ環境危機から捉えた焚書の映画だったのです。そういえば去年の夏頃だったか、よく町中で見かけた、自由の女神の片腕が凍り付いている写真のポスターとともに、地球に再び氷河期が到来するSF映画、ぐらいにしか思っていなくて、実のところまったく無関心でいたのです。
ストーリーは、地球温暖化の影響で地球が、氷点下70度といった巨大な目を持つ巨大竜巻に次々と襲われて、人々は皆、南を目指して避難してゆくのですが、途中で次々と凍死してしまいます。ニューヨークで僅かに数人が助かるのですが、それは図書館に避難した人たちで、なんと膨大な蔵書を片端から燃やしたり、破って体に巻き付けて暖をとっていたのです。つまり書籍という知の固まりを、熱にかえて再生する、というように私には見えました。
印象的だったのは、その中の一人が、稀覯本の部屋から、あのグーテンベルグの印刷した42行聖書を持ち出して、この人類の宝だけは自分が何としても守りたい、といって両手で抱え込んでいる光景でした。ここで面白いのは、書籍というものが、常に先進諸国とそして地球温暖化の原因と、等号で結ばれている事でした。
そして書籍は何人かの人命を救うために、自らを滅ぼして、熱に代るのですが、一方コンピュータは、宇宙船とコントロールセンターとの間で辛うじて健在で、大竜巻の襲来を告げて人々を誘導したりするのです。巨大竜巻きが去った後の、汚れをすっかり払った大気に浮かぶ地球の様子を、宇宙船からモニターしているのです。
結局、大統領も南の発展途上国の大使館に避難して、今迄こちらが助けているとばかり思っていた途上国に、こうして助けられている、という現状を述べ、そこから先進諸国の侵した過ちを告発するという、まことにうがったものでした。
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