世界の希望としてのYubanda

日西墨友好400年の思い
– 400年前に何が? –

 今年は日本とメキシコの友好400年の年に当たるそうで、日本の各地で記念の催しが開催されていますが、房総半島の太平洋岸、御宿という町では、メキシコ大使他をお招きしたりしてかずかずの記念イベントが大々的に予定されております。その中の一つとして、日西墨友好400年記念の現代美術公募展が開催され、私も審査員の一人として関係しております。400年の友好と聞いて、はて、その頃、両国の間にいったい誰がどのようにして友好関係をつくり出したのか、山田長政? 、支倉常長? あたりかといぶかる向きもきっとあるに違いありません。現にいま東京世田谷美術館で開催されている「メキシコ美術展」のオープニング・レセプションでの酒井忠康館長の挨拶も、まずそんなことから始められたくらいです。しかしその立役者は、じつは南房総の一漁村の、名もない漁師たち、海女たちだったのです。

– ロドリゴの遭難 –

 ことの発端は、1609年(慶長14年)9月30日、フィリッピンのマニラを出発しメキシコに向かう途中の一隻のスペイン籍のガレオン船サン・フランシスコ号(1000tくらいだそうです)が、房総沖で大しけに遭い、浅瀬に座礁、難破して、373人の乗員が初冬の冷たい海に投げ出され、房総半島のYubandaという、太平洋沿岸の小さな漁村に漂着した、というものです。Yubanda。それは遭難したなかに、任期を終えメキシコへ帰国する途上のドン・ロドリゴ・デ・ピペロというフィリッピン臨時総督が、後にスペイン女王への報告書として書いた「日本見聞記」のなかで、そのとき手厚く救助に当たってくれたYubandaという村の漁師たちの献身によって、乗員の大半の317人もが救助され、その後日本の権力者(家康)によって手厚く保護された経緯をつぶさに報告しているのですが、そのロドリゴというクリオールの耳にYubandaと聞こえた村の名はじつはIwawada、つまり岩和田で、現在の千葉県夷隅郡御宿町岩和田という、この辺一帯は、昔からアワビやサザエを穫る海女の潜水漁をおもにする地域で、私のアトリエもその岩和田とは地続きの小さな入り江の、やはりそうした海女たちの村のなかにあります。

– 海女の村に伝わる伝説 –

 梅雨があけていよいよ海水浴シーズンになりますが、私のアトリエのあるこの南房総の太平洋沿岸一帯は、さすがに波も荒く、流れも急で、このごろはあまり耳にしませんが、私がこの村に住むようになった50年ほど前には、ちょっとした台風でもよく難破したり座礁する船が、何年に一度かにはあったものです。私も昔この辺で遭難したという外国籍の船の羅針盤を一つもらって持っていますが、晴れた夏の海遊び、サーフィンなどでもよく溺れる事故が後を絶ちません。ですからこの辺の漁師は、浜辺で網の繕いをしたりしながらでも、絶えず沖に注意を向けて、誰か溺れそうにしているとすぐに目の前の船を出して救助にむかうというのです。

 なんでも人間は、中心体温が30℃より下がると意識障害を起こし、20℃近くで心臓の動きが阻害され、やがては死に至るのだそうですが、長時間冷たい海につかって、浜に打ち上げられた人々を蘇生させるのには、人の体温でゆっくりと温めてやるのがいちばん効果的なのだそうです。体温で温めるとなると、これはやはり皮下脂肪を豊かに蓄えた女性=海女たちの力に頼る他ないわけで、「間違っても湯に浸けたりしちゃおえねえ(いけない)」と、ここの漁師たちに昔から伝えられている蘇生術のことを、この村の長老である淡路屋さんは、新入りの私たちによく聞かせてくれたものです。

