Eri Matsuiさんへのお返事


 Facebook(以下FB)である人(Yuzo Ogawaさん)がアンドレ・ブルトンの『ナジャ』を取りあげていた。そして、ウエディング・ドレスのデザイナーであり、同時に科学や数学理論を取り入れたたいへんに斬新で実験的で美しい衣服のデザインも手がけているEri Matsuiさんが、それにコメントして「私がもっとも影響を受けた本です」と書いていた。ただし十代の昔に読んだ本なので、ちゃんと読み込めているかどうか、、、読み返してみたいと述べていらしたので、読み返すなら岩波文庫版(巖谷國士訳)でぜひ、と私もコメントした。
 以下の文は、そんなやり取りに対する私のひとつの「見解(返事)」なのだが、FB用に書き始めたらけっこう長くなってしまった。さすがにこれをFBのコメント欄にアップするのは憚られるかと思い、このブログに掲載することにした。そんな経緯があったうえで、次のEri Matsuiさんのコメントにつづくものとしてこの小文が書かれたものであることをおことわりしておく。
Eri Matsui 「ぜひ、読んでみます。巖谷先生には、いつも憧れていました。ブルトンもくねくねと蛇行する文章なのですね。発見です。視覚的な人間は、言葉を使うとくねくねしてしまいます。映像は出てるのですが。。。ナジャになれない私がたどった道に思考と知覚とを結びつけようとする科学と数学がありました。私の薄い認識で、恐縮ですが、アリストテレスに源を持つ。。」
 Eriさま。するどくも的を射たコメントをありがとうございます。で、終わりにしようと思っていたのですが、さっきyuzoさんから、石井さんお願い!と頼まれてしまったので(バトンをわたされた、っていうか逃げられた ^^; ので ww)、僭越でエラソーなのですが、自分の問題意識でもあるし、少し贅言を弄します。FBのルールをわきまえず、長くなると思うので、時間のあるときにでもお読みください(他の関心ない方はスルーしてください)。
 少し単純化していいます。われわれのアリストテレス理解によれば、知性には大きく分けて2種類あり、ロゴス(理性的知性。数学や科学など、論理的に精密に部分を把握する知性。ロゴスといっても正確には小ロゴス)とヌース(感性的知性。おぼろげだけど直感的に全体を把握する知性)がそうです。
 エリさん(いつも「さん」づけで失礼しています)はときどき「叡知」に対する信を表明していらっしゃいますが、その場合の叡知はヌースも含めた本来あるべき智恵のあり方です。誰もが心の底ではわかっているはずだし、わかるはずだという直観と論理への信頼(その信頼自体がヌースです)。
 エリさんは数学や科学、すなわちロゴスを追求されていて素晴らしい「成果(表現)」を出して(アウトプットして)いらっしゃいます。しかし、肝心なのは、ロゴスとヌースは本来、動的に補い合うものであり、切り離せない(切り離してはいけない)ものだということ。両者は二重螺旋のように絡み合いながらある点(至高点、大ロゴス)をめざすものです。
 エリさんは、じつは、芸術家がそうであるように、ヌース(直観力)がたいへんすぐれていらっしゃるのです。しかし、他の多くの芸術家のように(アーティストを自称する芸術家の多くがそうであるように)ヌースだけに自足してしまわず、きちんとロゴスを追求されようとしている。逆に、ロゴスからヌースへの接近を試みようともされている。それがすばらしいと思うのです。おそらく、強く自覚せずとも、そんな指向/志向性をもっていらっしゃる。
 ヌース(「野生の眼」(ブルトン)による、視覚的な直観的全体的把握)があって、それをロゴスとして手探りしながら追い求めようとすると(それが考えるということですが)、思考の乗り物である(思考そのものでもある)言葉は、既存の紋切り型の論理には簡単には納まらないため、未知の「解」をもとめて、あっちこっち寄り道しながら蛇行してしまう(蛇行せざるをえない)。
 じっさいにパリという都市(トポス)でも、ふたりはあっち行ったりこっちに来たりして街路をさまよい歩くわけです。そして、思わぬところで偶然遭遇したり、すれちがったり・・・。これはyuzoさんもいうようにじつに多様な読み方ができる不思議な書物ですが、私にはナジャ(ヌース)に惹かれるブルトン(ロゴス)、ロゴス(ブルトン)に惹かれるヌース(ナジャ)の出会いと別れの物語としてもこの本『ナジャ』は読めると思うのです。
 アリストテレスとブルトンの接点を探るなんて、一見両者は無縁であり、無謀な試みであるにもかかわらず、あえていえば、私などはふたりともこのロゴスとヌースの統合を目指し実践しようとしていた(ともに失敗、挫折もありますが)ということでは共通性があったのではないかと直観してしまうのです。そして、この傾向は特権的な立場に身をおく、いわゆるアカデミックな「知識人」特有のものではなく、われわれのような一般市民(イジドール・デュカスすなわちロートレアモンのいう「万人」)にも、っていうか、だからこそそなわっているものなのです。それが「世界を変える(マルクス)」と「生を変える(ランボー)」とはひとつのこと(ブルトン)という、プラトンというよりはアリストテレス的な「理想」(抽象的なイデアよりは具体性のある地続きの「形相」)につながっていくんですね、、、おそらく。。。
 とりあえず(Time to be)、これにて。

One thought on “Eri Matsuiさんへのお返事

  • 2014年5月15日 at 9:37 PM
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    ちょっとした符合があった。
    マンションの友人に貸していた「ナジャ」が一昨夜返ってきた。
    現代思潮社版、栗田勇・峰尾雅彦訳である。
    雄造さんのFBを見て、あれっと思ったところに石井さん、松居さんの登場である。
    おいおい、「ナジャ」からヌースとロゴスの話になるのか、と思いながらとりあえず再読することにした。
    調律の悪いピアノと格好だけのシャビーな三面鏡、白川からの引越し荷物などが雑多に置かれた寝室のベッドに寝転んで読み始めた。
    出窓にはいつものようにムササビ君が来て、尾を振りながら金属のサッシを齧っている。
    齧歯目だから歯を研いでいるんだろう。
    カタカタ齧る音を聞きながら「ナジャ」を読んでいること自体シュールじゃないか。
    さて一気に読んでみたが、石井さんの言うような「ヌースとロゴス」というつかみはできなかった。
    都市の中に在る現実を「ぼく」というメディアに入れたり出したりして、「ぼくって誰?」を問い続けて、結局「ぼくは在る」ことはできても「ぼくに成る」ことはできないという物語だろうか。
    「そこにいるのは誰だ? ナジャ、きみなのかい? あの世が、あの世のすべてが、この世にあるというのは本当かい? きみの言うことがぼくには聞こえない。そこにいるのは誰だ? ぼくだけしかいないのか? ぼく自身なのか? お前は?」
    語られるナジャとの、都市とのやりとりの中から、言葉にならない印象が強く浮き上がってくる。(若い頃の印象はもっと強烈だったが)
    この印象がブルトンらしいところで、作品として評価されるところなんだろう。
    だが、言葉(ロゴス)に置き換えにくいものをヌースと規定するのはいかがなものだろうか。
    シュールとは、「ぼく自身」であり、「ぼく無しには在りえないもの」というのが、「ぼく」のロゴス的理解でした。
    シングルモルトでかなり酩酊しながらの乱文で失礼しました。

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