唖蝉坊から貰った二冊の字典

 私の貧しい学歴/学力のなかで出会った、すばらしい辞典・字典について書かせていただきます。

─ 川柳本という辞典 ─

 かの演歌師の祖・添田唖蝉坊師から父が貰った新語辞典と川柳本の、これは私の3〜6歳ごろの話です。新語辞典はともかく、川柳本がなぜ辞典なのか、ですが、それが子ども時代の愛読書であり、いわば世界の字引、よく「生き字引」と呼ばれる年寄りがいますが、まさに子ども時代の私にとって、この一冊の川柳本は世界の字引だったのです。その時、唖蝉坊師は、父の膝元にいた私を見遣りながら「これは坊やにはちょっと早いんだけど・・・」といいながら渡していたことを覚えています。そういわれると見たくなるのが人情で、しかしもう一つの「新語辞典」の方はさすがに難しかったのでしょう、も少し後に、といっても就学前の7、8歳頃にはもう読んでいました。

 一方の川柳本ですが、ほとんどが「かな表記」で、おまけに一句一句に漫画風のイラストが付いていて、それで必ずしも完全に文字が理解できなくても何とか読めたのです。例えば「いとまきや むこうでていしゅ踊ってる」というと、座っている女性が糸を巻き付けている向こうで、両手に糸の束を通して、裾をからげた男性があたかも踊っているような漫画が付いているのです。こんなことは母の針仕事の合間によくやらされたものですから、それにあれはコツが要って、確かに糸が巻き取られるタイミングに合わせて、踊るように腕を動かしながら調子を合わせないと、糸の束が外れてしまうのです。そんなところを川柳という高級? なコトバで言い換えてもらった、という何か満足感のようなものが、子ども心にあったのでしょう。得意になったものです。

 またこんなのもありました。「かんにんの もどりは棒がじゃまになり」。棍棒を片手に腕まくりをしたおやじさんが、しおしおとしている絵が。「つめで火を ともすあとから せがれ消し」というのでは、そろばん片手に帳場に座る親父のむこうに、遊里でどんちゃん騒ぎの若者が、吹き出しふうに描かれているし、また「コスモスが 咲いてさふらふ いいなづけ」では、若い娘が思いにくれた風情で巻き紙に筆をとっている様が、もちろん庭先にはコスモスの花が、といった具合です。これらは隣近所のそこいらに日常的に転がっている話でしたから、子どもの私にとっても特別理解に難しいことでないどころか、子ども向けの絵本や漫画など買ってもらえない、まさに川柳的環境に育つ、そういう子ども時代のレアリティを担った、唯一の愛読書となりました。

 また家の長押には添田さんの作ったという「呑んだくれ 妹の方も売る気なり」などというのがかかっていました。たぶん大人たちの話の聞きかじりの、いわば耳学問で「呑んだくれ」と「妹」の関係などを理解して、今思えばこれらは私の文学体験のオリジンで、ずいぶん下世話な通俗的出発だったものよ、と今更ながら嘆くのですが、そこから自分の幼い世界を曲がりなりにも組み立てていたと思うと、愛おしくさえあるのです。

 そういった私の環境というのは、少しいくと浅草から吉原へ、といった、いわば一葉の「にごりえ」を思わせる辺りで、吾妻橋の西詰め観音様の側ではご存知の神谷バー。そこの電気ブランという、ブランデーですが、なんでも腰にくる酒で、夕暮れともなると仕事帰りの半纏着(日雇い労働者)たちが、安価であることからつい飲み過ぎて、橋の上に何人もヘタリ込んだり、クダを巻いていたり、とか、そのままスカイツリー側に渡りきるとアサヒビールの工場があって、そこではでき立ての生ビールを・・・つまり酔っぱらいなど昼夜構わず往来するといった環境でしたから、まあそういうものかもしれません。

