『亀甲館』という私のアトリエの名前を聞くと、多分その時代がかったネーミングをいぶかりながら、また何か曰くありげな名前から、さぞ何か深い思い入れがあるのではないかと、その名付けの因り起こりを訊ねられます。それには次に述べるような、私のいわば「見立て癖」というような私の性格によるものかと思われるのです。ひどく他愛のないもので、どうかお笑い下さい。
考えてみますとこの見立てという心の働き、或いは眼差しのありかたというのは、およそ人間が世界というものを獲得する途上で起こる言語的基本的な心性によるものと思うのです。この後ほどにして、先ずは「亀甲館縁起」を申し上げることにしましょう。
よく、赤ちゃんを宿した女性のお腹には海がある、と言われていますが、いま私が住んでいる南房総のこの村は、まさにそんな感じの場所なのです。
三方を山に囲まれて太平洋に向かって開けた小さな入り江の漁村で、そこに出入りするには、従ってその三方の山の一つに穿たれた素堀の、狭くて長い、そして薄暗い感じのトンネルを潜っていくのです。すると突然海に面した光に満ちた入江の小さな、そして集落が開けているのですが、そういう母性原理を秘めた暖かい場所なのです。
私は、およそ40年ほど前のある日、撮影のロケハンの最中だったのですが、その時恰もあの武陵の漁夫の面持ち(見立て)で、夢のようにこの桃源の村(これも見立て)に迷い込んだのでした。戸数僅か18軒の、やはり漁師の村でした。いっぺんにこの村が気に入ってしまった私に、その時最初に出会ったこの村の長老は、あの写楽の江戸兵衛(見立て)のような顔付きで、すぐさま私にその村の一画の、500平方メートルほどの土地を分け与えてくれたのです。しかもその土地というのが、村の、一際奥まった崖の上に、弓を半ば引き絞ったような、不定形の形をしているところから、土地の人はそれを亀の甲羅に見立てて「カメンコバ――亀ン甲ウ場」とよび慣わして来たところだというのです。益々気に入ってしまって、さてそこに建てるべき私の茅屋を「亀甲館」と名付けました。
この亀甲館は、全くの茅屋ですが、時によっては絢爛とした楼台と夢見る(見立て)時だってあります。実は我が家には中国製の朱塗りの屏風が立ててあるのですが、これがなんと明代の画家、仇詠英描くところの宮廷女官図(もちろん模写に決まっていますが)で、四曲一そうのその一扇々々にはそれぞれ、或いは花を賞で、詩を作り、笛を吹き・・・といった、どうもこれは当時の宮廷の女官達の徳目を謳った、一種の見立て絵のようですがよく分かりません。
しかし、するとたちまちにしてそこは、美姫三千と詩われた後宮の、妖しげな空間に見立てられるのです。となると目の前の海は? 太平洋ではなく、海とも見まがう揚子江。後ろの壁には現代美術の作家・田名網敬一さんの仙境見立て図絵?カオスの気を纏った象がのし歩き、螺旋状にバベルの塔を巻きながら立ち上がる常磐松の奇矯は、ようやく疲弊した私の生命力をひたすら鼓舞してくれるのです。とするとこの楼台の主は?いやはや、そんな見立て遊びに耽りながら私はふと「亀甲上にむさぼる万年の睡い(うまい)」とかなんとか、訳の分からぬことを呟いては、やがてそこはかとなく燻る桃源の薫りに、半睡半醒の脳髄の午後を迎えるのです。
そんな茅屋にたまたま来客でもあろうものなら私はすぐさま、パリに住む妹が戯れに送ってくれた、深紅のサービスエプロン(胸のところにマキシム・ド・パリとフランス文字の白い縫い取りのある)を首からかけて、今度はそこがグルメのレストランに見立てられるという寸法です。その日のメニューは、この村で獲れたスズキのグリルにオゼイユソース。これはワイフが得意とする一皿です。オゼイユはすかんぽのこと。前の畦道も「オゼイユ!」と呼びかけるや、何かしらフランスの匂いが漂ってくるから不思議です。
そういえばオゼイユの畦道のすぐ傍らから小さな山道になっているのですが、たまに野ウサギやリス、タヌキなどがちょろちょろと顔をみせるののですが、そんな時はその野ウサギも「うさぎ追いしかのやま・・・」のそれではなく、「飽食して昼寝をしている野兎の肉一羽・・・」といったあの料理の得意なロートレックのレシピの世界を見立てることになって、たったの今まで、自分はセザンヌ好きと思いこんでいたのに、今度はロートレックに俄な心変わりをして、いそいそと厨房へ駆け込むとは、我ながら何とも情けない仕儀なのです。
今使っているアトリエはここから車で7-8分離れた、こちらは谷間に拓かれた田圃の中にありますが、これもそのまま亀甲館と呼ぶようになったのです。
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