 そしてそのついでに今では伝説となっている、上述の400年前に起こったロドリゴの大遭難事件の昔話を聞かせてくれたものです。難破して海に投げ出された乗員はロープや策具、板きれなどにつかまって10月の冷たい海に一晩中浸かっていたわけですから、体の冷え方も激しかった筈で、何人もの乗員が凍死寸前で浜に打ち上げられたということです。その有様に村の漁師たちは、誰彼無く、先ず濡れた衣服を脱がせて乾いた布でよく拭き取り、その体を、やはり裸になった海女たちが自分たちの定法通りにその体温で直接温めるなどして蘇生させ、結局317人という大半の命を救った、という昔話です。

– 海女たちのせつない話 –

 体温を奪う海水との戦い。これは遭難者ばかりでなく、海女たちにとっても日常的なものであって、私がこの村で聞いた海女たちの話は、どれもせつない感動的なものでした。産み月になっても海に潜るのは常識で、なかには海の底で産気づいて、そのまま上がった海女小屋で産み落とす、といったことさえあるそうです。そのとき母体はすっかり冷え切っているために、赤ん坊の血色はなく、紫色になって生まれて来るのだそうです。さっそく仲間の海女たちが手伝って、いそいでボロにくるんで抱いたり焚き火で温めるのだそうです。その時も「けっしてお湯につけたりしない」つまり産湯は使わせないのだそうです。

 些か余談にわたりますが、海女にはもう一つ呼吸の戦いがあります。空気を目一杯吸い込んでそのまま詰めて、海底まで一気に潜る “息詰め” の技術はなかなか身に付くものではなく、海女たちの修行の大きな部分を占めている、と、私の村いちばんの海女照子さんはいいます。ときとして息継ぎに失敗して命を落とす海女もあるということです。

 こういう話を聞くたびに私は、目の前の浜に、限りなく打ち寄せる波のうねりを見ながら、かつて海の生物から進化して陸に上がって、以来、すっかり海の中で生きるすべを忘れてしまったわれわれ哺乳類の、遥か太古の昔をおもうのです。

 このあとロドリゴの一行は、江戸におもむき二代将軍徳川秀忠ならびに駿府の大御所家康にまで謁見し、殆ど一年近く豊かな日本体験をした後、日本に対する最大限の好印象を抱いて、三浦按針によって建造された帆船を家康から貸し与えられ、無事、メキシコへ帰国します。こうして日本とメキシコ、その宗主国スペインとの強い友好関係が始まります。

 そうして書かれたロドリゴの「日本見聞記」。ところがこの「日本見聞記」には、着物や穫れた魚、米・味噌といった必需品を惜しみなく分け与えてくれた村人の献身的な救助の有様は書いてあるのですが、案の定というか当然というか、Yubandaの海女たちに、そのようにして助けられたという肝心なことは書かれていなかったのです。

 書かれた言葉と、音声の言葉。いま私は、案の定というか当然というか、と思わず書いたのですが、自分の体が生み出す体熱を、瀕死の他者の体に限りなく伝導しようとするYubandaの海女たちの、限りない贈与の気持ち、命を愛おしむこころ根=母性の発する熱量は、十七世紀の初め、ポルトガル、スペインに端を発した植民地主義の覇権精神を表徴する言葉に文字化されるには、ついになじまないものがあったのだと思うのです。

 思うにこの事件は、世界を吹き荒れ今もって私達の上に重くのしかかっている植民地主義の覇権争いの頂点に、一時生じた生温かい隙間にあって、西の果てのスペインと東の果ての日本という、遠い遠い他者同士が、遭難という不幸な出来事を介しながらも、極めて幸せな出会いを果たし、ポストコロニアリズムといった現代的な問題に、ひとすじの光を与える事件だった、といえるのではと思えるのです。

本稿は『私達の教育改革通信』への掲載を目的に書かれたものですが、今回編集を担当された茂木先生から以下のような貴重なご指摘をe-mailで頂きました。それは、当時のオリエンタリズムの在り方ないしは鎖国直前の日本の状態を考えるうえで、極めて大切な部分であるので、それにお答えする文章を加えて、補足させて頂きます。
【e-mail】三浦按針によって建造された帆船でロドリゴらの一行が帰国したとは、家康あるいは徳川幕府の懐の広さを示すものと言えるのでしょうか。 

