先日のこと、友人の写真展を観ようと、地下鉄丸ノ内線の中野新橋という辺りを探し回っていて、ふと、貴乃花部屋の看板を発見しました。協会の理事長選挙とか、このところ何かと話題の多い貴乃花ですが、それだけにTVに映るこの看板はおなじみのものですから、そうか、此処だったのか! と、よろこびのシャッターを切りました。建物はコンクリートづくりのビルで、看板はその玄関に、それは身の丈ほどの大きさの、堂々とした、いかにもこの横綱に相応しい現代的な明るさに充ちていました。その明るさの原因が「貴乃花部屋」という文字の屈託のない、衒いのない、そんな素直さにあることが、おそらくこれを見た誰しもが感じるところではないでしょうか。永いこと町々の看板を見てきて、なかなかこういう文字に出会うことは少ないものです。
部屋のホームページによると、誰か京都の知り合いの画家の文字だそうで、ああやはり専門の書家のものではなかったか、と、何となくほっとする思いと同時に、横綱の屈託のない貌がしぜんに浮かび上がってくるのです。ご覧のようにごくまじめな行書体で、いわゆる書法にとらわれず、しかも肥痩をほとんど無視した、大仰な身振りのない、ゆったりとした運筆のうちに、わずかにみられる、トン、スー、トンに加えられたはずのそれぞれの力も、すべて太々しい線のなかに仕舞い込まれて、抑制の利いた結構をなしています。特に横画の終筆の止めがそのままトンと終わりきらずに、つまり仕舞いきれずに、ちょこっと撥ねているのが、何ともかわいらしいのです。それに面白いのは”貴”の文字の下の”貝”の終いの筆の下ろし方が、逆に反っていて、それがもう少し深くえぐれると”見”になってしまいそうな、無縫さ。そう見えるひとつには止めた後、やはりちょこっと撥ねているからでしょうが、そんなところが何とも言えぬ魅力になっています。
「貴乃花部屋」の”乃”の字
もう一つ”乃”の字ですが、よく漢字の昔は象形文字だといいます。3000年前の中国の甲骨文字。改めて見てみると、モノにしろコトにしろ、それぞれよくそのモノ、そのコトを現しています。アルファベッドとはそこが違います。ここに書かれた”乃”の字を古代の甲骨文字まで遡ろうというわけではありませんが、もしそんな感覚でこの文字を見るとすれば、どことなく仕切り線で両手をつくお相撲さんの、出来るだけ円くなって、瞬発力を内に撓めた体の感じ・・・、そう思ってみるとどこか肉感的にさえ見えるのです。古代の象形文字はモノやコトを極端に抽象化して、仕舞いには1本の線や点にまで肉を削ることで出来ています。けれどもこの場合は、もちろん”乃”の象形文字とは関係ありませんが、一度削った肉を、別の、この看板が要求するイメージに替えてそれを受肉させている、という感じです。お相撲さんの体って強いのですが、この看板を見ていると、強いだけではなく、とても軟らかい感じがします。それに、よく、自分の型を持つ、といいますが、しかしそれは自分本位に型に固執する剛直さでなく、相手も型を持っているわけですから、立ち合いの瞬間瞬間で、相手の出方に対応出来る、柔軟な心も大切なはずですし、そう思ってみると、「貴乃花部屋」という文字全体の角かどの不思議な円み・・・。なかには、ぐっと突き出した”阝”の頭の、ぐっと突きながらもあくまでも円い表現に込められた想いが、立ち上がってくるのです。しっかりとした型を踏襲する相撲字とはひと味違った、いかにも若々しい優しい強さに充ちています。
そのようにおよそ表面的には武張ったところを感じさせない字様なのですが、その分、看板の板、そうした文字の支持体としての板には思いっきり命の木目がとぐろを巻いていて美しい文様を浮き上がらせています。これはケヤキの古木か、いずれにしても銘木です。そののたうつ文様をこの文字は力ではなく、横綱の風格で押さえている、といった感じです。
さて、いろいろと申しましたが、改めて「貴乃花部屋」の文字の全体を見渡してみますと、まず第一文字の”貴”で、いきなりその頭の”口”を、草書的にちょんちょんと二画に省略してリズミカルに始まるのですが、それと対応させるかのように最後の”屋”の中の”土”。上の横画を、やはり草体に線を崩しています。ふつうの筆順としてはこの横画を先に書いてから縦画ですが、おそらくこの場合は縦画をまず書いてその勢いのまま連続感を強調しながら横画をつくっています。おそらく同じ横線がたくさん重なることを、ふと、避けているのでしょう。その点は始めの”貴”の字もそうで、頭の”口”を正直に書くと一字の中に7本もの太い横線が重なってしまいます。この始終、そんなに理詰めに書かれたわけではないのでしょうが、だとするとそれはまさに立ち合いの、一瞬の”変化”。見事と言うほかありません。果たしてどんな方が書かれたのか、気になるところです。
余談ですが写真をよくみると、脇に警備会社のマークがみえるではありませんか。へー、こんなに強い人たちのお住まいでもやはり・・・!!なのでした。
*甲骨文字のことにちょっと触れましたが、近々、甲骨文字のとてもすばらしい童話の本を紹介いたします。なぜ猫はネズミを追いかけるようになったか、という中国のお話です。
コメントを残す