本稿は『霊魂論』連続講義第1回目の記録です。
1年と数か月前に、コロナ禍のさなかにはじまった荒木勝先生による「アリストテレスと現代研究会」のオンライン講義を、会員の一人秋山和平が文字に起こし、わたし(石井泉)が原稿整理と構成・編集を行ったものです。この『霊魂論』講義は現在も継続中であり、また一回一回の講義自体が長時間に渡るもので、内容も超難解といわれる書物の読解ですから、本講義を文字にしてわかりやすくまとめるのは、なかなかに困難が伴う作業です。
しかし、実際に聴講し、こうして文章まとめようとしている身からいえば、この講義は本当に素晴らしく画期的なものだと思っています。2300年以上も前の書物についての講義ですが、現代社会を生きる者にとって、いまだからこそなおさらに必要な「知恵」と、この世界を善くし、よく生きるための(根底では同じことです)、真の意味での「教養」が盛り込まれています。
内容は難解かもしれませんが、この難解さは人が生きるとはどういうことか、自分とは何か、そして自然とは? 存在とは?と問うことに必ずつきまとう難解さです。「難解だけど読みやすい」かたちでまとめたいと考えています。
まだ講義自体が完結していません。これまで終えた分と今後の進み具合を見ながら、不定期になりますが何回かに分けて掲載することにします。つまり、すでにできあがったものを「予定調和」的に配分してまとめるわけではないので、まとめるわたしも、じっさいどうなることかとハラハラドキドキしています。
しかし、荒木先生自身も半分苦笑しながら述べていたように、頂上が雲に隠れていても、あるいは全体像がぼんやりとしか見えていなくとも、その山を目指して進む、それが「考える」つまり哲学することの本意でもある…、ということで、『霊魂論』講義の1回目をはじめます。
これからお話するのは、わたし自身の『霊魂論』解釈に基づく、根源的な意味での生命や生物の魂(たましい)、あるいは霊魂と呼ばれるものについての見方、考え方の講義です。アリストテレスのこの本についてこんな読み方をするのは、いまのところはおそらく、このわたししかいないでしょう。理解が正確であるかどうか、それをどう検証するかという問題もあるし、だから、どこまで「学会」などの承認を得られるかはわかりませんが、わたし自身これが正しい『霊魂論』の読み方だとようやく思うことができるくらいにはなったので、あえてアリストテレス理解におけるこの未踏の領域に踏み込んでみたい。
それだけこの本は難しいということですが、逆にいうと、この『霊魂論』をきちっと自分なりに読めた人でないと、アリストテレスの、特に人文社会系の思想については大きな誤解を生じかねません。それだけこの『霊魂論』はアリストテレス理解のための欠かせぬ基礎文献であり、彼の思想における基本中の基本といってよいものなのです。
本書がなかなか解読できない大きな原因の一つは「形而上学」という、あまりに捉えどころのない領域を理解することの難しさにあります。しかし、これが自分なりに理解できていないと、『霊魂論』はいつまでたってもさっぱりわからない本ということに留まってしまう。
そういう意味でも、頂上は雲に包まれて見えないけど、特別に重要なこの大きな山を一緒に登ってみることにしましょう。どこかでずり落ちる危険がなくもないかもしれませんが(笑)、どうかしばらくのあいだ私の講義につきあっていただきたい。
さて、これからこの本を一緒に読んでいきますが、『霊魂論』はいきなり最初から難しい。しかし、この本がベースとなって、『政治学』もあり『ニコマコス倫理学』もあり、また他方で『形而上学』もある。アリストテレスの種々の著作はその後の現代まで続くあらゆる哲学的な思考の基礎になるといってよいものですが、『霊魂論』はなかでもその基礎の基礎に位置付けられる著作です。しかしわたしの印象では、日本での理解だけでなく、欧米の『霊魂論』認識にも大きな問題があると感じています。
ですから、これから皆さんにお話することは現在の通説から逸脱した「荒木説」ということになりそうですが、だから、決して鵜呑みにして妄信しないようにしていただきたい(笑)。それだけわたしにとってもこれはチャレンジングなことなので、わたしの読み方に対し、それぞれが自分の「頭」で考え、解釈がおかしいとか、論理的に辻褄が合わないとか思ったら、ぜひ疑問を提起していただきたい。
それでは始めましょう。この最初の部分は非常に難解なので、わたし自身の翻訳したテクストを少しずつ読みながら解説を加えていきます。第1巻第1章のはじめの部分です。
