私は昨年暮れ、パリから円安の波に乗って観光にきた姪御の家族一行を連れて京都に旅行しました。町まちの文字を訪ねて各地を旅するたびに京都駅は通過するのですが、改めてカメラかかえて京都、というのは実に30年振りです。
新幹線の京都駅を降りて、もちろんその変わりようは知っていたのですが、まず出会った文字は、京都駅のあの巨大なモダンなドームの中心に掲げられた広告の文字です。巨大なボードに書かれた「創」という一字の筆文字で、偏(ヘン)の倉の屋根の思いきった誇張が空間の半分以上をゆっくりと廻っていて、しかも筆先からこぼれ落ちる墨のドリップが一巡りして倉の屋根の頭のところまで帰ってきて、そのすごい動線の引力に負けぬように、文字は幾分右に倒れ気味で、これが表現を強くしています。が、それだけではなく下の「口」は反対に右肩上がりに、いくぶんひしゃげながら、上の傾きをしっかりと支えて、そのギグシャグが強い表現をつくりだしています。その自由な動感が間違いなく人目を引くこと請け合いです。
もしかしてこれはいま各所で見かける、いま流行の、と云えそうな筆遣いで、例えばNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」のタイトルの文字もそうですし、ついさきごろ、地下鉄の車内吊りに躍る「夢」の文字。サントリービール、プレミアモルツの新製品のお披露目の「夢」の文字に目を奪われます。武田双雲という書家の筆だそうですが、とくに夢の第13画めの「タ」がくせ者で、払いを一度力づくで止めた後、もう一回筆を継ぎ直して上へ走らせている、かのように見えます。これがなんとも生々しい筆勢の余勢/余剰/過剰の小気味よい上昇感を造っています。他にも高校生の間で行われている書道パフォーマンスバトルなどなど、床の上に延べられた大きな紙の上を、体一杯で走り回りながら書く文字の、自由奔放な筆の走り、ドリップの表現も大いに楽しめる、要するにどこか体育系? の身体表現をともなった文字を思わせるものです、いやどのような書法の文字でもなにがしかの身体的な匂いを伴っているには違いありませんが・・・。
その時はちょっと先を急いでいたせいか、そのくらいの目星をつけて、何の違和感も感じず、慌ててシャッターを切って、そのまま、市内の見学に出てしまったのです。やがて三・四日して帰宅し、データをパソコンに取り込んで、画面一杯に広げてみてびっくり仰天。始めのうちはやはり異常に長い筆遣いの部分に気を取られていたのですが、「創」の立刀(リットウ)の外側の画に、なんと黒いボディコンシャスな衣装に身を包んだ若い女性が飛び跳ねているではありませんか。驚いてさらにその部分にトリミングをかけ、拡大と入力してみると、飛び跳ねた勢いで、怒髪ならぬ蓬髪天を突き、それが筆遣いの勢いと掠れを、異質に拡張しています。異質といっても筆も毛髪も、同じように動物の毛には違いないのですが・・・。さらに、思いっきり跳んだ、という格好でつくった脚の撥ね上がった線をそのまま内側への撥ねの運筆に置き換えることで、全体として肉感的な線が、ぴったりとコラージュされているのです。そうすることで、彼女は体全体を使って書き上げたこの文字の大作が纏う身体性には飽き足らず、もっと、自身の体そのものを作品の中に投げ出して、書という仕事に、もうひとつの生々しい、自己の客体化というファクターを加えたのです。美しい女性が文字のなかに、隠れ、息づいている。なんと楽しい文字なんでしょうか。よく考えたものです。
この広告主は京都に本社を置くニチコンという会社のもので、さっそく広報部に聞いてみると、この文字は川尾朋子という書家のものであり、ここにポーズする女性もその書家その人であるということを知ったのですが、なるほど現代書道はここまで来たのか、といった感慨。そしてそれが現代の産業の、経済システムのグローバリズムとの出会いの、その交点のところに、まさに体を ” 貼って “、伝統的なと思われている京都の街の入り口を飾る出来事、もしかして芸術の ” おもてなし ” として創り上げた、そいうことにいい知れぬ時代のダイナミズムを感じるのでした。この広告は横10m高さ3mという巨大なものでさすがに広大な京都駅を圧していました。
ちなみに川尾氏のホームページを開いてみると、この他にも時として自分の体をはめ込んだりするものがあるようで、例として馬の字のレッカの部分に寝転んだ自分自身の、やはり黒いボデイコンシャスな衣装に身を包んだ形をコラージュした作品が載っています。なんでも角川書店の「関西ウォーカー」に「人字部長 川尾」という連載も始まったということです。なるほど「人字」とは云い得て妙。とにかく一度、氏のホームページなり「人字部長 川尾」なりも開いてみてください。
