AVATAR <夢をめぐる断想-5>


100414.jpgジェームズ・キャメロンの映画『AVATAR(アバター)』は、意外に面白かった。
劇場の入口で3D用のメガネを渡される。私はもともとメガネを常用しているので、メガネのうえからもうひとつ二重にメガネをかけて映画を観ることになる。なんか、妙な気分。
荘子の有名な「胡蝶の夢」を思わせるファースト・シーン。筋書きなど、なんの予備知識もなかったので、なんとなくエリアーデの原作を映画化したコッポラの『胡蝶の夢』を想起したが、少しするとアバター(化身)の意味がわかってくるので、うまい始めかただなと思う。
胡蝶の夢というのは、私が蝶になった夢をみているのか、蝶が私を夢みているのか、どっちが本当かわからないというアレである。
この映画でいえば、人間である主人公(地球人)とその化身であるナヴィと呼ばれる異星の人間に似た生物が画面にでてくるが、どちらかが眠ると、もう片方が目を覚まし活動をはじめる。主人公が眠ると、その化身であるもうひとりの主人公が目覚めて、自分にとっての異世界でさまざまな試練を積んでいく。どっちがどっちの夢をみてるんだ? ってこと。
このあたりの「仕掛け」が、じつに映画的だなと思う。であると同時に、ハリウッドの娯楽映画も、なにを主題として映画を撮ったらよいかわからなくなっていて、映画というもの自体を主題にする傾向が強まってきているのかもしれないとも考える。


別の言い方をすれば、映画が人為的に仕組まれた夢(私はそう思う)であるとすれば、また、いまが「現実」に誰にとっても楽しい夢の題材を見出しにくい時代であってみれば、「持つ夢」ではなく「見る夢」にもう一度還ろうとするのは、わかりやすい道理なのかもしれない。
そこに必要なのは虚構を虚構として成り立たせるリアリティである。リアリティにもさまざまな位相があるが、この場合のリアリティとは本当っぽさということではなく、あらかじめこれは虚構であるということを「しるし付ける」舞台設定であり、物語(フィクション)としての枠組みである。
冒頭の夢からの導入といい、VFX(特殊視覚効果、少し前はSFX(スペシャル・イフェクツ)と略式に書いた)の凄さといい、『スターウォーズ』がそうであるような神話性といい、これは夢であることを自覚したある夢の映画といえるだろう。
虚構作品は、それが夢であることがメタなメッセージとしてマーク付けされていなければならない。3DやCG技術がいくら巧みでもこのマーク付けが下手で、これが「嘘」であること(真であると嘘をつくのではなく、嘘であることを真として前提すること)が了解・共有されていないと、見るものは逆に、リアルに近いものほどそのリアリティを感得できず、騙されている気分になって「没入」することが困難になる。その意味ではよくできている。良質なすべてのSF作品がそうであるように、これはウソであることを承知のうえで、リアルであるよりも、リアリティを追求しようとした映画なのである。夢でいえば、ルシッド・ドリーム、明晰夢ってやつである。
とはいっても、あまりに図式化され単純化されたこの自然vs文明の物語は楽天的にすぎるかもしれないことは言っておきたい。それゆえにこそ、大衆に受ける娯楽映画として成功を勝ち得た作品であるとしてもである。
図式的といえば、主人公のアバター(化身)が、翼竜ケツァルコアトルスを思わせる怪鳥に跨がって「降臨」するシーンでは、つい思わず笑ってしまった。神話とはひとつの類型的思考なので仕方ないのだが、いかにも受けねらいの演出によって、部分的に神話における表象をわざとらしく剽窃しただけのようで。パロディとしては秀逸かもしれないし、映画は多様な見方ができればこそ「豊かな」映画であるわけだけど、自己をヒーローとして神話化しようという意図が見え隠れする。
同じくパロディとして見ると、植民地主義、侵略戦争を自己批判している映画ともとれるこの作品は、しかし、もうひとつの夢の王国=映画の世界では、アメリカが変わらずに「神」であることを宣言するメッセージが込められているようでもある。
この映画を観た4月のはじめのころ、たまたま『闘うレヴィ=ストロース』(渡辺公三著 平凡社新書)と『ダーウィンの夢』(渡辺政隆著 光文社新書)を読んでいたことも手伝ってか、自然(野生)が人間(侵略者)に勝利するという結末には、自己正当化のための言い訳がまぎれこんでいるようにも見えた。っていうか、正当化しようにもしようがないことを詫びる姿勢があることを示そうとしていたように、見ようによっては見えたとでも言っておこう。
自然(野生)はこの映画のように、イデオロギーのもとに反撃したり、特定の文化に対して逆襲などはしないからだ。
(「鳥の巣あさり」にまつわるアメリカ・インディアンの神話を思わせるシーンもあり、じっさいにキャメロンはルーカスのように神話(たとえばジョセフ・キャンベルの神話学)を「勉強」していたのだろう。しかしというか、だからというか、キャメロンの神話はいかにも西欧的な英雄神話ではなかろうか。その点、侵略される側は侵略する側よりも異文化を受容しようとする寛容な姿勢をもっているというレヴィ=ストロースの指摘は示唆的である)
さて、しかし、ここから先は、日常世界の話である。
映画のラスト、主人公の人間は死ぬことでアバター(化身)として目覚め、向こうの世界(異星の森、夢の世界)で「単独で」生きることになる。私たち観客も、映画という夢から覚め、現実の世界へ、自分のくらしの場へと戻る。映画が終ることで、ひとつの夢が終わったが、私たちは私たちの現実あるいは夢の世界へ帰り、自分のアバターを探しはじめる。映画の夢は私たちの夢へとつづき、その夢は現実とつながる……。
3D用のメガネを返し、パンフレット(上の写真)を買って、大きなビルの十数階にある劇場を出ようとしたとき、黄色い風船をもった一人の(普通の)メガネをかけた女性がどこからともなく現れ、近寄ってきた。
小さなリーフレットを手渡され、無表情でありながらもにこやかに(「アバターに笑窪」とは言わないまでも)「『アバター』はどうでしたか。よろしかったら、おこなってみてください」という。「えっ、なにをオコナウのですか?」と聞き返しながらそのリーフレットに目を落とすと、他者を見つめ、念じて、その人に自分の思いを伝えてください、というようなことが書いてある。なにかスピリチュアルな行為をおこなってみてほしいということらしい。
テレパシーには興味があるし否定をするつもりもないが、さらに読んでみると「異星人との交信…」という文字が目に入ってきた。あっ、もしかしてUFOカルト、これはヤバッ!と思い「いや、ぼくはいいですよ」と、なにがいいのかわからない言い方をして、そそくさとビルの1階に降りるエレベーターに飛び乗った。
しかしなんです、これが。これで終らない。その女性もすっとエレベーターに身をすべりこませるように乗り込んできて、エレベーターの中で、ふたりきり。無言である。目を合わせないようにしていたが、彼女はなにか、念(思い)を私に送ろうとしているのだろうか!?
エレベーターを降りた私は、なんか不安で落ち着かない気分と同時に、色メガネで人を見るのはよくないし、無視したら悪いかな〜という気持ちになったまま、でも、後ろからついてきそうなその女性を振り返りもせず足早に駅に向かい、電車にのった。
電車の中で映画のパンフレットを開いてはみたが、『赤い風船』ならぬあの黄色い風船が気になって、パンフレットの文字を読んでもほとんど頭にはいってこない。映画の夢から覚めきれない思いで、何度も車中を見渡したものである。まさか、となりの車両から、フワフワと黄色い風船が漂ってきはしないだろうな、と。

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