ニコマコス倫理学 1-7 <訳・注 = 荒木 勝+石井 泉>


大山、秋(2017)

 ◎第1巻 7章

【最高の善は幸福であり、独立自存の生である】

 ここで再び、追い求めてきた善に立ち返り、いったいそれが何であるかを問うこととしよう。実際のところ、確かに実践の対象や技芸の種類が異なれば、善もまた異なるものであるように思われる。たとえば、医術における善と軍隊の統率における善とは異なるものであり、その他の領域に関しても同様である。

 では、それぞれの領域における善とはいかなるものであるのか。いってみればそれは「それを得るために、その他のことがなされる」ものではないだろうか。すなわち医術においては健康が、軍隊の統率においては勝利が、建築術においては家が、またその他のものについても他のもののそれがあてはまるが、要するに、あらゆる実践と選択においてその目的であるものが善にあたる。実際、すべての人はこの目的のために、その他のことを行っているのである。したがって、あらゆることに何か実践的な目的があるとしたら、それこそが実践的な善であるということになるであろうし、もしそれがいくつかあるならば、これらの実践的な善もいくつかあるということになるだろう。

 さて、議論は巡って同じ場所に帰着した。この問題をさらに明確に把握するよう努めなければならない。

 こうして、目的は複数あるように見えるが、私たちはこれらの目的のあるものを別のもののために選択する。たとえば富<たとえば貨幣>とか、楽器の笛とかの一般の用具類がそうであるように。したがって、これらのすべての目的が究極的なある目的のためであるということは明らかであるといってよい。そして、その究極的な目的こそが最高の善であるように思われる。それゆえ、ただひとつの究極的目的が存在するならば、それこそが私たちが追求する善ということになるであろうし、それが複数あるならば、そのうちの最も究極的な目的が私たちの求める善であるということになるだろう。

 しかし「それ自体の価値のために追求されるべきもの」は、「他のものを得るために追求されるべきもの」よりもいっそう究極的なものであり、「いかなる場合でも決して他のもののために選ぶことはないもの」は、「それ自体として望ましいだけでなく、他のものゆえに望ましいもの」に比べてやはりいっそう究極的である。したがって「常にそれ自体で望ましく、決して他のものゆえに望ましくあることのないもの」を、無条件に究極的なものと私たちは呼んでいる。

 そして、幸福こそがまさにそのようなものであると考えているのである。実際のところ私たちは、幸福を常に幸福自体のために選ぶのであって、いかなる場合であっても、他のものを得るために幸福を選ぶのではない。また私たちは、名誉や快楽や知性や人としてのあらゆるアレテー(卓越的力量、徳)をこれら自身のために選ぶ(そこから何も生じてこなくとも、私たちはこれら各々を選ぶだろうから)。しかし実際には、私たちはこれらのものによって「幸福する」ことができるだろうと考え、幸福を得るためにこれらを自分のものとするのである。逆に、誰もこれらのものを手に入れるために幸福を選ぶ人はいないように、総じて、幸福以外のものを手に入れるために幸福を選ぶ人はいないといってよいであろう。

 独立自存(アウタルケイア)という観点から見ても同じことがいえるだろう。究極的な善はそれ自体で成り立つ独立自存的なものとされるからだ。しかし、私たちは独立自存ということを、自分一人だけが満足するとか、単独で生きることに自足すると理解するのではなく、親や子や妻、さまざまな友人たちや、市民同輩たちと共にあることで存在するというふうにとらえている。というのは、人間は自然本性的に、つまり生まれついたときから<他者とともに暮らすという意味で>市民的で政治的<ポリス的、つまり都市・国家的>な存在だからである。しかしそうはいっても、ある範囲に限定する必要はある。祖先や子孫や「友人の友人」にまで範囲を広げると際限がなくなってしまうからだ。だが、この点についてはまた後で考えてみることにしよう。