 ですから今でも川柳は私の生活の裏声となっていて、先日の私の絵画の個展「線とかたちの桃源記」でも、ユートピア/ディストピアといったこの現実世界のもう一つ外側のバーチャルな世界として描いたものですが、ここでもすぐに「世の中は地獄の上の花見かな」といった句が忍び込む、という始末なのです。

─ 嘆き節の時代の新語辞典 ─

 次の新語辞典? ですが、新書判ほどの厚さ1センチにも満たない袖珍本でしたが、一応インデアンペーパーに刷られていました。それは就学前の私にはさすがに難しく、中身はもう殆ど何も覚えていないのですが、新語というのは、例えば、そう、私の生まれた昭和初期には、どなたもご存知のごとく、1929年にアメリカに端を発した世界経済恐慌のあおりを承けて、実は我が家は、父が親代々の薬種商をその兄と一緒に食いつぶして、それに加えて関東大震災を本所双葉町で罹災し、生活の方途を知らぬ育ちの故に、ついには貧困のどん底に喘いだ時代でした。世は農民運動や労働運動などが盛んになった時期に当り、官憲の弾圧も厳しくなったようで、特に私の育った下町のいわばドブ板長屋では、そこで語られたであろう大人たちの語気もろとも、子どもたちはその意味もわからぬままに、その遊びにまで、ストライキとかビコウ(尾行)などといったコトバが、異様な熱気を伴ってはいりこんでいたのでした。

 その辞典は、今は殆ど覚えていないし、とうに何処かへ失せてしまったのですが、面白いことに「デモクラシー」とか「カイキュウ/ムサンカイキュウ」とかに混じって「モトクラシー」「カタカイキュウ」などというコトバが、新語なんでしょうね、出てい・・・ドブ板長屋の子どもたちは皆、大人との生活の距離が近かったせいか、マセていてずいぶんこまっしゃくれた、可愛げのない子どもだったので、特にそんな男の子を「トッちゃん小僧」と云うのですが、私もその一人で、大人びたコトバを仕入れては披露して得意がっていたものです。4歳から6歳くらいのころのことです。

 今でも毎年「今年の新語・流行語大賞」などというイベントが行われていますが、新しいコトバがつくりだすステータスの魅力というのは多分、江戸の昔からいつの時代にもあったのではないかと、これを書きながら思っています。

 ところでこの「モトクラシー」は「灯台下暗し」をもじったシャレたスラングという見当がすぐにつきますが、「カタカイキュウ」の方は如何でしょうか。本歌はもちろん「階級」で、これは当時の大恐慌の吹き荒れた、ちょうど今のように「大学は出たけれど」という嘆き節の時代です。そんな気分の中で、就職もままならず、結婚して所帯を持つことになっても、一軒家を借りることが出来ない間借り生活で、その場合、手紙を出すにも所番地の末尾に大家さんの名前を書いて「誰々方」としたものです。これを当時の階級という言葉でもじって、間借り住まいをする階級。見回すと彼処の家もそこの夫婦もカタカイキュウで、子ども心に、まことに巧いもんだと、こんなコトバを覚えては得意になって披露したものです。

 他にもローダウシャ=労働者、ハンテンキ=半纏着、シャカイシュギ=社会主義、ヒンミンクツ=貧民窟、ジユウシュギ=自由主義、ストライキ、アブレル=あぶれる、カンカイユウエイジュツ=官界遊泳術、ビカウ=尾行、などなどで、子ども時代、もっぱらそういう「ボクにはまだ早い・・・」ものに囲まれていたわけで、まさに「育児法しらぬ長屋に良く育ち」といったそんな子ども時代でした。が、今考えても、それが辛く悲惨な貧乏暮らし、といった記憶はまったくなく、添田さんのもたらしたその「新語辞典」や川柳のコトバが、胡乱(うろん)ながら、絶えずキラキラと頭の中を往き来して、そんな親の貧苦をよそに、世界が輝いていたのです。

