★1 「蘭奢待」:神田神保町にて
前回の「蘭奢待(らんじゃたい)」★1には後日談があります。あの記事を読まれた東京の I さんという方から、下のようなメールを頂戴致しました。それは「何で焼き鳥屋の屋号が蘭奢待なのだ。」の私の違和感を拭い去ってくれるものでした。
神保町の裏通りで「蘭奢待」をご覧になられたのですね。あの店は私のごく親しい酒仲間が作ったもので、われわれに近い限られた銘酒を提供することをコンセプトに7〜8年前開きました。愛知「九平次」「義侠」、岐阜「醴泉」、高知「酔鯨」、静岡「開運」など東京では珍しい品揃えをしておりました。近年、経営者が変わり焼き鳥屋になってしまい・・・。
さて、件の「蘭奢待」はご推察の通り正倉院の御物から名づけました。東大寺をうまく隠すウイットがいいですね。
メールはまだ続くのですが、そうか、看板はそのままで焼き鳥屋に代替わりしていたのです。そのメールではさらに、岐阜の「醴泉」に件の「蘭奢待」という名の銘酒があること、そのラベルの文字もなかなかいいのですが、同じ岐阜に住む舘さんという方の揮毫(きごう)だそうで、神保町の「蘭奢待」もその舘さんの染筆(せんぴつ)によるものだ、ということを教えてくれました。
I さんも指摘されているように、東大寺という文字が隠されているこの「蘭奢待」は、沈香のなかの最高級品である「伽羅」の古木だそうです。伽羅=最高級、という比喩は、モノの本によると、江戸時代の俗謡に
と謡われて、自分のいい人を最高の香木「伽羅」と並べてみせたり、街行く美男、つまり今云う”イケメン”を「伽羅様」などと呼んだりしたのだそうです。
ところで「蘭奢待」の、言葉の意味はよく知りませんが、同じ音の蘭麝という熟語があって、字義からいえば蘭は植物の、麝は動物性の、いずれも最高の香料で、それを二つ並べて、香り高い高貴なもの、というような意味があるそうです。これはまったくの当て推量ですが、それから推して、「香り高く贅沢(奢)な待(もてなし)」といった感じでしょうか。そうだとすれば確かにそのように凝った銘酒、思い入れを込めた呑み屋の屋号なら似合いそうです。しかしそれにしても名付ける側の思い入れの重さがひしひしと伝わるような物語ではありませんか。
★2 「和伊の介」
名付けに込めた思い、ということで、最近飯田橋付近で見かけた「和伊の介」★2というレストランの傑作な看板は、まずこの字様の異様さに目を奪われます。と、同時に「和伊の介」という奇異な屋号。えっ「わいのすけ」? 一体何のこと。誰かの名前にしてはいささか変な名前ですが、変といっても「きんすけ」といった呑み屋、シンスケという寿司屋もあることだし、「ますのすけ」という魚もいます。先に”名付けの重さ” と書きましたが、「わいのすけ」という名前をこの店に与えた経営者の気持ちの在り処は? 或はもっと若者風に”わいわいと皆で楽しむ「わいのすけ」”、今という時代ならそんな名前もアリかもしれません。しかし、ふと看板の文字をよくみると、「和伊の介」の文字の上に「炉端いたりあん」とおどけた文字で書かれているではありませんか。そうか「和風伊太利亜料理」のことだったのか。蘭奢待に東大寺の文字が隠されているように、こちらは、日本と伊太利亜を、ぎゅっと縮めてこの店の料理のウリを、店名として編み出した、ということのようです。
ところで本題の文字のことですが、この筆運びの異様さ、書道では線の表情を云うのに「肥痩」という言葉がありますが、しかしこれは到底そんな尋常なものではありません。細い画はなにげにひょろひょろと遠慮がちに伸びています。太い画はもくもくっと何かが這っているようで、全体としてどこかおどけた表情をたたえています。果たして一本の太い筆でこの極端な肥痩を書き分けたというのでしょうか。「の」の字に注目してみると、一本のかなり太い筆を操って、まず真ん中の太い線を書き下ろしていって、次第に力を抜きながら、気持ちを穂先に集中させて、上に向かう円の外周の部分に入って行って、すでに書いた右側の「伊」を微妙に避けながら細く途切れそうな線になって上行しています。そして再び太さを増しながら円の頂点に達し、やがて下降に転じ、そこからは一気に膨らんで、まるで下降結腸みたいにむくむくとして動いて静かに止めています。そう見てくると、俄に起筆の穂先の神妙な打ち込みが際立ちます。見事です。和ののぎへん、伊のにんべんや隣の尹のはらいなどの起筆の筆のばらけが、なんとなく七、五、三に見えるのも殊勝です。この文字は、もしかしたら、イラストやタイポグラフィーを書くように作っているのかもしれない、とも思えてくるのです。
★3 「しゃら亭」
次に「しゃら亭」★3という無国籍料理を標榜する店の看板です。「しゃら」という音からすぐに浮かぶのは娑羅ですが、そうとすれば両側の漢字からしても、全体に東洋的な匂いがしてきます。その漢字も面白いことに一画づつが切り離されていて、かしこまった漢字なりに思わせぶりな身振りたっぷりです。真ん中の赤い屋号の文字の身振りとは反対に、もっと筆太で剽軽な身振りです。
それから亭の起筆のなべぶたや口は極端に右肩上がりに書き始めながら、下の丁で平衡をとり、その縦画は体をきゅっと反らせて身振りを誇張しています。もうひとつ面白いことに、うっかりすると全体で一つの文字の偏と旁であるかのように見えるのも、この文字の表情を作り出しています。そういう一種のデザイン感覚ともいえる配慮が、普通の筆文字とはひと味違った、そして明朝体やフォント文字ではもちろん味わえない、新鮮なメッセージを発しています。
★4 「どんと」
左は「どんと」★4という、魚に特化した、マグロその他の丼もの専門の店のマークに使われている「魚」の文字。篆書(てんしょ)をデザインソースにして、人目を引いています。篆書というのは線に肥痩を作らず、今で云えばデザイン的な感覚の文字ですが、それを普通の書道の文字のような筆遣いで、どこか人間的な表情を作り出しています。
茅場町から永代橋へ向かう道筋をちょっと八丁堀の方へ折れたところにある店ですが、方々で見るのでチェーンストアなのかもしれません。
★5 「食神」
最近、市谷駅付近の外濠通り沿いに開店したちゃんこ料理屋の看板「食神」★5は、いっそうデザイナーの関与を感じさせる文字です。前回揚げた江戸の滑稽本よろしく、まさに「無理なところへ」思いっきり「飛帛を付け・・・」て、その面白さを強調しています。いったん筆の線を要素的に分解して、改めてその魅力的な要素を集めて、一種の装飾文字として組み立て直している、といった感じで、まことに見事です。良の頭の点とは形を変えたしめすへんの赤い点もチャーミングです。
次回は暮れのカレンダーシーズンに向けて、ある建築会社が毎年作っている、世界の文豪や大芸術家の筆跡を集めたカレンダーを取り上げます。