 私たちがここで「独立自存するもの」として理解しているのは「それだけで生活を望ましいものにし、そこにいかなる欠落も生じないもの」である。幸福がそのようなものであると私たちは考えている。
 さらに、幸福はあらゆる善のうちでもっとも望ましいものであり、その他の善と同列に置かれるものではない。もし同列に並ぶものならば、そこに少しでも善が加われば、それだけ加算的により望ましいものになるのであり、付加された善はより大きな善になり、絶え間なくさらにより望ましいものとなっていくはずであるからだ<しかし幸福とはそういうものではない>。

 したがって、幸福こそは究極的で絶対的な独立自存のものであり、もろもろの実践の目的となるものであることは明らかである。
 このように、幸福を最高の善であるとすることはおそらく万人の一致するところだろう。しかし、ではその幸福とはいったい何であるのかが、ここでさらにより明瞭に語られることが求められてくる。

 しかしその点は、おそらく人間としての働き(エルゴン=活動、機能)とは何であるかが把握されることで解決されるだろう。実際、笛の奏者や彫刻家などのあらゆる技能者や、一般にその人固有の働きを持ち実践している人においては、その働きのうちに「よさ」や「上手さ」が存在しているように考えられるが、人間というもの自体においても、なんらかの働きがそこにあるかぎり同様のことが言えるように思われる。それとも大工や靴職人にはある種の機能や働きがあるのに、人間それ自体にそのようなものはなく、生まれつき持ってもいないのだろうか。それとも、目や手や足やその他身体の部分それぞれにそれぞれの働きが見られるように、これら各部位の働きとは別に、何か人間としての働きというものが想定できるのだろうか。もしできるとすれば、それはいったい何だろう。

 たしかに生きるということには成長(生長)するものに共通する働きがあるように思えるが、ここで求められているのは人間というものの固有の働きである。だから栄養摂取とか成長とかの生の働きは除外しなければならない。また、生の一つの機能として感覚の働きが問題となるが、これも馬や牛などの生き物に共通する生の働きであり、したがって残るのはロゴス<重要な用語であるが、言葉、理性、分別などと多義的な意味にとれる語であり、一語で言い切れないので、本書では基本的にロゴスと原語のまま表記する>を生きることの要素(部分)として有し実践(行為)する生である。そしてこのロゴス的生全体のなかであるものはロゴスに従うものとしての生であり、またあるものは自らがロゴスを有し、思考するものとしてのそれである。しかもこの実践(行為)する生も二重の意味で語りうるものであるが、ここではそれ自体で活動(エネルゲイア)するものとしての生を取り上げねばならない。なぜならこちらのほうがより優れた意味において生と呼ぶことができるからである。

 <この段落はアリストテレスの『霊魂論』を踏まえた叙述と見ることができる。この書によれば、人間の霊魂において知性(ヌース)はある種の実在(ウーシア=実有)として私たちの内に生じ、かつ消滅しないものであり、何か神的で、他からのどんな作用も受けないものとされる。『ニコマコス倫理学』第10巻などの知性の規定と照合して読むべきだろう。そこにはこうある。「知性は人間を超えて神的なものであれば、知性に即した生もまた人間的な生を超えて神的な生としなければならない」。
 したがってこの箇所の、ある意味でヌースと対をなす知性のあり方の一つであるロゴスを、たとえばよくあるように「理性」と訳すだけでは、アリストテレスの真意をくみ取れないおそれがある。ギリシア語のロゴスには日本語にすれば、言葉、言語、話、文、祈り、神託、理性、知性、原理、考量、計算、比、比例などの多様な語義が含まれていることに注意すべきであろう。『政治学』に登場する「人間はロゴスをもった動物である」という有名な規定も、このような多義的意味を内包しているのである。あえて一語で表すならば私は「言(げん)」をあてたいところだが、それは「言とは直言なり」(『説文解字』)とあり、人間と天地の神との意思疎通、言霊(コトダマ)的行為を意味しているからだ。古代ギリシア、またアリストテレス哲学におけるロゴスにも、この意味に通じる要素が含まれていると考えられる。総じてロゴスとは、物事/事柄の本質・存在を洞察するための人間の知的手立てであるということができるだろう。新約聖書の「はじめにロゴス(多くは「言葉」と訳されるが)ありき」という一行も想起しておきたい)>