私たちは、知ること<エイデーシス>を美しいもの、尊崇に値するものと考えているが、その厳密さという点からも、また一層優れたもの、また驚嘆に値するものという点で、ある知は他の知よりも一層美しく尊崇すべきものであると考えており、この両方の性格(厳密さと尊崇すべき点)のゆえに、霊魂<プシュケー>の探求を第一の位置に置くことを当然のことと見なすのである。
また霊魂を知ることは、すべての真理認識(真実把握)にとっても貢献するところ大であるが、とりわけ自然本性<フュシス>の探究にとっても最大の貢献をなすであろうと思われる。なぜなら、霊魂は生きているものの根源のようなものであるから。
まず冒頭の「知る」こと。ギリシャ語でエイデーシス。エイナイ、英語ではknowの名詞形ですけれど、要するに、まず知るということに着目している。知ることは美しいもの、尊崇に値するものとアリストテレスは考えている。
ここで、たとえば講談社学術文庫版(以下「学術文庫)の桑子敏雄さんによる翻訳では、知ることを「美しく価値あるもの」としていますが、わざわざ「価値あるもの」という広く解釈できるやさしい言葉に対して、わたしは漢語の「尊崇」という仰々しい言葉を使っています。なぜかといえば、これはアリストテレスの文章のなかで繰り返し重要なことにのみ使われる言葉ですが、ギリシャ語で「ティミオス」という、ティミオンの形容詞です。何か驚くべきもの、あるいは何か神的なもの、そういう事柄に対しての言葉として使われる。ですから一般的なただ価値あるものとは少し違う。岩波書店の『アリストテレス全集』(以下「全集」)版をみると「高貴なこと」となっている。高貴とはまさに神のように厳かで荘厳なことにもつながる。ティミオスはそういう一種の神的なものの形容詞として使われるものなので、あえて「尊崇に値する」という、やや大げさな言い方をしたわけです。
このことは、霊魂についての考察を通してわれわれが知ろうとする対象は、何か普通の生活の中で価値があるとかないとか、そういうレベルを超えた何か神々しいもの、それについて議論しましょうという意味を込めて、アリストテレスはこの言葉を使っているのです。
で、この問題とからむのですが、もともとこの霊魂、霊魂論はギリシャ語でプシュケー、ラテン語ではデ・アニマという言葉の翻訳語です。アニマ、あるいはアニムスというラテン語は日本語の翻訳はなかなか難しいけれど魂とか霊とか、そういった言葉を連想させるものです。あるいは日本語でいう言霊に近いようなもので、そういった事柄も表現するものです。
ただギリシャ語でプシュケーというのは、またそれとはちょっと意味が違っていて、まあ風とか息とかのイメージで捉えられることが多い。ちょうど旧約聖書で人間が魂を吹き込まれるときに使う言葉に近い意味で風とか息のようなものを指しています。
だから翻訳するうえで人によって大きな判断の迷いが出てきて、「心」という訳がいいのか、あるいは「魂」という訳か、「霊魂」がいいのかどの訳者も迷うのではないかと思います。「心」というと英語でいえばおそらくソウル(soul)よりもマインド(mind)に近いニュアンスですが、mindをその動きや働きを中心に表現する言葉とすれば、soulのほうが重みのある。なにか目に見えないものとして存在しているのではないかという、そういう想いを起こさせるような重みと深みがある。ですからsoulと訳されたりもします。
それで「霊」というある種神秘的で不可思議な力を持った存在をイメージする言葉をつけておいたほうが、より古代ギリシャ人のプシュケー観に近いのではないかということで、私は訳語として「霊魂」という言葉を選択しました。
そう考えると、霊魂を知ることは非常に重要であるのはもちろん、それ以上に尊崇に値することでもあると理解できるだろうと。それを正確に私たちが知ることの意味と、尊崇すべきという点で、われわれの知性を駆使して行う仕事のなかでは霊魂の探究は最も大事な事柄ではないか、何よりも人間にとって、それは最優先で取り組むべき不可欠の事柄ではないかと最初の数行は述べているのです。
その次に行きますと、「そしてまた霊魂を認識することはすべての真理認識〜」云々とある。これは学術文庫の訳だと「真理全体に対して大きく寄与する」となっています。アリストテレスはアレテイヤーという言葉を使っていますが、このアレテイヤーという言葉は「真理」なのか「真理認識」という認識を含む言葉なのか理解が分かれるところです。
