ニコマコス倫理学 4 <現代口語訳・注> 荒木 勝 + 石井 泉

気分転換に蒜山山荘近くを散策

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【幸福について語る方法】

 さて、元の議論に立ち返って、すべての知識や選択行為がなんらかの善を追い求めるものであるならば、政治学がめざすと私たちが言っているところのものはいったい何だろう。また、すべての善のうちで最高の善といえるものは何なのかを論じてみることにしよう。

 めざすものの名称については、ほとんどの人々の考えは一致している。一般の人も、教養ある人も、それを幸福(エウダイモニア)と呼ぶ。そして「善く生きる(エウ・ゼーン)」こと、あるいは「善く為す(エウ・ポラッテン)」ことを、「幸福する(エウダイモネイン)」ことと同じものとみなしている。<このエウダイモネインというギリシア語はエウダイモニアの動詞形である。日本語において「幸福」は動詞化できない。そのためここでは、「幸福感」といった心理的状態をしめすだけではく、幸福に動き・活動のニュアンスを含ませる意味でこのように造語してみた>

 しかし、幸福についてそれが何であるかという点では、人々の見解は一致しておらず、一般の人々は識者の考え方と同じようには幸福をとらえてはいない。事実、ある人たちはそれを具体的で目に見えるもの、たとえば快楽であるとか富とか名誉とかであるとするが、他の人たちはまた、別のものを幸福と考える。さらにいえば、同じ人でもしばしば違うことをいう。たとえば病気のときは健康を、貧しいときは富をあげる。また自分ではよくわからないという人たちは、彼らの考えでは及ばぬことを幸福と語る人々のいうことに驚嘆するのである。

 さらにまたある人びとは、これらの善きもの<幸福>のほかに、それ自身で存在している<プラトンなどのいうイデアを指していると思われる>ものがあり、それがすべての善きものに対して善であることの原因となっていると考えている。

 というように、幸福に関するあらゆる説を吟味してみても、だが、あまり有益なことでないのは確かだろう。ここでは、もっとも広く知られている見解、もしくはそのとおりだと思える考えを検討すれば十分であろう。

 しかしながら私たちは、根源的原理から出発する議論と根源的原理へ向かう議論には違いがあることを見過ごしてはならない。じっさいかのプラトンもこの点を問題とし、議論の道筋が根源的原理からはじまっているものなのか、根源的原理に向かうものなのかを問うていたが、けだし当然のことなのだ。あたかもそれは審査員席から競技のゴールに向かうのか、あるいはその逆なのかを問うようなものである。じつのところ私たちは「よく知られている事柄」から出発しなければならないが、そこには二重の意味が含まれているからである。ひとつは「われわれにとってはよく知られている事柄」であり、もうひとつは「誰でもそうとよく知っている事柄」という意味である。私たちとしてはおそらく「われわれにとってはよく知られている事柄」から出発すべきなのである。

 したがって品位ある事柄や、正義にかなった事柄、また一般的に政治的・市民的な事柄に耳を傾けようとする者は、すでに善き習慣(エートス)の薫陶を受けた者であるべきだろう。なぜなら、ここではしかじかの事柄の事実(ホテイ)が出発点であり、この事実が明らかになっていれば、なぜそうなのかといった理由を別に必要とはしない。このような人はすでに出発点としての根源的原理を備えているか、もしくはそれを容易に手に入れることができるであろう人である。そのどちらでもない人は、ヘシオドスの次の詩を聞くがよい。

 自らすべてのことを悟る人はもっとも善き人

 善きことを悟り語る人に耳を傾ける人も善き人

 しかし自ら悟ることもできず、他人の語ることを耳にしても

 胸にとどめ置かぬ人は愚か者である


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