「春よ来い! コンサート」開かる


100409.jpg3月22日(月)、春分の日の振替休日に「春よ来い!コンサート」という無料の小演奏会を地元の公民館(埼玉・草加市)で開いた。自宅の近所に住む、ある友人夫妻が音頭をとる年に1回、全員素人の演奏会だが、今年で3回目にあたり、ぼくは前回からの参加である。
いくつかのグループがメンバー・チェンジを行いながらステージに立つ。
今回、ぼくはアコースティック・ギターとドラムで2つのグループに1曲づつ参加。
手作りの楽しいコンサートである。
最年少の卒業間近の中学生を含め、10代から50代後半までの音楽好きな人たちが家族(私も妻と高2の娘とともに参加)や友人たちと一緒になって、演奏はいうまでもないが、機材の運搬や会場の設営、飾り付け、各種セッティングや照明まで自分たちの手ですべて行う。
一体となって「みんな」でひとつのことを行うというこの作業が、何にもまして楽しさと充足感をもたらしてくれる。


このハレの日にいたるまでには、それぞれ、さまざまな苦労や努力があったことはいうまでもない。
学校や仕事などでなかなか時間がとれず、自宅での練習や音楽スタジオでのリハーサルなども、忙しさの合間をぬいつつやるのがやっとで、「本番」の日がくるまでは楽しみよりもおそろしさのほうが先に立っていたと言ったほうがいいくらいだ。
しかし、22日という日は、いつも念頭を離れることはなく、歩きながら、あるいは電車に乗っているときなど、予定の演奏曲が頭のなかで鳴っていた。歩いているときや電車のなかならまだしも、クルマを運転しているときは、けっこう危ない。私はドラムを叩くことになっていたけど、アコギとは違い、ドラムセットがない家では練習ができない。だから普段は「イメージトレーニング」をするわけだが、それが習慣みたいになると、ほとんど無意識にクルマを運転しているときにもやってしまう。ハンドルをにぎっている両手はまだしも、ヤバイのは足である。ついアクセルに置いた右足がバスドラのペダルを踏むようにリズムをとりながら踏み込みそうになったり。アッ、いかん、と我にかえり、すぐにやめましたけど。
それにしても、音楽って何だろう。人間にとって音楽はどんなはたらきをするのだろう?  不思議なものだよな〜って、いつも思う。
ぼくの耳の奥では、たいていのとき音楽が鳴っているような気がする。
中学生のときに組んだバンドでドラムを担当して以来、耳にする音楽に合わせ指先でリズムをとるクセはいまだに抜けない。
メロディもそう。歩いているとき、自転車や電車に乗っているとき、ぼんやり考え事をしているとき、知らずになにか音曲を口ずさんでいる自分に気づいたり……。なにか、移動しているときの風景の流れとか身体(や頭)の運動とかと関わりがあるような気もするけど。
音楽に「のっている」とき、自分なんてものを忘れている。
それはさておき、コンサートの当日は、メンバー(演奏以外の協力者を含め総勢で20数人から30人といったところか)それぞれが、それぞれの緊張感と高揚感を抱きながら会場に集まり、ああでもないこうでもないと笑ったり、大声をだしたり、あるいは黙々と分担された各自の役割をはたし、開場の7分前までに、どうにかこうにか準備を終らせる。こういう現場には想定外のことがつきもので、予定どおりに終るというよりはともかく「終らせる」しかないわけだが。
お客さんたちが、続々と会場にはいってくる。小演奏会といっても、来場者は300人前後か。この歳になっても、胸がドキドキしてくる。
ここまできたら、もう、思い切ってやるっきゃない!
面白いもので、緊張感が高まってくるにつれて、「最初の記憶」が甦ってくる。
ぼくが最初に「ステージ・デヴュー」したのは中2か中3のとき(「青春デンデケデケデケ」だ!)、当時の地元(東京・大田区)のお祭りでだった。
神社の境内に設営された舞台で、1曲目はベンチャーズのインスト曲だったと思うが、ぼくはやはりドラムをやった。
極度にあがっていたぼくは、最初の1音、バスドラのペダルをドン!と踏み込んだ瞬間に足がつってしまい、ふくらはぎがひきつった状態で脂汗を流しながら、ほとんど泣きそうになって演奏をしたのであった。演奏なんてとてもいえない、ヒドイものだった。なんとか、2曲目からは持ち直しはしたのだが……。
もう、40年以上も昔の話である。
ギターだって弾くのは久方ぶりだし、ドラムでステージに立つのはそれ以来なわけだから、「おそろしさのほうが先に立っていた」のはわかってもらえると思う。他の誰かと代わってもらいたい、逃げ出したいってくらい。
でも、である。
多少のミスはあったものの、足もつらずにすみ(笑)、まあ、ともかく演奏を終え場内から拍手がおこったときの気分は、やはり、なんともいえず快いよいものだ。
ちなみに、ぼくが演ったのは、ビゼーの曲に日本語の歌詞をつけた「小さな木の実」(アコギ)と、スピッツの曲から1曲(ドラム)。
アコギでの出演のあとだったから、これでひとまずぼくの出番は終わり、ほっとした気持ちも手伝った開放感!
しかし、よりいっそうの格別で晴れやかな気分に包まれたのは、コンサートの最後の演奏が終わり、アンコールに応えた演奏がつづくなか、出演者の全員で再び舞台にあがって合唱し、司会者からの再度の紹介と終演の挨拶がすんだときだ。
最初に言ったけど、自分や他の人の演奏の優劣などを超えて、みんなで懸命にひとつのことをなし終えたことの達成感と、その喜びが結ばれ輪としてつながった感じとでも言えばよいか!
目の前で幕が閉まり、幕のうしろ側で、そして舞台の影で、出演者や協力者が笑顔でそれぞれを讃え合い(感動のあまり泣き顔の若いコもいたけど)、「お疲れ! ありがとう」とねぎらい合ったときの「みなでひとつになれた」というシアワセな気持ち! 
演奏の「上手い下手」とか、つまらぬ「打算」や「競合」を超えたところでもたらされるこの一体感も、音楽が媒介する、ひとつの換えがたい「自然」からの贈与に近いものなのかもしれない。
これは、ある意味で「意味」を超えている。
だから、これ以上の言葉での「説明」など無用なのはわかっているのだが、一言だけ付け加えておきたい。
出演メンバーの一人が別れ際に「本番直前まで、自分は下手だし緊張しまくりで、演奏するのはイヤでしょうがなかったのに、終ってみるとまたやりたいって気持ちになるのが不思議だよなぁ〜」と話しかけてきた。同感である。