夏暖簾と初鰹

– プロローグ –

 私は画家ですが、写真家でもあります。といっても極めて特殊なもので、それは商店の看板とか暖簾、或は寺社の扁額とか石標といった、いわば書道という芸術からこぼれ落ちた書ー文字、とでもいえるものを、町からまちを訪ね歩いては撮って歩く、といった写真家です。画業とともにそんな仕事を、もうかれこれ40年も続けてきました。そしてそれは、既に20年前に「町まちの文字」と「祈りの文字」という二冊の写真集にさえなりました。しかし世の中にはそういった文字は無数にあり、また年々変化してゆく、芸術の書と違って、いわば消耗的な面もありますので、それで終わりというわけにはいかずに、その以後もずっと続いていて、画業と並んでもう一つのライフワークとなっています。

 これから月一回ほどで、そんな”文字への旅”の中から面白いものをご紹介致しましょう。

– 夏暖簾と初鰹 –
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★1 「三州屋」:三州屋は飯田橋の交差点に架かる横断陸橋の下の路地をちょっと入ったところの呑み屋で、元々は紺染めに白抜きです。

 5月〜6月は世に云う「更衣」の季節。行きつけの呑み屋もそろそろ夏暖簾に代わって、そんなこざっぱりとした感触を、手の甲で分けながら潜る味わいは何とも云えないものです。

 草体で軽やかに書かれた「三州屋」★1の特に州の字。起筆をいちいちストンと落とさないで、全体のリズムの中で生み出すような線に、まことに好もしいものがあり、人目を引きつけます。三州屋とはもしかして主が三河出身なのかもしれませんが、おそらく同郷の客は故郷でしょう。

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★2 「京八」:京八は永代橋東詰めから茅場町へちょっと寄った角にある小料理屋で、ふだんは柿暖簾で文字は白抜きですが、この夏暖簾の文字は白地に墨です。

 「京八」★2のほうはそれとは反対に起筆から終筆をしっかりと運び、全体にどっしりとしたものがあります。特に八という字の払いの起筆の形がごつっとして、そこからゆったりと払ってゆく筆遣いに好もしいものがあるうえに、八字の中心で暖簾が割れていて、風の動きで八の字が異常に割れたりデフォルメされて面白い効果を出していて、思わず見とれてしまいます。

 暖簾や看板など、どの店でもこの”字様”というものには、何がなしその店の、ポリシーという程ではないにしても、商売をしてゆく上での主人の気っ風のようなものが、巧まずして現れているように思えるのですが、客はその文字に込められた気っ風に魅せられて暖簾を潜ります。

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★3 「鰹塚」
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★4 東京・築地の「鰹節問屋の暖簾」

 そして初鰹。東京は佃島の住吉神社の境内で「鰹塚」★3という巨大な石標に出会いました。2メートルは優に超そうという大きなもので、雄渾な文字が深々と刻まれて、見るものの胸を圧します。

 しかし字様はその割にはどこか厳めしくないのは、解説によると、もともとこれが此の島の回船問屋衆の建立になる、という、つまり政治とか権力をダイレクトに表徴するものではないためかもしれません。

 そのせいか、例えば偏の「魚」ひとつにしてもその運筆が、どことなく軟らかく、下の烈火なども四っつではなく三っ点に省略★4するなど、それは間々あることですが、それが例の魚河岸のロゴ程ではないにしても、ふとそれを思わせる定型的なところがあったりするのです。

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★5 魚がしと書かれている「賽銭箱」:日本橋一石橋近くの神社の賽銭箱にこんな金ぴかのロゴが。

 ついでながら魚河岸のロゴ★5ですが、よく見ると筆の掠れの表現が7筋、5筋、3筋と、つまりすべて七、五、三と、縁起のいい奇数に書き分けられて、極端に様式化された身振りになっています。これは何も魚河岸のロゴばかりでなく、商家のロゴでも近代的なモダンなデパートの例えば「三越」とかの商標にさえにも見られることです。

