旧モンテーニュの家の玄関の前の筆者。左上にモンテーニュの事蹟を記したプレートが見える(撮影/遠藤恵子)。
*モンテーニュに関しては3ページ目を参照。
この稿は初め『私たちの教育改革通信』といウエッブ上で発行している雑誌からの依頼で「匂い」について書くことになったもので、同編集部のご好意で、ここに転載させて頂くことになったのです。そして同誌上では、紙幅の都合で割愛した、幾つかの臭いの記憶を加えて「臭いの自分史」としてご覧頂くことにしました。
そのご依頼を頂いたとき私は、若き日に読んだマクルーハンの「中国人と日本人は何千年もの間、時間を香りの変化によって測っていた」という言葉(『人間拡張の原理』後藤和彦・高儀進訳/竹内書店刊)があった事を思い出して、その「香りの変化」について書かせて頂こう、と思っていたのです。というのもマクルーハンのそれは、その本の中の「時の匂い」という奇妙な副題を持つ論文の一節で、メディアとしての時計を、グーテンベルグ印刷術との関係で論じた、なかなか面白いものでしたが、私の記憶では、中国と日本とで、その「時の匂い」というものが、果たしてどのようであったのか、が、具体的に説明されてなくて、当時、気になりながらも先を急ぐあまり読み飛ばしたままにしていたことを思い出したからです。つまり今回その部分を自分の為に埋めて、改めて学び直してみるようなものを書きたいと思ったのです。ところがいざ書き始めてみると、仏教や民俗行事や、万葉集とか源氏物語、清少納言などなど、いくら並べても、こちらの力量では、それはもともとが大それた話で、ちっとも面白いものにならないのです。
考えあぐねた末に、ふと、それにしても人間は、自分の嗅覚の記憶をいったい何歳ぐらいまで、辿れるものだろうか、などと自分の思い出を辿っているうちに、何となく一つの自分史めいたものになってしまった、というのが本音なのです。
とはいえ、私のような人間が、自分史を書く、或は自伝を、などまったく思いもよらぬことで、(書かない、ということに、一つの頑固な思い入れもあって)とにかくぽつぽつとキーボードを叩き始めたのですが、そのようにして、恐る恐るながら書き始めてみると、何とも情けないような匂い、いや臭いの自分史、それまで気付かずにいた一種の露悪趣味的な自分の姿に愕然たる思いでおります。
さて、私は普段絵を描いておりますが、それとパラレルに「食」乃至は「料理の理法」を基にしたアートイベントをしてきました。つい先頃もArs誌上で『グーテンベルクの塩竈焼き』などという怪しげな料理術のアートイベントをしたばかりですが、それは、本を炭に焼く、という事をテーマにしたイベントです。私達のこの文明をかほどにまで肥大させた元には、15世紀ドイツのグーテンベルクという一人の銀細工師による金属活字と活版印刷術の発明があります。それまで写本に頼ってごく限られた人々、例えば少数の権力者とか僧侶の間でしか流通していなかった本という知の記録を、マスメディアにまで爆発的に拡張することになり、今に至る巨大な文明が創り出された、とはよく云われるところです。しかしそれも今や、ITというテクノロジー革命によって、知の、或はメディアとしての主役を、譲り渡そうとしています。その主役の座を降りようとしている現在、その本を炭に焼いて、「環境活性炭書」として再生しよう、ということから始まったものです。Ars誌にはそれを料理仕立てにして、塩竈焼きをすることになったのです。
また一方、先頃からNHKテレビで『チャングムの誓い』という人気の韓国ドラマに、私はすっかりハマっているのですが、それを観ながらふと、その民族固有の匂いの存在を思うのです。そこで今、私の食のイベントとして、Ars誌の次号の企画で、匂いのエスノ・ナショナリズムとでもいうような、或はエスノ・ナショナリズムの底深くにある匂い、について、そういうものが果たして有るのかどうか、有るとすればそれはどういうものか、を、料理という理法を通して考えてみたいと企画しているところなのです。
と言うのも今、私たちの社会の各方面を覆うグローバリズムの勢いは、日を追って大きくなる一方で、ここに来て、われわれの地球は確かに一回りもふた回りも狭くなったという実感が迫ってきます。生活様式もどんどん変わっていく中で、食の在り方一つにしても、街を歩いても、世界中の料理が殆ど一直線に並んで、エスニック料理などという、一頃はやりのウリは意味をなさないくらい、これでもかこれでもかと目の前に、見慣れない料理が登場してきます。いまやわれわれの舌は、たとえどんな味が乗っかろうともたじろがぬほどの、強靭さ? 別の言葉でいえば、味覚的グローバリズムを獲得した、とも云えるほどです。
しかし今申したように、私は食のアートイベントをして来て、いろいろな食の在り方を見てくる中で、確かに舌の方はそんな風にグローバルになるのですが、味に伴う「匂い」に対しては時に受け付けがたい拒絶反応や違和感を感じる事にしばしば行き当たります。いったんそう感じると、舌の方も手放しで悦べなくなって「おいしいけどどうも・・・」という味に出会うことがあります。味と匂いはほとんどワンセットですが、私の場合、嗅覚の方が少し頑固なところがあるのかも知れません。それは、味というのは調理という人工によって作られる面が多いのですが、匂いは、そればかりでなく、もっと生理的な、生物的なものに根ざす場合が多いからかもしれません。マトンや牛肉から、或は魚の肉から、たとえそれが嫌だと云ってもその臭いを抜き去ることは出来ません。せいぜい香辛料で中和するぐらいで、料理で下拵えと云われる部分は、大概の場合その中和の方法である場合が殆どです。