真理全体に大きく寄与するというのはどういうことなのか。霊魂(学術文庫では心)を認識することは真理全体に大きく寄与することになるのは当然のことですから、もう一歩踏み込んで、人間にとって霊魂のことわかっていたほうが真理の探究に貢献するだろうというほうがすっとわかりやすいだろうということで、私は真理といういわば人間にとって客体的な対象の理解に貢献する、そして人間にとって霊魂の理解はその他の真理認識にもつながるという捉え方のほうがよいだろうということで「真理認識」という言葉を使いました。
そして「何よりも貢献するのは自然との関係のように思われる。」と学術文庫版の訳文は続いているけれど、この自然との関係というのも非常に曲者でありまして、日常生活で自然というと、人間と違う客体というモノとか物体とか生命体とか、人間とはちがう外の別の世界を指すことが多い。この文における自然はギリシャ語で「フュシス」という言葉ですね。英語ではnatureと訳されるわものです。これでも悪くはないのですが、日常的に使う日本語の意味で自然という言葉をあてると、なにか不足している感じがあって、「自然の本性」という意味でのnature、ギリシャ語のフュシスも多義的な言葉なのですが、霊魂の探究が貢献するのはこの自然本性を認識することだと私としては捉えておきたい。
フュシスの探究を自然本性の探求という風に、範囲を広く、深い形で見たほうがよい。なぜかというと、自然本性ということになると、人間にもまた自然本性があるわけです。人間にとっての自然探求は、外的な世界に対する探求だけではなく人間の内にある自然本性の探求という事柄にも大きく関わってくる。フュシスはそれだけの意味を持つ言葉だろうと。いわゆる自然的事象の認識にも貢献するし、とりわけ、すべての自然本性を持った存在の探求に大きな貢献をするだろうととる。
なぜなら、霊魂は生きているものの根源であるから、とここに書いてあります。これは学術文庫訳では「いわば生物の、生命体の原理だからである」という言い方になっている。根源も原理も原語ではアルケーというギリシャ語ですが、原理というよりもっと広い概念で、「第一にあるもの」というのがアルケーのもともとのラディカル・センス。だから「根源」としたほうがよいとわたしは考えます。
ここで、原理と訳してしまうと、われわれの日本語のイメージからすると、ルールとか心の働きの法則性みたいなものを探求するとか、そういう話になっていく可能性がある。そうではなく霊魂<プシュケー>というのは生きるものの根源的な力であると、アリストテレスはまずはじめに読者に注目させたかったのではないかと私は解釈しています。ですから原理で間違いとはいえないけれど、もう少し強く、生命における根源的なもの、力と訳していいくらいの意味合いがアルケーには込められているだろうと思います。
***
[ Ng ] 質問があります。この2行目の「厳密さ」ということ。つまり「霊魂を知ることは厳密さという面から際立っている」というわけですね。ここがよくわからなくて、厳密といえば、たとえば「三角形の内角の和は二直角である」とかいうほうが、ずっと魂の研究よりも厳密性において優れていると思う。魂の研究なんて、アリストテレスがいうように喧々諤々さまざまな異論な説が出ているわけで、たとえアリストテレスであっても厳密さに到達できるとは到底考えられない。どうして厳密さという点から尊崇すべきものと言えるのか。
非常に重要な問題提起だと思うけれど、私自身、厳密さという言い方、訳を再検討しなくてはいけないだろうとは考えています。厳密さというと、われわれにとって非常に数学的で自然科学的なきちんと測定できるもののような感覚で受け止められますよね。それはそうなのだけど、おそらくここでいいたいことは、その「確実性」「確実さ」という点で、おそらく彼はギリシャ語の「アクリベース」という語で表現したのではないか。アクリベースは多くの場合は厳密さという訳になるのだけれど、確実性というほうがより近いかもしれません。
ただ確実性といった場合であっても、三角形の研究のほうが確実ではないか。霊魂なんてものは訳が分からないものなのでどうしたらいいのか、という問題がついてまわってくるということですね。しかし、これはわたしの解釈だけれど、三角形の研究のほうがわたしたちにとって本当の真実の知性なのか。真実というのは、まさにじっさいに存在しているもの。単に頭の中で空想された理論的なフィクションの世界ではない。
