ニコマコス倫理学 第1巻第13章 <現代語意訳 荒木 勝 + 石井 泉>


夜のミュージアム

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【政治を志す人は霊魂(たましい)について一定の見識を持つべきである。霊魂には知性的部分と欲求的部分がある。夢もまた霊魂の一種の活動である】

 幸福とはアレテー(徳、卓越的力量)に即した霊魂(たましい)のある種の活動(エネルゲイア)であるから、わたしたちはここで、人のアレテーそのものについて考察を加えるべきでしょう。そうすることで、おそらく幸福についても、もっとつっこんで考えることができるでしょう。真の市民的政治的指導者も、この問題に対してとりわけ心を労してきたように思われます。というのも、彼らは、市民たちが善き人間として、法に耳を傾ける人々となることを切望しているからで、わたしたちおよびクレタやスパルタの立法者をその模範としているし、さらにまた、その他にもそのような人々がいれば同様に処遇してきたわけです。もしこのような考察が政治学に属すならば、明らかにそのことは、わたしたちの探求の当初の意図に沿うものといえましょう。

 さて、わたしたちの探究すべきは、人間のアレテーについてでした。じつのところ、わたしたちが極めようとしていたのは人間の善であり、人間の幸福です。そして、わたしたちが問題にしている人間のアレテー(卓越的力量)とは、肉体的な力量ではなく霊魂的な力量のことです。幸福についてもまた、霊魂(たましい)の活動として論じています。そうだとすれば、目を治療する人が、目だけではなく身体全体についても知っておくべきであるように、市民的政治的指導者が人の魂について、それがどのようなものであるかを何らかの仕方で知っていなければならないのは言うまでもありません。政治学が医学よりも尊崇されるべきより優れたものであるだけに、なおさらです。医者のなかで賢明な人たちは、身体に関する知識について多大な労力をはらっているとしてもなのです。

<Ar. アリストテレスにおいては、政治学が尊崇されるべき(ティミオーテラー)学問とされていることは重要である。彼において尊崇(ティミオン)とは、神的なものに対して尊び敬うことを意味しているからである。人間の幸福にとって、身体の保全・健康よりも霊魂のそれのほうが重要であることを鑑みれば、この言明は当然であろう。その際に重要なことは、アリストテレスにおける政治学は、市民を立派な人間、すなわち充実した自由な市民生活をおくることができる人間にすることがその内容の骨子となっている点である。市民的自由を涵養するリベラル・アーツのなかに、政治学・倫理学を含む修辞学、人間の感性を市民的感性へと涵養する音楽が含まれていることもこの点に関連している。わが国の教育システムにおける圧倒的な理系、医学系重視の問題性もこの視点から再考すべきであろう>

 したがって、市民を導く政治的指導者においても、霊魂(たましい)の働きについて研究する必要があるのですが、それは上に述べた目的のためなのであって、しかも探求されねばならない事柄に対して十分かつ適度な程度を保つことが重要なのです。程度を超えて厳密性を追い求めると、おそらくいま求められている課題を逸脱し、面倒でやっかいな事態を引き起こしかねません。

 霊魂については公刊された論述のなかでいくつかの点は十分に言及されているので、それを用いるのもよいでしょう。しかしながら、たとえば、霊魂がそのある部分はロゴス(言、理性、道理)を持ち、ある部分はロゴスを持たないことは、肉体の部分とかその他すべての分割可能なもののように区別されるものなのか、それとも円周における「ふくらんだ曲線」と「くぼんだ曲線」のように、定義は2つあっても本性上分離できるものではないといった点は、当面の課題にはまったく関係のないことです。

 そこで先を述べると、霊魂のうちロゴスのない部分は、生物全般に共通する能力を担っていると思われます。わたしが言っているのは、栄養摂取と生長の原因となる部分のことです。なぜなら、あらゆる栄養摂取を行う生物に対してこのような能力が想定されるからであり、この能力はさまざまな胚にも、また完全に生長しきった生体にも認められるものだからです。実際、このように考えるのが、そこに何かそれぞれ別の能力を想定するよりも、より筋の通った考え方と言えるでしょう。しかしまた、このような能力は、すべての生物の何か共通するアレテー(卓越的力量)であって、人間に特有のアレテーではないようにわたしには思われます。