 先述の「京八」の文字もよく見ると、これも払いや撥ねの筆のバラケや掠れを全て奇数の3筋にしています。

 先の鰹碑のある住吉神社には他に写楽の碑や江戸川柳の水谷緑亭の碑があります。初鰹と云えば緑亭とは関係ありませんが、こんな句があります。

二代目の 伊勢屋 近江屋 初鰹

 これは二代目ともなると創業者の苦労を忘れて、すでに初鰹に代表される贅沢を始めた、というものです。神奈川沖から八丁櫓で飛ばして運ばれてくる初鰹。そのうちの何本かは決まって殿様に、もう一本は有名な歌舞伎俳優が、次に料理で名高い八百善、そしてこうした大店が引き取るのだそうですから、高価なこと間違いありません。

爪で火を 灯す後から 倅 消し

 などといったようなことが起こって、創業者が折角汗水流して残そうとして身上ですが、そばから道楽息子がそれを水の泡にして、創業者は苦労の上塗りを強いられることになります。それがついに

売り家と 唐様で書く 三代目

 といった仕儀に成り果てて、ここで我が「文字探索」の領分に入ってくるのですが、三代目当主ともなると、たとえ没落しても自分の文化的ステータスとしての、せめてもの「唐様」という書法へのこだわりの有様をこの川柳は、まことにシニカルな笑いを以て描いています。ここで云う「唐様」というのは「和様」に対するもので、この時期、明末清初、亡命ないしは旅行で長崎へ訪れる中国文人たちの書のスタイルが、その時代の日本の「唐様」という書の流行を創りだしたと云われています。

 

詩は詩仏 書は鵬斎で 狂歌俺 芸者小勝で 料理八百善
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★6 鵬斎の楷書「戊辰臘八大雪賣酒」部分:書道全集より
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★7 鵬斎の草書(部分):平凡社書道全集より

 これは狂歌師太田蜀山人の作です。確かに亀田鵬斎は時のスター書家ですが、その書法は今述べた明代の文人の影響を強く受けたような、文人趣味をにおわせる楷書★6もなかなかいいのですが、一方で晩年には、唐の懐素を学んだり、それをベースとして良寛の書に心酔したりして、楷書とは対照的に少なからずアブストラクト。躍るような草体★7を特徴とし、特に懐素も鵬斎も酔狂の書人といわれ、常に酔余のうちに書をモノした、と云われています。どちらも容易くは判読しがたいものですが、江戸人の気質を満足させるところがあったのでしょう。そういう時代の文化圏での三代目の「唐様」です。

 ついでながら「詩仏」とは大窪詩仏、この人の書も詩人の文字らしく剛胆なものがありなかなかいいのです。「狂歌おれ」のおれとは俺、此の歌の作者太田蜀山人=大田南畝。「小勝(こかつ)」とはあの「おせん泣かすな 馬肥やせ」とともに有名な「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」の電文の主、日本橋芸者の小勝? しかし活躍した年代がちょっとずれるように思えるので別の小勝かもしれません。

 「八百善」は江戸は浅草三谷にあった、当時の文化人のサロンであった高級料亭です。此の手のサロンは時に、例えば今で云う「アリ研」のような会とか、書画の展示会なども行っていたようですから、ときには鵬斎の書の展覧会も当然開かれたでしょうし、或は川柳の云う三代目の書の先生などもここで発表会をしたかもしれません。そのおりには、店の商売をよそに出入りしてはいささかのパトロネージもしていた、というのもあながち空想とばかリは云えないようです。