数学とか幾何学とか、これは人間が頭の中で作りあげた、存在として架空のものです。それに比べて霊魂の研究は架空のものではなくて、本当に存在している事柄についてのものなのだと言いたいのではないか。架空の世界をいくら追求したって、厳密で確実な知識とはいえない、という思いがアリストテレスのなかに加わっているのではないかというのが私の解釈です。
人間の知性はものを見るときに「このものはどういうふうに動いているか」と考えます。古代から現代にいたるまで長足の進歩を遂げて数理的な自然分析が発達しています。しかし、それはあくまでも頭の中の数理的な構想であって、それが本当に存在しているかどうかというのは二の次の話ですよね。ところが、実際われわれが互いに見合うときに「お前は生きているだろう」と、生きているということがわたしたちには確実なものとして認識できる。そういう生きているという確実なものを分析して得られた知識のほうが確実。数学なんてやってみたところでそれはフィクションに過ぎないだろうと。そういう思いがアリストテレスの言葉には込められているんじゃないかというのがわたしの読み方です。
[ Ng ] では、ある意味で現象学と通じるところがある?
そういうところがある。数理的に作り上げられた自然認識ではなく、われわれがじっさいに触って確かめられるものによってわれわれの知性を構築していこうとする姿勢。それが21世紀における現象学のものすごく重要な問題提起だとすると、アリストテレスの問題意識も現象学的な方法認識と非常に近い感覚を持っていた。Nさんも知るように、それが最も確実な知識だと現象学は言っていますからね。そういう感覚かな。
だから厳密(精密)科学とはいったい何かといえば、本当は厳密ではないのだと。われわれの霊魂研究こそ厳密で確実な、リアリティにかかわる知識だと、こういう話。
さて、われわれが追求するのは、霊魂に自然本性<フュシス>とその実有<ウーシアー>を観て<テオリーサイ>認識することであり、次いで霊魂に付属しているものをも観て認識することである。その霊魂に付属するものの内、あるものは、霊魂に固有の感受性であり、他は、この霊魂に依っておりながら、すべての生命体に存在すると思われるものである。
ここで多くの人がひっかかると思いますが、他の人の訳を見て、私の訳といかに違うか比べてみます。
学術文庫版ではこうです。「私たちが求めているのは心の本性すなわち本質を考察し認識すること、つぎに、心に付帯するものを考察し認識することである。付帯するもののうちで、あるものは心に固有の情態であり、また他のものは、心をとおして生物にも属するものと考えられている」
まず、いちばん大きな問題は何か。心の本性という訳。この本性というのは先に触れたフュシスなんですね。だから心のなか、霊魂のなかにあって霊魂を突き動かす原点になるもの。これがフュシスだから、心の本性というより、厳密には自然本性と訳すのがいい。心の本性と訳したとたんに大きな誤りを犯すことになりかねない。なぜかというと、本性と本質は似ているものだから、「心の本性すなわち本質」となってしまった。本性と本質をイコールにしてしまった。ところが、この二つの言葉には大きな違いがある。それがフュシスとそのウーシアーという言葉なんですよね。
ウーシアーを観て認識をする。通常の「見る」を「観る」という、観察の観に変えておりますので、またあとでこの意味について話をしますが、霊魂自体に自然の本性を観て、認識をして、その次に霊魂に付属しているものをも観て、さらに認識する。だから霊魂というものがあって、そこにいろいろとくっついているものをわれわれは観なければいけない。
そして霊魂にくっついているもののなかで、あるものは霊魂に固有の感受性というものがある。もう一つは、霊魂に根源的な動きは依存しているのだけれど、肉体を持ったすべての生命体に存在しているものがある。この二つを厳密に区別して認識しようということです。だからまず文字面のところで、本性とか本質という訳がきちっと使われているか検討しなければいけない。
岩波全集版のほうは、さらに難しい訳になっている。「さてわれわれが目指すのは、魂の自然本性」。この文はフュシスを正確に訳しているけれど、その次がおかしい。「すなわちその本質的あり方」となっている。ここでますます大きな問題が出てくる。ウーシアーを本質的あり方と訳していいかどうかというのは重大な問題であって、多くの研究者が、わたしに言わせるとこれで挫折してきたのです。
