「蘭奢待」:神田神保町にて
「町まちの文字を訪ねて」の今回は、最新感覚でありながら、なおレトロな懐かしさをたたえた文字を、というよりは、レトロな文字こそ、この時代の最新感覚であり、従って人々の心を強くとらえることが出来るのだ、とでもいうような、いわば確信犯的レトロ文字を訪ねてみましょう。
まず実物を見て頂きましょう。先日も東京神田の神保町界隈の書店を素見していて、ふと「蘭奢待(らんじゃたい)」という看板、しかも焼き鳥屋のそれをみつけました。蘭奢待ってあの、世にも名高き名香の蘭奢待か? そして何で焼き鳥屋の屋号が蘭奢待なのだ。という疑問が思わず私を引きつけます。この店は何でも秋田の比内鶏、例のきりたんぽには欠かすことの出来ない鶏肉を使っているというのだが、よほど香ばしいに違いありません。しかしそれはいいとしても、問題はこの看板の文字です。筆先が目一杯くねっています。文字にそういう身振りをさせることで、人目を引こうという魂胆なのでしょうが、お見事です。これはまさに空海の飛帛(ひはく)、雑体書。つまりかなりレトロなのですが、そのユーモラスで強烈な文字そのものの体臭、これが生半なことでは驚かない今時の若いサラリーマンや学生達の心を捉えるという読みなのでしょう。
これはほんの一例に過ぎませんが、文字を書く側、その看板を掲げる店の態度の側に、この「レトロこそ!」という思い入れが見られる様に思うのです。これは看板だけでなく、食品その他のパッケージにもどんどん現れて、中には筆文字でさえあればパンチがでると思い込んだ見るに耐えないようなだらしない感じのものもあるのですが・・・。ここに至ってはもはや「レトロ」などという言葉そのものがすでに無いのかもしれません。
ところで『蘭奢待』ですが、よく見てゆくとまず「奢」の日の字の筆の運びが、煙が渦巻くように、それに「待」の最後の筆の行く先が、まるで煙が宙に漂って、黄昏の街に流れ出してゆくみたいです。筆運びの順序に従って、そうした書き手の身体的な生々しい動きとともに、そう見えないでしょうか。およそ焼き鳥屋の屋号に『蘭奢待』という不似合いな言葉を掲げるオーナーの、つまりレトロフューチャーな心意気を人々に納得させる、説得力が無理なく伝わってきます。それに今の横書き風に、左から右へ書かれています。昔なら「待奢蘭」と書いたでしょう。下で紹介している長谷寺の扁額を見ても、「寺谷長」と書かれています。
その上に最近の繁華街では、昨日新店が開店したかと思うと、何時の間にかまた新しい店に代替わりしている、といった昨今のはげしい飲食店事情があって、そういう繁華街にはどうしても有名なチェーン店がどしどしと進出してきて、街の表情を非個性的なものにしてしまう、という面もみられるわけで、そういう非個性的な中で、いわば一匹狼であるこうした店では、コンセプトも、従って看板も勢い工夫を凝らされたものが出てくるわけです。生半可のことでは人目に留まりません。
もっともこの手の表現の誇張というのは、何も今に始まったことではなくて、江戸時代の滑稽本などにもこんな言い方をされています。
「大道直(だいどうなおう)して髪結床(かみゆいどこ)必ず十字街(よつつじ)にあるが中(なか)にも、浮世風呂(うきよぶろ)に隣(とな)れる家(いえ)は、浮世床(うきよどこ)と名(な)を称(よび)て連牆(のきならび)の梳髪舖(かみゆいどこ)。間口(まくち)二間(けん)に建列(たてつらね)たる腰高(こしだか)の油障子(あぶらしゃうじ)。油で口(くち)に粘(のり)するも浮世(うきよ)と書(かき)きたる筆法(ひっぽう)は、無理(むり)な所に飛帛(ひはく)を付(つけ)て、蝕字(むしくひ)とやらん号(なづけ)たる提燈屋(てうちんや)の永字八法(えいじはつぽふ)・・・」(『柳髪新話浮世床』初編巻之上/式亭三馬/小学館日本古典文学全集)
飛帛とは掠れ書き、そういう表現を専らとする書法のことで、つまり浮世床の看板は、掠れなくてもいいところに無理に飛帛を付て表現を誇張したやりかただと揶揄されています。これは前に申しました、私の『町まちの文字』という本の中に入れたものです。しかし「無理な所に飛帛を付て・・・」などというわりには、この時取材した文字たちは、いまにして思うに、どれも、古さとか、書道の持つ古典的な雰囲気をかりて、その店の由緒ある歴史とか品格を演出しようとする、至って素直なものでした。もちろん今でも屋号を筆書きにしている店の多くは、そうしたものが大半です。ですから基本的にはこの町まちの文字探索の旅自体がすでにレトロという感を免れないものですが、その時の私の心の中には、この激しく移り変わる文明社会にあって、人々の心の奥深くに潜んでいて、当の本人さえも忘れ去ってしまっているようなセンスの一つとして、古い感覚の文字を訪ねて、そこに込められた前近代の心性の身振り、とでもいうものを、すべて新しさこそが美徳という現代社会に差し出してみよう、といったような気分があったのです。
それでも今回ここで取り上げる文字のように、レトロこそ最新感覚、という視点は無かったし、またそういう看板や文字も、私には見えなかったのです。そのことに私は、40年にわたるこの文字の旅の、歴史的な変化を読み取る思いです。
しかしこういう書体というのは何も今に始まったことではなく、超現実を旨とする神社仏閣の扁額の類いにも無いわけではありません。その道で、何といっても有名なのは空海の雑体書ですが、そんな大変なものでなくても、それに類したものは、ちょっとその辺を歩けばすぐに出会います。いちばんポピュラーなものは、日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」のあのひげ文字です。筆遣いは起筆から強さが走り、確りと止めていますが、そのスピード感だけでなく、一方で筆は思いっきりたゆたって、宙に漂い出しています。また「華」という字の中身はくるっと渦巻きを作ってさえいます。
次の長谷寺(はせでら)はいかがでしょうか。これは長野県長野市篠ノ井地区で出会ったものですが、この寺は信州18番札所です。大きな屋根をしっかりと支えている字様の身振りが、派手な緑色と枠の金彩と映えて見事です。谷という文字の頭が鳥が向き合った形をしています。これは八幡様の八の字などによく見られるものです。寺の字の下の「寸」の終筆が渦を巻いて、何事か不思議を呼び込むような勢いです。
しかし、これは筆勢とか、飛帛とかいった気合いで見せるのではなく、一種の図案的なものがあります。筆の勢いではなく、図案的な形で見せようという意図がみられます。つまり先の「南無妙法蓮華経」のあのひげ文字もそうですが、長谷寺という文字そのものが、単なる意味を伝えるものではない、聖なる象(かたち)として、人々の礼拝の対象となっています。その一つ一つが仏の象徴となっている梵字の種字も同じことで、この長谷寺は真言宗ということですから、寺域全体がすでに他の顕教とはひと味違う、神秘感が漂っているのです。山号は金峰山。わが愛する孫悟空でもひょっこり現れてきそうな、何となくそんな嬉しい予感さえします。しかし悟空が生まれたのは花果山の石から生まれたのですが、悟空は西遊記では「金公」と呼ばれて金と火の性質を備えた聖獣です。まあ、単なる連想にすぎないのですが・・・。(レトロフューチャーの文字2へ続く)
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