 通常でも、睡眠中にとりわけよく活動しているのはこの生物的な部分と能力であり、善人も悪人も眠っているときにはどちらがどちらとも判別しがたいと言われます(そのことゆえに、人生の半分は幸福な人と惨めな人で相違はないとも言われるのは当然の成り行きでもあります。眠りとは人生の「善し悪し」が語られる場における、霊魂の無活動のときであるからです)。ただし、睡眠中もいくつかの動き(働き)が霊魂に届いていて一種感じやすい人の心的形象(ファンタスマ、夢)が普通の人のそれよりも活発なものになるということを除けばです。

<Ar. アリストテレスの夢に関する見解は二重になっている。一つは、意識内に形成された心的形象(ファンタスマ)の一部が霊魂の内奥に蓄積され、眠りの最中に意識上に表出するというものであり、フロイト以降の現代の精神科学によって展開された深層心理学の視点を先取りするものである。もう一つは、人間の知性そのものの神的性格にかかわるもので、昼間の多忙な意識活動のなかに紛れていた神的知性が、日常の夾雑的意識が静まった眠りのなかで再生するという理解である。

 いずれにしても、夢に現れる心的形象はファンタスマ、その働きはファンタシアという語であり、ファンタジー、ファントムの語源となっている。英語でいえば、イマジネーション(想像力)に当たる。つまり人間の想像性/創造性にかかわる重要な論点がここに横たわっており、また予感知(マンテイアー)の働きとも関連していることに注目すべきであろう。

 アリストテレスのもう一つの倫理学書である『エウデモス倫理学』には次のように記されている。「霊魂における運動の根源はなんであるのか。答えは明白である。宇宙全体がそうであるように、神がすべてのものを動かす。実際に、何らかの仕方ですべてのものを動かすのは、わたしたちのなかの神的なものである。すなわちロゴス(言)の根源はロゴスではなく、それよりもっと優れたものである。してみれば、エピステーメー(知識)よりもヌース(知性、直知)よりも優れたものは神以外の何であろうか。事実、人のアレテー(卓越的力量)はヌース(知性)の道具である。それゆえ、わたしが先ほど触れたように、ロゴス(言)がなくとも、衝動によって成功する人は幸運な人(Is. 幸福な人ではない)と呼ばれている。かれらにとって思量することは有益ではない。なぜなら、かれらは知性や思量よりも優れた根源的能力を持っているからである。……かれらは霊感(エンスージアスモス)を持っているが、思量することはできない。つまり、かれらはロゴス(言)を備えてはいないが、しかし、知恵ある者たちや知者たちが持つ能力である予見を素早く行い達成することができる。それゆえロゴス(言)による予見だけを取り上げるのではなく、ある人々は経験によって、またある人々は観察力を駆使することの習熟によって予見を成し遂げる。かれらは神的な力を用いてそれを達成するのである。実際にその能力は現在も未来もよく見通すし、かれらにおいてはロゴス(言)が解き放たれているともいえる。それゆえに憂鬱症の人(メランコリコスの人、躁鬱病——黒胆汁質の人)は正夢を見るのである。なぜなら、ロゴスが(言、理性)が知的な制御から解き放たれると、神的な人間の根源的能力は一層強く働くことになるからである(Is. この箇所を読むと、どうしても私はフロイトの抑圧・昇華理論以上に、20世紀初頭シュルレアリスムにおけるオートマティスムの思考実験を想起してしまう)。

 『エウデモス倫理学』がアリストテレスの著作群のなかでも初期に書かれたとする見解にも諸説あるが、ここでは、その後期に位置するとされる『ニコマコス倫理学』にも夢に関する重要な指摘がなされていることに注意しておかねばならない。なお『自然学小論集』所収の「夢について」「夢占いについて」を参照のこと(Is. アリストテレスは夢について理論的・学問的に論じた初めての人であるともいわれる)。

