ニコマコス倫理学 1-8 <訳・注 = 荒木 勝 + 石井 泉>


2017年 秋 蒜山から大山へ

 第1巻8章

【幸福はアレテーの活動による霊魂(たましい)の悦びである】

 私たちは前章のような議論の結論や前提からだけでなく、善について一般の人々が語っている事柄からも考察すべきであろう。というのも、真実は事実に共鳴するし、虚偽であれば不協和音を奏でるからである。

 さて、善は三様に分類されていて、その一つは外的な善、他は霊魂(たましい)、そして肉体に関する善とされているが、私たちはとりわけ霊魂にかかわる善を至高の善と呼んでおり、霊魂にかかわる善とは霊魂における実践的活動(エネルゲイア)であるとみなしている。こうした見解は昔からあり、哲学者<フィロソフィア=愛知者、知を愛する者>たちの同意を得ている見解に照らしてみても妥当なものと言ってよい。また、それはさまざまな実践行為や活動が目的であると語っていることからも正しいであろう。その目的とは霊魂にかかわる善であり、外的な善に属してはいないものだからである。

 また、幸福な人は「善く生きる」人であり「善き行いをする」人であるという見解も私たちの議論に合致する。実際、これまでも幸福とは善き生、善き行いであるといわれてきたのである。

 幸福に関して求められるところは、このようにことごとくすでに言及された事柄に含まれていることも明らかだろう。すなわち、ある人々にとって幸福はアレテー(卓越的力量)であり、またある人々にとっては知慮であり、ある種の知恵であると考えられているし、また他のある人々にとっては、これらのものや、これらのものの一つに快楽の加わったもの、もしくは快楽が欠けてはいないものを幸福と考えており、さらに言えば、他の人々のなかにはこれに外的な好機を付け加える者もいる。

 これらの見解のあるものは昔から多くの人が唱えてきたことであり、また少数ではあるが、ある見解は著名な人々が提唱してきたものである。だから、これらの見解のどちらも、その全体において誤っているということは考えられず、少なくともそのうちの一つ、もしくはその大部分は正しい見方だと思われる。

 私たちの見解は、アレテー(卓越的力量、徳)全般、あるいはある特定のアレテーが幸福を出来させるという人々の考えに合致している。というのは、活動(エネルゲイア)というものはそもそもアレテーに基づいているからである。しかし、そうはいっても、最高の善はそのアレテーの所有(クテーシス)にあるのか、その使用(クレーシス)にあるのか、それともそうしようとする心の傾き(傾向、構え。ヘクシス)にあるとするのか、あるいはその活動(エネルゲイア)自体が善であると解するのか、その違いはおそらく小さくはない。実際にアレテーという心的傾き(ヘクシス)があったとしても、それだけではいかなる善も成就しないことがある。たとえば、眠っている人や、なんらかの理由でまったく不活発な人の場合のように。
 しかし、アレテーの活動においてそんなことはありえない。この活動は必然的になにかの実践であり、しかも立派な実践といえるだろう。それはちょうど、オリンピック競技において、いくら美しく強い人でもそれだけで勝利の冠を得ることはできず、じっさいに競技に参加した者のみが栄冠を手にすることができるようなものである(勝利を獲得できるのは彼らのなかのある者だけなのだから)。したがって、人生において、美と善を獲得できるのは、何かをしっかりと実践する人々に限られるのである。

 そして彼らの人生は、そのことゆえにそれ自体で快いものである。なぜなら、快を感じることは、霊魂の働きに属する事柄であるから。その快いものとは人によって異なるが、各人にとって「何々が好き」といえるその当のものであるといってよい。たとえば馬は馬が好きな人にとって、見世物は見世物好きな人にとって快いものだ。同様に、正義にかなった行為は正義を愛する人にとって、また一般に、アレテーに即した行為は、そのアレテーを好む人にとってなによりも快いものなのである。

 ところで多くの人々にとって、種々の快いはずのものが食い違い衝突し合う場合があるが、それは、これらのものが自然本性的に快いものではないからである。また美麗さを愛する人々においては、自然本性的に快いものこそが真に快いものであるが、アレテーに基づく実践行為はそのようなものなのであり、それはつまり、美しい行いを実践する人々にとってだけ快いだけではなく、アレテーに即した自然本性的行為自体が快いものだからなのだ。

 これらの人々の生活(人生)は「快」をいわば何かの飾りや添え物として必要としているわけではなく、生きることそれ自体のなかに「快」があるのである。実際のところ、付け加えていえば、うるわしき実践に喜びを感じない人は善き人ではないのである。正義にかなった実践的行為を喜ばない人を誰も正義の人とはいわないだろうし、リベラルな<寛大な心の>人にふさわしいおおらかな行いを喜ばない人をリベラルな人とは呼ばないだろうから。
 
 その他の場合も同様である。アレテーに基づく実践はそれ自体が快いものであり、善であり、美であり、優れた人物がこれらについて適切に判断する限り、その各々の行為は最高度にこれらの要素を兼ね備えているのである。そしてこのような判断は私たちが述べたことと一致して、幸福は最も善いもの、最も美しく快いものであり、それはデロス島の碑文にあるように別々のものではないといえるのである。

  もっとも美しいのは、もっとも正義にかなうこと
  もっとも望ましいのは、健やかなること
  もっとも快いのは、愛するものを思いのままに手に入れること

 なぜなら、これらはすべて最良の活動に含まれているからであり、私たちはこれらの活動、ないしはこれらの活動の最善な一つが幸福であると主張しているのである。

 しかし、そうはいっても、幸福には先に述べたように「外的な善」もあわせて必要であろうことは明らかである。美しいことを行うには、外的な備えがなければ不可能であるか、そうでなくとも容易なことではないからである。人々は友人や富や市民的政治的な力を、いわば道具として使い多くのことを成すのだが、一方で、それらの「道具」をわずかでも欠く者は、至福(マカリオン)に欠損を生じることにもなりかねない。たとえば生まれの良さ、子宝にめぐまれること、美貌といったものがそれにあたる。実際、容貌が醜かったり、卑しい生まれであったり、孤独だったり、子どもがいなかったりということがあれば、人はあまり幸福とはいえないだろう。さらにもし子どもや友人がいたとしてもひどく劣っていたり、あるいは善良であっても死んでしまったならば、おそらく、それを幸福ということはなおさらできないであろう。したがって、すでに述べたように、「幸福する」ためにはこのような順境が他とあわせて必要になると思われる。
 以上のことから、ある人々は幸福を幸運と同列に扱い、また、それをアレテーと同等に見なしている人々もいるのである。