私がどう考えたかというと、私の付けた注を読んでみましょう。最初に「生きているものの根源」に注をつけています。
この文章の主語が霊魂なのか、あるいは自然本性なのか判然としないが、霊魂とすれば、アリストテレスの霊魂論が広い意味での自然学・自然本性学の一部である、ということになる。
ですから、フュシスの探求である生きているものの根源を探究すること。これは自然本性学、あるいは自然学ですから、ある面で生物学や動物学ともつながる研究の一部だと言っている。
霊魂を生命の根源におくことで、アリストテレスの霊魂論は生物学の一端を構成するものとなる。しかし後述されるように、人間の霊魂の中核を占める知性は質料を含まないとされる。したがって、霊魂論は、質料を持たない存在を取り扱う形而上学の一端ともかかわりあうことになる。
『霊魂論』の全体構成がどうなっているかというと、第1巻が人間の生命の根源力としてのフュシス、すなわち生命の根源力としての霊魂を考えています。第2巻が動物としての生命体の根源を考える。だから第2巻は感覚論ともなる。第3巻は人間にのみ固有の知性に関する霊魂、たましい論を考える。この三つの段階でアリストテレスは霊魂を考える。特に第1巻、第2巻は生物学、あるいは自然学と同じ領域の問題として考える。まあ、それだけではないけれど。
で、第3巻になると、アリストテレスは第2巻と連携しながら感覚を超えていく知性の働きについて入っていく。そうすると感覚、肉体的働きを超えた人間の霊魂を考えるので、肉体的、物的働きを超えた働きは目に見えない。目に見えない働きを対象として分析しようとするので、これは形を超えたものの探究。超えたものであるけれど、形と内的に深く結びついている意味での形而上学の一端となる。こういう構成でアリストテレスの霊魂論が展開されることになります。
よければ、注2のほうへ行きましょう。
ここでのポイントは、ウーシアーをどう訳すかという問題なんですね。これを「本質」と訳すのはどうなのか。あるいは岩波全集版は「本質的あり方」と訳していますが、これは私は両方とも間違いだと思います。
このギリシャ語ウーシアーについては、日本語はおおむね本質という訳語であるが、英訳はessence, substance, 仏訳はsubstance、独訳はDas Sein, 中世ラテン語訳はsubstanciaである。従って、訳語が今に至るまで定まっていない。
まあ、欧米でも決まっていないのです。
これは、プシュケー(霊魂)が或る種の機能を指す語であるか、また一個の存在(物)であるのかに関わる重要な問題である。また、substance(サブスタンス)を実体と訳した場合、個的な体、すなわち個物という姿が連想されて、存在の働きという点が希釈されるおそれがあると思われる。それゆえ、私はウーシアーに「実有」という訳語を与えることを提案したい(ちなみに、水地宗明氏は「本有」という訳語を使われている)。
水地さんというのは『霊魂論』について非常に重要な注釈を書いた、ほとんど日本で唯一の優れた霊魂学者です。彼自身もウーシアーを本質と訳すのはまずいと判断していたんですね。ですから彼は本有、つまり本当に有るものという訳にしている。私は真実に有るもので実有。まあ同じ意味ですけど、本有というのは、ラテン語のessentia(エッセンティア)の訳に使いたいということもあって、ここでは実有という言葉を使っています。
真実に存在しつつ、存在者として働きながら(魂のこと)、それ自体、質料的な基体(身体のこと)に限定されない存在性=働きを持つ、という含意を保持する訳語としたい。
アリストテレスにおいては、それは「ト・ティ・エーン・エイナイ」であり、これは重要な彼の造語です。訳せば「いったい全体、それはなんであるか」という意味なんだけれど、より正確な逐語訳的にいうと、トというのは不定詞、接頭語ですが、ティとはwhat、エーンはwas、エイナイはbe, being。つまり「かつてありつづけたもの」、単純過去ですね。「かつてありつづけたそのものは、いったい何であるか」ということです。
言葉そのものを正確に訳すとこうなるのですね。それは「もの(ラテン語ではres)が時間とともに転変・変容しつつも、一貫して持続的な同一的働きを続け得る根源はなにか」となります。その問いへの答えがウーシアーなのです。
