前回の「亀甲館だより」の中で「その踊りは、やがて無心というよりは、意識の比重が非常に軽くなって行く・・・」というようなことを口走ったのですが、とたんに秋山和平さんから下記のような鋭い”突っこみ”が入り、いっぺんに快い緊張と楽しさが増しました。有り難うございます。
*秋山さんの突っ込みコメント/パート1
これまでアトリエに2度伺いしておりますが、創作の現場で感じられている「意識の比重が非常に軽くなっていく」経過まではあの場では想像できませんでした。そういえば昨年ジャクソン・ポロックの映画を見ましたが、彼の「踊り」は非常にきりきりとしていました。配島さんのは「舞い」というかろやかさがあるのではないかと推測しています。
まったくそうかもしれません。作品というのは常に作家の制作の状況とは切り離されるところから、初めて「作品」というモノになるようです。ですから私のこのスタジオでの先の展覧会は、自分のアトリエの中で開催することで、制作の現場に他者の眼差しを引き込んで、立ち会ってもらって、いわばライブテイストの展覧会を味わっていただきたいと企画されたものでした。これからの亀甲館での発表は、そうした作家の制作の様相が伝わるようなものにしたいと思っておりますので、ぜひその時はご光来下さい。
しかしポロックの映画はなんとも凄まじいものでしたね。エド・ハリスがポロックのアクションをずいぶん熱心に研究して、ポロックになりきって、ガチガチの抽象表現主義のオートマティズムの、いわば”純粋舞”を舞っていました。エド・ハリスがとてもよかったです。ここで”純粋”というのは、絵画から宗教とか権力とかさまざまな混入物、異物を取り去って、絵画の純粋に造形的な根拠を求めていく、という近代の芸術思想のもつ、ごくフツーの意味での純粋さのことです。ポロックのその凄まじさは、たぶん、彼が近代主義の先頭に立って、その純粋な造形精神と、一方のスターダムに一挙にのし上がった、そういう、あの時代の資本の掟とが斬り結ぶ激しさ、それと彼の人間的強さと弱さ、つまり人間性のしからしむるものともいえるでしょうか。
それを秋山さんは私の舞と比べておられますが、私の方は仰るようにもっと軽やかで気楽なもので、もしそうであればその気楽さはどこから来るのか。多分、ポストモダン以後の精神状況と、私に独特な、不純ないろいろの想念 ――例えばゼウスの光の舞、などと突然口走ってしまうような――と、そして何よりもポロックのようにエポックメーキングな仕事をなしえないでいるために、それはそれなりにやはり資本の掟から逃げられる筈はなくて、従って殆どネガティブにそれと関わることになっている、というためでしょう。しかし、これはこれでなかなか大変なものがあります。
*秋山さんの突っ込みコメント/パート2
しかし、意識というもの(これは自分というものが何者なのか、どこに位置しているのかという点では、「言葉」を礎にして語られるものですが、言葉を媒介にしない「意識」といったものも成り立ちうるはずで、それを表現するのが絵や工芸、あるいは音楽やダンスであるとは感じますが)・・・。
言葉を媒介にしない意識、まったく仰るとおりです。或いは未だ言葉にならない未発の、言葉という分節を超えたひたすら平べったい世界の底の方から、直かに沸き上がってくる意識――これは先日のトラベローグの会の時にお配りした、大阪の友人達の展覧会カタログで高島直之さんが書いておられるように、確かに言葉では捉えにくいものです。それを絵画、芸術の領域としている、というわけですが、私の絵画は自分の中のそういう意識状態”を”表現しようとしているわけではなく、そういう状態を瞬時体験しようとする一つの”方法”或いは”方便”として絵を創る、とでもいうものです。その方法を名付けて「クローンド・ヴィーナス」と呼んで、意識と無意識の往復運動を繰り返す、殆ど無益なものの持つ軽さ、と、一方では多少秘儀的?な匂いのするものになっているのかもしれません。なぜか!その辺のことは追々この「亀甲館だより」で述べさせて戴くつもりです。とにかく秋山さん、いいきっかけを有り難うございました。
さて、前回はアトリエで現在制作中の作品について、私自身をギリシャ神話の例のゼウスに見立てて、やはりダナエに見立てたキャンバスボードに向けて、色彩である光、光である絵の具の粒を無数に降らせている、と、そんな話しでした。この舞は確かにやがて幾つかの作品を生み出してゆくはずのものですが、これは実はこの夏このアトリエに訪れる『宇宙からの眼差し』と名付ける別のシリーズのための、いわば予祝のようなものなのです。
▲ 写真所蔵I.I.
今まで述べてきた「クローンド・ヴィーナス」という私の方法は、自分で描いた絵の細胞を切り取ってしまう事で、自分というものを一度他者化して、そこから改めて、自己差異化へ向けて出発する、というものです。私が自分のスタジオで開こうとしている展覧会は、そういう自己差異化を更に一歩進めて、今度は自分の仕事場であり今回の展覧会場にもなる建築物(これは建築家東孝光/東利恵両氏の設計になるもので)を読み解くという作業から出発をするものです。
いま申し上げた『宇宙からの眼差し』は、この建築の天井のスリットとの関わりから造る「クローンド・ヴィーナス」です。ここから差し込む太陽の光線をそのまま宇宙からの眼差しとして捉えてみると、それは画面を一度に見渡すいわば神の眼差しではなく、或る間隔――スリットの巾と太陽の位置との関係で(つまり建築と太陽の運行との関係で)出来る、ある巾を持ったものになって、その巾の分だけが見えていて、それが太陽の運行に従って刻々と移っていく・・・というわけです。
もともと切ったり貼ったりして出来ている絵を、宇宙の視線は、彼らのやり方で切り直して見ているように思うのです。宇宙から絵が見返られている、という感覚です。これはサイト・スペシフィック(場所限定)的なばかりでなく、春から夏へという期間限定の、そして季節によっても違いますが、だいたい1時頃から4時頃までという時間限定の絵画、というまさに非実体的な性質のものです。で、スタジオの中に座って、この時間をじっと過ごすわけですが、絵画というクローンされたもう一人の自分が、いま宇宙の眼差しに見つめられている、という安らぎと悦びを感じる時間、至福の時です。ですからこの作品は今現在、冬の時期にはお休みです。
結局、これは私の天動説みたいですが、地もやはり動いていますし、そこでは私という一つの天体、のモビリティという自転と、だいいちビッグバン以後、宇宙全体も猛烈な早さで動いているということですから、天体全体のモビリティといういわば公転とが互いに関係し合ったものになっているわけです。そして私の”視点の遠近法”はここに於いて一点消去主義視点から、自他往復の視点を獲得するわけです。
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