それにしてもテレビのコマーシャルでは今、臭いの受難時代です。オヤジは臭いからスプレーしちゃう・・・とか。アニメ風に描かれた動物の家族が、外出から帰ったお父さんに、消臭スプレーを吹きかけている映像です。特に今はタバコの匂いが標的になっているみたいですが、口臭、腋臭、トイレ、どうもテレビは、さまざまな臭いを摘発しては、絶えずオヤジに脅しをかけてくるみたいです。
テレビが「カレーシュー、カレーシュー」というのは「加齢臭」だというのです。思わず自分の袖に鼻を当てて、既に十分に加齢した筈の自分の臭いを深々と吸い込んでみるのです。いつもと変わりない、別に何の変哲もない臭いでしたが、この加齢臭の予防法とかいう番組や雑誌の記事がしきりに目につきます。
オヤジばかりではありません。この間町で見かけたのですが、散歩の若い奥さんの連れた小さな犬が、突然街路樹に片脚をあげて・・・、そこまではよく見かける風景ですが、その時奥さんの片手には小さなスプレーが握られていて、犬が用を済ました樹へ向けて、シュッシュッと、そして返す刀(とは変な言い方ですが)で犬のお尻の方にもシュッシュッ。このスプレー、もしかして消臭と消毒のための、常識的な愛犬用グッズなのかと・・・。しかし、スプレーされて匂いを失ってしまった犬の社会というものは、一体どうなってしまうのだろうか、いささか心配になってくるのです。もっとも犬の鼻は、人間の嗅覚の百万倍も敏感なのだそうですから(M・バートン『動物の第六感』高橋景一訳/文化放送)、そのくらいでは何とも応えないのかもしれません。シュッシュッ!とやられる「おやじの臭い」も、愛犬のこれも、いわば「快適生活」という料理術のための「下拵え」なのかも知れません。
それもこれも、極度に文明化した人間社会では、縄張りとか雌雄の引きつけとか、動物に固有の「臭い」というものが、生存にさほど重要でなくなったということ。反対に、文明化に対応するということは、人間から動物臭をぬぐい去ることなのかもしれません。それでもまだオヤジは臭うから、更にグローバリズムへ向けてシュッシュッ!とやるのです。
と、ここまで書いてきて、ふと、ギュンター・グラス原作の「ブリキの太鼓」という映画を思い出しました。逃げ場を失った放火魔の少年が、焚き火でジャガイモを焼いているおばあさんの大きな釣り鐘型のスカート(解説によると4枚重ねの)の中に逃げ込む場面です。その時、その焚き火のシーンを観ながら、私は突然、母親の懐の匂いーーそれはいつも微かな竈のけむりの匂いでしたーーが、ふと香ってきたのです。そしてこの映画が主題とするものは、国民国家というものができる以前からあった、或はそれとは別にあった文化的共同性、例えばおばあさんのスカートの、焚き火のにおい、とか、韓国のキムチのにおいといったような、そういうものと権力との葛藤の小説であり映画であるわけですが、そんなふうにシュッシュッ!と匂いを無くしてしまって、この先人間はいったいどうなるのでしょうか。
とにかく私は、おぼろげな記憶を無理にこじ開けて、行き当たったのが何と、全身どぶ泥の臭いの記憶でした。たしか3歳ぐらいでした。東京は下町のどぶ板長屋で生を承けた私は、いつもドブ板を踏みならしながら遊んでいたのですが、ある日、買ってもらったばかりの三輪車ごとどぶに落っこちてしまったのです。暮れも押し詰まった寒い日のことで、全身どぶ泥、頭からワカメをぶら下げたようになって、その臭いは子供の私にもかなりこたえました。すぐ丸裸にされて、近所のおばさんたちが総出でお湯を沸かしてくれて、「臭い、臭い」といいながら洗ってくれた、そんな臭いの思い出に行き当たりました。
どぶと云えば昔の東京はまだ下水道が完備されておらず、至る所にどぶ川や溝が流れておりました。私の臭いの次の記憶は4歳から8歳ぐらいまでの 1935〜40年ぐらいなのですが、そこは小学校の裏手の長屋で、家の前の道の向こうは学校のコンクリの塀でした。荒川区町屋町3丁目。学校は第五峡田尋常小学校。その長屋の前にも細いどぶが流れていて、ドブ板で覆ってあったのですが、考えてみると下水道が無い訳ですから、すべてこのどぶ川がその役目を果たしていたのでしょう、何かの折にはすぐに異臭を放ちます。特にひとたび洪水にでもなると、町中、大変なことになるのです。どぶは溢れるし、家々のトイレは汲取ですから、酸鼻を極めることになるのです。まだ我が国の治水はそれほど良くはなかったのでしょう、何年に一度かはそんな状態になって、大人たちは畳を剥がして押し入れの上段に入れたり、腰まで水につかりながら、そして子供と年寄りは小さな船で向かいの学校に避難するのです。子供たちは、この船を結構面白がっていたこと、それから夜になると学校で炊き出しのおむすびを皆で食べた事を覚えています。