京都に着く早々、今日的な全く新しい文字に出会って思わずシャッターを切ったのでしたが、私の「町まちの文字」で、未だに忘れられない看板に鳥料理の「鳥彌三」の明かり看板の文字があります。
姪の他はその連れ合いも息子たちも初めての日本なので、舞妓さんを見られるかも、などと云いながらまず花見小路へ。自分たちのことは棚に上げて、なんと外人観光客の多いことよ、などと呆れながら、それでも私はもう、すっかり文字渉猟のまなこになって、一力茶屋や十二段家などわずかな店を残して、古い雰囲気を演出しながらも、やはり新しい感覚の、つまり観光客の悦びそうな(と言ってはなんですが)文字に置き換えられていて、何となく落ち着かぬ思いなのでした。姪御たちには地図を持たせて、適当に繁華街、例えば錦市場とかの探験に追いやって、その間、私の方は一人記憶をたどりながらの、まさにセンチメンタル・ジャーニーはまず木屋町通りと高瀬川が出会う川沿いを目指しました。
もうは暮れかかる冬の川辺を左に、行く手にぽっと明り看板が見えた時はさすがに昔の馴染みに会うかのごとく、胸の高鳴りを感じながら、目指す「鳥彌三」のその前に立ちました。しかし、なんとそれは60年前と寸分も、と思われるほど変わっていない、気品と剛さを漂わせて、ああ、あの時もそうだった、と、何故かホッとしました。文字そのものは和紙に書かれてランプに仕込まれているので、まさか60年まえの文字がそのまま、という訳ではないでしょうが、帰宅してさっそく古い「町まちの文字」のぺージをひらいてみたのは云うまでもありませんでした。
こうしてこの日の撮影を終えて、さて、姪御たちと待ち合わせ場所の、錦市場の入り口の錦天満宮へ。そしてあの時もよく取材に疲れて立ち寄った味噌汁の店「志る幸」へ行ってみることにしました。高瀬川沿いに四条通に出て、さらに通りをわたって、二筋目だったかの小路を左へ、たしかこの辺り、と見当をつけて曲がると、にぎやかな通りの中程に、あの「志る幸」はある筈で、今回も私は鯛のアラを白みそ仕立てにしてもらって、飯はあの物相に盛りつけた盆で・・・、と、思い浮かんでくるのでした。そうそう、やはり暖簾は昔のままでした。
一力茶屋の暖簾
先ほども書きましたが、花見小路の突端の一力茶屋の暖簾は、「町まちの文字」には載せてありませんが、それは私のカメラの腕ではとても難しくて、というのも、一見、どっしりとした柿色の布が下がっているのですが、門内が明るいものですから、場合によっては文字ごと向こうが透けて見えるような状態で、おまけに当時はモノクロでしたから、見事に失敗して、真っ黒な布しか写っていなかったのです。こんどはデジタルカメラのお蔭でなんとか・・・。
当時の文字は、あと「十二段家」の勘亭流のような文字は、昔のまま。ところが建仁寺へ向けて左側に、ちょっと入ったところでふと目に入った「つる居」という表札の文字に、なにか思い出せない、いい知れぬ懐かしいもどかしさを感じながらも、シャッターを何度か押して、立ち去ろうとして、アアそうだ! ここはその昔、たしか、料理やか、置屋かなにかをそのままバーにした古風な祇園の店の雰囲気が売りの・・・、と思い当たりました。
たしか入り口から黒光りする板の間になっていて、まず沓を脱いであがるとそこにカウンターがあってその前に何席か、それから奥へ曲がるとそこがちょっと広めの追い込み、といったそんな設えのバーというのが珍しくて、おまけに若い美人の姉妹が和服と思いきやしなやかな洋装で、それでいてこの街独特の応対のさまが、なかでもブラウス姿の妹の方がなかなか才気の勝った、そんなわけでいつ覗いても、特に陶芸家や画家など、なかにはしゃれたお対の結城とか、ナントカ紬かなにかで、いかにも一癖ありそうな若者であふれていたのです。
「十二段家」の暖簾と「つる居」の表札
なにしろ今から60年の余も昔のことで、祇園といえども夜はひっそりとしていたものですが、もしかしてそれはもっと別の筋だったかも知れませんが、そして当時はこの写真のような瀟洒な艶のある構えではなく、もっと渋い、年代がありありとした黒ずんだ板壁が立ちはだかって、そのうえ入り口も三尺の板戸をぴっちりと閉ざしていて、とにかく他所者のとても入りにくい構えだったのです。やっと入った酒席の華やぎと、花が咲いたような姉妹の応対の様は、格別の取り合わせになっていて、そのすばらしい演出に酔ったものです。
それにしてもこの表札、いや、やはり看板なのでしょうネ、の文字はどうでしょう。全体に間隔を思い切り詰めているので、「つ」から「る」へつなぐ掠れを撓めながらいちど止めて、その分、「る」の起筆の頭に余分な一画を生じさせて、思いがけない表現の強さを演出させている。それに加えて「居」の第三画の湾曲が思い切り張りを持たせて上の二文字を支えていて、見事なものです。おもわず嬉しくなるような文字です。これはこの看板の板面の少し広めのスペースが作り出したものかもしれません。(おわり)