─ 尾行を食ったやさしい添田さん ─

 「尾行」というコトバでは添田さんのこんなエピソードが、その辞典のいわばインターテキストとして幼い脳裏に焼き付いていました。添田さんは当時の社会主義者として、一時期警察の尾行が付いていたそうで、どこを旅行するにもそれと二人連れで歩くわけで、しまいには尾行とも仲良くなって、例えばタバコ銭がなくなると刑事に出させたり、飯を奢らせたり、刑事の方でも機嫌を損ねて逃げられでもしたら責任問題ですから、そういう関係が出来上がっていたようで「添田さんが尾行を食った」といった英雄譚めいた大人たちの、これは茶飲み話です。

─ 添田さんの四国遍路 ─

 添田唖蝉坊・知道著作集(刀水書房刊)に付けられた年譜によると昭和6年から16年までの10年間が、四国霊場の遍路に当てられていますが、昭和6年すなわち私の生まれたときですから、私の10歳のときまでの十年間が、四国遍路という設定なのです。10年の四国遍路はいくらなんでも長過ぎます。私たちが添田さんとともに暮らしたのはちょうどその時期に当たるはずで、先述のようにすっかり零落した私の一家は、文字通り下町のドブ板長屋に暮らしていたのですが、その家の玄関横の四畳半? に添田さんはいて、毎朝の食事は黒ごまの皮を剥いたものと、お椀に味噌と削り鰹節をひとつまみ入れてお湯を注いだみそ汁を朝食としていたそうで、がらんとした部屋の真ん中に添田さんは座って、膝の前に折り畳んだ紙を広げて、その上で、両手の平で胡麻を、もむように擦り会わせながら皮を剥く姿が、いまだに目に残っています。

 ただ、何もない中に、何かのビラのような印刷物の束が隅に少しばかり積んであったくらいで、その何枚かを親が見ているものを覗いた朧げな記憶があります。四畳半の真ん中に、よく雲水が托鉢などに冠る深い笠を持ち出し、何度も何度も渋を塗っていて、やがて笠はつやつやに成ります。それに墨染めの僧衣と・・・。

 また別の時、その遍路の旅行記? を書いたから、と云いながら父に手渡している場面の記憶があります。「四国遍路日記」だったかもしれませんが、表紙から裏表紙にかけて一杯に大きな和船が描かれており、舟の向こうに海の群青色が異常に印象的な表紙でした。

 思うにその時期、唖蝉坊はその巡礼の合間に我が家に立ち寄っては何日間か何か月か過ごしてはまた出かけてゆく、といったことであったらしく、私が小学校に入学したのはその家からではなかったので、この期間は恐らく昭和6年から11、2年ぐらいまでの間のことだったでしょう。

 そんなある時、私の父が、町内のどぶ掃除から、ワイル氏病という伝染病にかかって、今で言う港区の済生会病院に入院したことがありました。母は妹を背中に、私の手を引いて行くのですが、当時の王子電車(三ノ輪〜早稲田間を走る路面電車)を乗り継いで行くわけで、ところが電車が近づいてくると怖くなって、わあわあと大泣きして停留所の壁にへばりついて、乗ることができなかったのです。やむなく円タクにするわけですが、50銭に値切ってもやはり貧乏所帯にとっては高価で、そんなとき添田さんが停留所まで一緒に行って、泣きわめく私の手を引いて家に帰ってもらう、ということが続きました。これは今でも非常に強く頭に焼き付いています。

 また母は、ともさん、ともさんと言っていましたが、ご子息の知道さんについては小説「教育者」が新潮社から出たとき、私も学校に勤めることを朧げに考えていたときでもあって、早速その四巻本を読んで、坂本龍之輔という主人公に大いに感動したものです。それはずっと後の、私が16、7歳の頃のことです。私が長じて、絵を描きながら雑誌の編集者をしていた時、町の祠を訪ねるルポを書いていただく為にお目にかかりましたが、その時、如上の思い出話を申し上げたところ、知道さんも、そう云えば聞いたことがある、と目をつぶるようにして聞いておられたのです。

 以上

※本稿は『私達の教育改革通信』への掲載を目的に書かれたものです。

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