 しかし、人間の働き(エルゴン)が、ロゴスに即した霊魂(たましい)の活動(エネルゲイア)であるか、もしくはロゴスなしにはありえない霊魂の活動だとすれば、また、あるものの働きとあるものの“優れた™働きとが種類において同じものだと主張するとすれば、つまり、たとえば竪琴弾きの働きと“優れた”竪琴弾きの働きとが別のものではなく、さらに一般にこのことがすべての事柄にあてはまるとするならば、人間の働きにおける違いはそれにつけ加わる力量(能力)の卓越度の差にすぎないことになる。実際のところ、竪琴奏者の働きは竪琴を弾くことであり、優れた竪琴奏者の働きはそれをうまく弾くことである。であれば(人間としての働きを私たちはある種の生の発動としてとらえ、そのある種の生をロゴスによる霊魂の活動や実践と解するならば、“優れた”人間はこれらのことをうまく立派に成し遂げるだろうし、しかもそのそれぞれの部分的な働きにおいても、それぞれの固有な力量に基づいて完遂することができるであろう、ということであれば)人間にとっての善とは、霊魂の活動として、そのアレテー(卓越的力量)に応じて生じてくるものであり、またそのアレテーが多種多様であれば、そのなかで最も善き最も完成されたアレテーによって生じるということになる。

 さらにいえば、そのエネルゲイア(活動)は完遂された人生においてはじめて成就することとなるだろう。というのも、一羽のツバメが春を到来させるのでもなければ、一日で春になるものでもないからである。それと同様に、人が祝福された幸福な者となるのは、わずかな時間でなせることではないのである。

 さて、以上で「善」の概括が与えられたこととしよう。実際的にいって、物事は最初にまずは輪郭を描き、そのあとに仕上げていくべきだろう。つまりおおよそのところでよくできている事柄を、さらに手を加えて細部までつくり上げていくことは、ある意味で誰にでもできることであり、“時”こそそのような細部の仕事の発見者であり、協力者であるように思われる。種々の学問や技術の進歩もそのようなことから生じたのである。実際のところ、欠けていることを補うのであれば誰にでもできることだろうから。

 しかしそうはいっても、前に言及したことも想起しておきたい。すなわち、あらゆる事柄すべてに同じように厳密な精確さを求めるのではなく、各々の領域において、その基礎となる素材に即して、その研究の固有性に応じた精確さを追求すべきである。というのはたとえば、大工と幾何学者とはそれぞれ異なった方法で直角を求めるものだからである。つまり前者は彼の仕事に役立つ程度でそれを求めるが、後者はそもそも直角が何であり、いかなる性質をもっているかを探究するものであるからだ。なぜなら、幾何学者は真理の研究者なのだから。それゆえに、他の場合においても、これと同じように行うべきであり、副次的な仕事が本来の仕事を凌駕することのないように留意しなければならない。

 ということで、私たちはあらゆる事柄すべてに一律一様な原因の追求をすべきではなく、ある種の事柄においては「何々である」という事実を適度に示すことで十分である。たとえば根源的原理(アルケー=始原、はじまり)に関する場合がそうだ。「何々である」という事実こそがそもそもの「はじまり」であり、さまざまな原理のうち、あるものは帰納によって、あるものは感覚によって、またあるものは習慣によって、その他のものはまた別の仕方でそれが看取される。私たちはその各々の根源的原理を、それにふさわしい仕方で探究しようと努めるべきであり、それらが正しく定義されるように真剣に取り組むべきであろう。なぜなら、それ(根源的原理)はあとにつづく事柄に対してきわめて重要な意義を持つからだし、実際に、根源的原理(=はじまり)はそれのみで全体の半ば以上を比重として占め、探求されているものの多くはそれによってほぼ明瞭になると思われるためである。