たとえば例を取ると、人間には固有の身体がありますよね。しかし、その身体も現在の生物学の知見によれば、3か月くらいでほとんどすべての細胞が新しい細胞と入れ代わる。骨から皮膚にいたるまで、細胞分裂によって古いものが新しいものに入れ代わる。にもかかわらず、私たち人間の人格は不変のものとして認識されます。つまり、ものとしてはどんどん変わっていくのだけれど、その肉体の変化にもかかわらず、人間が人間として同じ人格を持って働き続けることの不思議、その根源にあるものは何か。
これは人間という生命体だけではなく、たとえば人間が作った家を考えてください。家も建てたとたんにすぐに古くなっていく。つまり家の質量的部分、瓦とか柱とかの建材や土台はものである以上、一瞬たりとも同じものの状態に留まっていないで変化・退化していく。退化し続けていけば家はいつか崩れてしまうのだけれど、崩れる直前まで家を家として認識するのはなぜかというと、家という一つの形があって、その形を以て「家が存在している」という。
そうすると、その家のウーシアーにあたるものが家の形、これを哲学的には形相というのだけれど、それを生命体に置き換えていうと霊魂、魂になります。つまり、「それ」が存続する限り、物体的なものはどんどん変わっていっても、その人間や家は変わらずに存在していることになる。その存在することの根源にあるものをわれわれはウーシアーと呼ぼう、と。
本質という訳語は、それ自体、存在とは切れた意味を持つのであり……。
つまり、本質という漢字を見ると、「本」当の「質」という表現になっているので、量であり質であるというのではない。だから本質という訳語では、質量の量が示す存在性という面が切り離されてしまう。
ラテン語のesse(エッセ)。これは英語のbe、「ある」という意味。あることの働きといってもいい。あるいは、あるという働き、存在する働きという。だから、《esseに由来するessentiaという語感を喪失していることを注視しなければならない》のです。そのessentiaを本質とするからこのような訳になってしまうのですね。
カテゴリー的に言えば、存在のカテゴリーに付帯する(ものが存在している以上、その存在しているものにベタッとくっついている)質、量のカテゴリーが生じるわけで、カテゴリーを想起させる本質という訳語は捨てなければならないであろう。また実体という訳をウーシアーに充てている。これも避けるべきであろう。なぜなら体には個的にまとまった塊という語感があり、東洋哲学上は、朱子の体用論の語感を引きずっている。
ここは固まったものがあって、それを用いる力が生じてくるという朱子の体用論とも異なる。
アリストテレスの存在論が、個体的存在論に読み替えられていくのも、実体(サブスタンス)が個体的存在を想起させるからであろう。
これはアリストテレス哲学全体に対して、わが国ではまだ、アリストテレスとプラトンの根本的違いは何かという点で、アリストテレスの存在論は個物が存在するとに着目していて、存在とはすべて個体的ものなのだといっているという理解に多くのアリストテレス学者は立っていることを示しています。それはおかしいというのが私の考えです。
ラテン語のsubstantiaは、ギリシャ語ではhipokeimenon(ヒポケイメノン)に相当する語感を与えるからであろう。あるいは、substantia(サブスタンティア)は実有、subsistentia(サブシスタンティア)は基体、essentia(エッセンティア)は本有と訳すべきであろうか。
以上、今回の霊魂論理解には直接関係がないのだけれど、アリストテレスの形而上学を訳すときに注意しなければならないものとして注釈しました。
ということで元に戻ると、ウーシアーとは何かといえば、それは「存在の働き」というイメージでとらえてもらいたい。働いている存在と言ってもいい。その存在が実は魂なんだと。
だから魂だけでは目に見えないけれども、それはちゃんと存在している。存在しているけれども、何か物体的なものとして存在しているわけではない。こういう事柄にかかわる用語を、私たちはまだ持っていない。だから、どうしても「実有」という造語を作り出すことが必要になってくる。ウーシアーを「本質的あり方」などといったら、とんでもない誤解が生じてくるでしょう。つまり、わたしたちは魂の存在性を観ること、観て、それ本来の人間の言葉によって表現すること。これが霊魂論を「読む」ことの意味、読むにあたっての課題であるということなのです。
《2021年4月24日、つづく》