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【真の幸福は、称賛されるべきものというより、尊崇され、また祝福されるべきものである】
幸福についてさらに考察を加えていきたいと思いますが、では、これまで説明してきた幸福は、称賛されるべきものに属するのか、あるいはむしろ尊崇されるべきものといったほうがよいのかを考えてみましょう。というのも、幸福はどちらかの可能性にとどまるものではないからです。実際のところ、称賛に値する事柄はすべてその内容がどのようなものであったかによって称賛されるだけでなく、あることに対しての関係性に基づいて称賛されるように思われます。
というのも、わたしたちが、正義の人や勇気ある人、また一般に善き人やアレテー(徳、卓越的力量)のある人を称賛するのはその実践力や成果によってであり、力の強い人や足の速い人など、そのような人々を称賛するのも、彼らが何か生まれついての性向をもっていて、善きもの、優れたものに対してそれが何らかのかたちで関係しているからです。それは、神々に対する称賛の念からも明らかでしょう。神々がわたしたち人間との比較で称賛されるというのもおかしなことであるように思われるでしょうが、これは、すでに述べたように、称賛というものが比較照合されることによってなされるために生じるからに他なりません。
もし称賛がこのようなものであるとするならば、最高の善に属するものは称賛ではなく、何かもっと大きな、より優れたものであるように思われます。事実として、わたしたちは神々を、また人間のなかでも最も神的な人を、称賛というより祝福することで幸福な人と呼ぶのです。善に属する事柄も同様で、だれも正義を称賛するようには幸福を称賛しない、むしろ、より神的でより優れたものこそを祝福するのであります。
<Ar.アリストテレスはここで「祝福する(マカリーゾー)」という語を使って至福なるもの(マカリオン)に言及し、それを神的な幸福としている。これは『新約聖書 マタイ福音』第5章の山上の垂訓の幸福論を想起させる。至福なる者とは祝福される者であるという視点は、アリストテレス幸福論の根幹をなす原理である>
その点、エウドクソスは快楽が優れたものであることについて、じつに巧みに弁護を行ったように思えます。すなわち、快楽が善きことでありながら称賛されないのは、快楽が称賛されることよりも優れたものであることを明かしているのであり、神や真の善きことはそのような称賛されるべき以上のものであると位置付けたからです。というのもそれら以外のものは、他のなにかに比較照合されているにすぎないと考えたのです。
じっさい、称賛はアレテーに関係します。人が美しい行いを実践できるのはアレテーに依ってであり、賛辞が贈られるのは、身体の所産であれ霊魂(たましい)のそれであれ、さまざまな成果に対してです。だが、これらの問題を正確に論じるのは賛辞について検討を重ねてきた者に相応しいことであるでしょう。
とはいっても、これまで述べてきたことからいって、わたしたちにとって幸福とは尊崇されるべき、究極的な事柄に属しているのは明らかなことです。幸福がそのようなものであるのは、幸福が行為のアルケー(根源、元)であるからに他なりません。事実、わたしたちはこの幸福のためにその他のあらゆることを為すのであり、そして、諸々の善きことの原因であるものを何か尊崇すべき神的なものと見做しているからなのです。
<Ar.幸福が人間の行為のアルケー(根源)であるという言明は、人間の行動解析のもっとも重要な視点である。もちろん、行為便益論、合理的選択論等の行為論が論じられてしかるべきだが、人間の意識の根底に、「予感知」としての幸福志向が存在していることがアリストテレスの行為論の基礎であった。それは祝福されるべき、神的で終局的な目的であった。少なくとも祝福されるべき者は孤独ではない(Is.前出の章でアリストテレスは「幸福な者は惨めではない」とも言っている)という点が重要であろう>