 ここは決して「家康の懐の広さ」というようなものではなく、日本の権力とスペインの植民地主義との間の利害関係の一致によるものなのです。家康にとっては自国が当面する銀の採掘、精錬の効率化を、当時銀の世界的産出国であったメキシコの優秀な技術の導入によって図りたいとする課題があり、「日本見聞記」によれば、実際に家康からロドリゴに対し、スペイン人の銀精錬工派遣の要請、産出した銀の分け分についてまでが話し合われたということです。その他にも武器や、スペインの先進科学技術の導入、また日本産出品の輸出といった問題がありました。

 一方、ロドリゴ側には、まずキリスト教の布教を先立てて、強大な軍事力にものをいわせて、あわよくば他国を植民地化するという大目的があり、当時盛んに使われたガレオン船も海賊からの自衛という目的はあるにしても、20門もの大砲とともに多くの兵力を擁していたということです。そのうえに必ずといっていいほど聖職者や銀細工職人、採掘技師、輸出用の武器を、これらは当時列強の植民地政策ツールのワンセットとして、それらのエキスパートとともに必ず乗せていたようです。ですからその事情はロドリゴの船も同じで、ロドリゴにとっては図らずも植民地貿易の対象国としての日本リサーチのチャンスに恵まれた、といったところです。

 しかし彼らにとって日本という国は、貿易の相手国として、それほど魅力的な国ではなかった筈で、つまり、日本には彼らが求めて止まない、そして植民地政策の発端となった香辛料というものが、全くといっていいほど産出されません。したがって当面の目標は銀と、シンガポール、メキシコ、スペイン間の寄港地としての利便性に置かれていました。それと一足早く日本に布教を開始したポルトガルのイエズス会、或はオランダのそれと、遅れて参入したスペインのフランシスコ会との宗教的覇権争いを勝利させる、という役割もあって、実際に家康に対し先行のオランダの布教を中止させるように請願した旨が「日本見聞記」で報告されています。

 余談ですが、かのグーテンベルク印刷機が最初の活版印刷機を、天正のローマ少年使節団と共に、マカオ経由で長崎に持ち込まれるのが1590年7月21日、(邦暦では天正18年6月20日)つまりロドリゴ漂着のわずか18年前で、となると日本の印刷術は、ポルトガルの植民地政策の先鋒として日本に布教活動を行っていたイエズス会の重要な布教ツールとしてまず始まった、と云えるものなのです。

 ところで家康の示した好意については、もうひとつ大切な点がありました。おそるおそる上陸したロドリゴの胸の内には、自分がフィリッピン総督であった去年(1607年)のこと、暴動の罪で囚われていた200人からなる日本人捕虜の弁明の正当性を認めて、彼らを釈放するだけでなく、船と旅費を提供して祖国まで帰国させてやり、その後日本の大御所(家康)から深甚の謝意を伝えられさえしている、という一事があり、「私(ロドリゴ)はこのことをしっかりと心に刻み、この人(家康)の謝意に常に大きな期待を抱いていた。そうして、ようやくその期待に応えてもらう機会が到来した」(大垣貴志郎訳)と「日本見聞記」で述べているのです。つまりわれわれが一方的にロドリゴを助けたわけではなく、その前にロドリゴからも助けられていたのです。とすると恐らく家康とロドリゴの間にはそうした一連の相互的なやりとりが意識されていた筈なのです。

 冒頭にも述べたように、いま私達はロドリゴ一行を「助けてやった」という、自ら発する言葉としては、どことなくこそばゆい感じのお祭りをしようとしています。これはこの地域に住む私の気持ちですが、「助けてやった」という声をもう少し抑えて、「相互扶助」の祭り、といったニュアンスをもっと打ち出せないものだろうか、と思っているのですが、如何でしょうか。(終わり)蓜島庸ニ


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