 さらに、トマス・アクィナスの『神学大全』の以下の夢に関する箇所も参照。「我々の魂は、身体的なものから離れるに従って、離在的な超感性的なるものintelligibilia abstractaを受け入れる可能性をそれだけ増大させる。夢において、また身体の諸感覚から離脱状態alienationesにおいて神的啓示や未来の予見がより多く得られる所為もここに損している」>

 

 しかし、この事柄に関してはもう十分でしょう。生育的な事項は置いておきましょう。これはその性質上、人としてのアレテー(卓越的力量)に関係したことではないからです。

 さて、霊魂(たましい)にはもう一つ別の本性があり、それ自体でロゴスではないが、ロゴスに関与することで存在するものがあるように思われます。なぜなら、わたしたちは抑制力のある人と同時に抑制する必要のない人をほめたりしますが、それは霊魂のなかでロゴスをもつ部分を称賛するからであり、事実、その部分が人を正しく、最善のものへ向けて促すからです。

 他方で、これらの人のなかには明らかにロゴスに反する別の本性がある場合があって、それがロゴスと戦い、ロゴスに抗うことがあります。たとえば、身体の麻痺した部分を右へ動かそうとするのに、反対に左の方に動いてしまうようなことがありますが、霊魂にも同様なことが起こるのです。つまり、節制のない人にはロゴスとは反対の方へ向かう衝動が潜んでいて、身体的なものであればその動きがわかるものですが、霊魂においてはそれを感じ取ることができません。

 しかし、霊魂のなかにはおそらくロゴスに反して抵抗する、ロゴスとは別の何かがあると見做すべきなのだと思います。それが霊魂のなかの他の部分とどう違うのかといったことは、いまは問題ではありません。そのこととは別に、霊魂のこの部分は、さっき言ったように、ロゴス自体ではないが、ロゴスに関与しているものと思われる。少なくとも節制的な人のこの部分は、ロゴスに従順なのです。そしておそらく、抑制力のある人や勇気ある人のこの部分は、善い意味でなお一層従順といえましょう。というのも、彼らにおいては、すべての事柄がロゴスに唱和するからです。

 こうして、霊魂の非ロゴス的部分も二重になっているように思われます。一方の生育的部分はいかなる点においてもロゴスに与らないが、他方の感情的ないし一般的にいって欲求的部分は、ロゴスに耳を傾け、ロゴスに従う限りはなんらかの仕方でロゴスに関与しているわけです。父親や友人はロゴスをもっているというような場合がそれであり、数学者がかれらのロゴスをもっているという場合とは異なります。また、非ロゴス的な面がロゴスによって説得されることがあるのは、忠告やさまざまな非難、勧告が示しているところでもあります。

 そこで、この部分もロゴスをもっているというべきであれば、ロゴスをもつ部分もまた二重になっているでしょう。すなわち、一方では統治者の仕方でそれ自身のなかにロゴスをもっている部分と、他方で、父親の言に耳を傾けるような仕方でロゴスに従う部分との二つであります。

 人としてのアレテー(徳、卓越的力量)もまた、これと同じ相違から二つに区分されます。実際にわたしたちはアレテーのうちの一方を知性的アレテー(力量)、他方のものを倫理的アレテー(力量)と呼んでおり、知恵(ソフィア)、判別力(シュネシス)、知慮(フロネーシス)は前者、温厚(エレウテリオテース)、節制(ソーフロシュネー)が後者であると見なしています。じつのところ、わたしたちがエートス(持続的倫理性)について語るのは、知恵ある者、判別力のある者ではなく、温厚な者、節制ある者においてなのであります。しかしその倫理的アレテーとは別に、わたしたちは、知恵ある者もヘクシス(心の傾き、構え)において称賛します。つまり、そのヘクシスのなかで称賛されるべきものをアレテーの一つ、知性的アレテーと呼ぶのです。