 私たちがまだ子供だった昭和の初め頃、不動産屋などという便利なものが無かった時代には、どこの街にもこの文字、つまり『売り家』とか『貸家』と書いた半紙大の貼り札をよく見かけたものです。これは決まって斜めに貼ってあるのが習いで、だからこの唐様、ミミズののたくったような字では、いくら唐様を気取っても誰も読めないかもしれない、と、筆を持ちながらも当の三代目の心をふとそんな心配が過ったかもしれません。でも斜めに貼りさえすればいいわけだから、と、思い直して一気に書き上げたことでしょう。今で云えばビルの前に「テナント募集」などとワープロの文字で貼られるところです。

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★8 「住吉神社」

 住吉神社にはもう一つの見るべき文字があります。それは鳥居に掲げられた珍しい陶板の扁額に染め付けで書かれているの文字です★8。住吉神社というと、私などにはどうしても夏の神社という感じがあります。多分祭りが八月にあって、それが水を掛け合いながらの勇壮な神輿渡御があるからなのかもしれません。その夏の社にはぴったりの清々しい扁額です。

 此の文字の書家は脇にあるように、一品幟仁親王。これは明治の皇族、一品つまり皇族の第一位で即ち一の宮、有栖川宮幟仁(たかひと)親王のことで、書道の方では代々伝わる有栖川流という書法を大成させたことでその名前があります。此の他に広島の厳島神社の大鳥居の扁額の染筆もしています。此の流派の書法は、先年亡くなられた高松宮妃喜久子殿下に伝わっているということを最近知りました。私はよく殿下のサインに接する機会がありましたが「き久子」と書かれる字様が、殿下の出自が徳川の御姫様ということもあって、てっきり御家流と思い込んでいたのですが、それは全体にぼってりとした行書のそういう字様なのです(「き」の字は、漢数字の「七」を「品」の字のように3つ組み合わせた「喜」の草書体)。

 さて此の扁額の文字ですが、今も云ったように、社号の文字が陶板に呉須の青い釉薬で書かれています。親王の生年が1812年、没年が1886年、明治17年ということですから此の扁額は、その4年前の74歳の、最晩年の染筆ということになります。

 起筆終筆が極端に誇張された感があります。陶板には私も幾つか書いた経験がありますが、慣れないととても書き難いものです。普通の書道の筆ではなく、釉薬専用のダミフデという少し太めの軟らかい、穂先の長めの筆で書くわけですが、そうだとすればなおさらです。いずれにしてもたっぷりと釉薬を含むことの出来るような筆を、呉須の容器にどっぷりと浸して、なるべくたくさん含ませて書くわけです。それは一画ごとにくたんくたんとして、なかなか上手く線が引けません。その上に書く傍から素焼きか更に本焼きをした陶板が、釉薬の水気をすうっと吸い取ってしまって、次の画へと繋げる運筆のリズムを取り難いものです。

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★9 「住吉神社」:文字部分拡大

 中心の「住吉神社」★9という社号の文字などは、かなりたっぷりと釉薬を含ませて、それぞれの画の起筆、終筆をしっかりと押さえて、鳥居という高所にあって、神威を伝える文字に相応しく、かなり誇張して書かれています。

 全体として、始めの「住」がいちばん大きく大小、大小とリズムを取りながらしっくりと納めているのですが、画と画を繋ぐ筆の運びが「住」の旁りや「神社」の示へんに、筆者の呼吸づかいが聞こえてくるようで、此の文字を生きたものにしています。

 それから両脇に書かれた年号と署名では、釉薬を少し薄めて書いているために、青の色がかなり明るく出ており、運筆の様もかなりリズミカルに滑らかです。そして、神社の扁額ということと、陶板という特殊な支持体に書くために起こった、力の誇張ということが、この流派の書法のいわば「骨」を、より明らかに見せているように思うのです。

 額縁に当たる部分の雲紋はもちろん専門の絵付け師のものでしょう。それにもう一つ、此の扁額全体を覆っている、保護のための美しい金網も見モノの一つです。それもよく見ると、中央の陶板の部分の金網は七宝紋に、回りの額縁の部分は麻の葉紋にと編み分けられていて、なかなか芸が細かく、凝った造りを見せています。


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