哲学と想像力、そしてヌース

前回のノート(ブログ)で、「想像力」に加えてカフェ・ヌースの「ヌース」について触れておきたいと思っていました。ギリシア語で「知性」の形態・機能の一種を意味しているようですが、どうも馴染みのある日本語としてピッタリの訳語がないようです。あえていえば、「直知」とか「洞見知」とかが意味的には近いのかな(意味とは何かという議論は、ここでは置いておきましょう)。


私は「アリストテレスと現代文化研究会」の勉強会において、アラキトテレス先生の『政治学』講議を聴講しているときに知った単語で、それこそ直感的にピンときたところがあり、それ以上深く調べることもなく、音の響きもおもしろいし、nousはフランス語読みすると「ヌ」で、一人称複数(われわれ、私たち)の代名詞になるのも気にいって、HP名をカフェ・ヌース、オフィス名をエディション・ヌースとした次第。
その後、その「意味」を”あとから”考えるようになって、そうなると、ところどころで「ヌース」という言葉に出会う(まだ稀だけど)ことが起こるようになりました。なにやら思っていた以上の深遠な意味合いがあるようで、ちょっと畏れ多かったかなという恥じらいと、直感ははずれていなかったという自信と、ともに感じています。
端的に、先に書いた想像力=感性と悟性(知性)をつなぐもの、ということでいうと、ヌースはさらに、その想像力や共通感覚を発動する生命現象の根っこにある意識(無意識)のはたらきとして解釈しても、間違いではないようなもの・ことでもあるようなんですね(さっきから「よう(な)」を連発したビミョーな言い方をしてますが)。
いま木村敏の『あいだ』(ちくま学芸文庫)という、ちょっと難解だけど、直感的によくわかる、すばらしい本を通勤電車のなかで読んでいて、いささか興奮ぎみです。この本は下手に要約して紹介するよりも、ぜひじっさいに手にとって読んでいただきたい、精神医学と哲学をまたぐ「名著」だと思います。
じつは、偶然なのですが、この本にヌースという言葉が、そのキー概念であるノエシス、ノエマの語源として出てくるのです。
これだけでは、なんのことやらさっぱり分からないことを承知のうえで、ここでは、本文ではなく、(あえて)註のひとつを引用します。
勝手ながら、私個人の「覚え(メモ)」です。興味のあるかたは、ぜひ本論を。

(1) 後に述べるように、「ノエシス」という語の語源は、心・精神・理性などを意味するギリシア語の「ヌース」である。だから現在でも、特にフッサール現象学においては、意識が対象を志向して対象を「ノエマ」として構成する作用が「ノエシス」と呼ばれている。われわれのように行為の側面を「ノエシス」と呼ぶのは、ひどく慣例から外れているということになるだろう。それを承知の上で敢えてこのような普通ではない用語法をするのは、われわれが先に述べたヴァイツゼッカーのゲシュタルトクライス理論や後に触れる西田幾多郎の「行為的直感」の考え方に従って、運動と知覚、行為と認識を一つのものと見る立場に立っているからである。意識の作用面というのは、生命活動の行為面のことにほかならないのであって、それが身体的運動を伴うかどうかは二次的・派生的な問題にすぎない。

フーッ、まだ読み終わってもいないのに…。
それにしても、この『あいだ』の、音楽を題材にした論述を読んでいると、音楽を行為として好きな人にはピンとくるだろうし、私はさらに、シュルレアリスムのオートマティスム理論・実践にとても近いものさえ感じます。
難解でも、ある種のわかり方がある。それも、ヌースのはたらきなのかも!?
…この原稿をアップしようとしているいま、なぜか、引っ越したばかりの富士見の事務所の外にパンパンという音が連続して聴こえるので、窓の外を見たら、打ち上げ花火が、低い夜空に開いています。いったい、これは!?


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