ニコマコス倫理学 3 <現代口語訳・注> 荒木 勝+石井 泉


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【政治学(本倫理学)はいわゆる「精密科学」ではなく、また、この講義は若年者には向いていない】

岡山県蒜山の山荘にて 2017.10

 しかし、この「学」に関する論述はそのそれぞれの題材となるものに応じて明確にしていくことで十分だろう。というのも、専門的な職人の作品と同じようには、それらの論述に厳密な定義を求めるべきではないからである。政治学の考察の対象となる美しく品位ある題材や正義にかなった事柄には多くの違いやズレがあるのであって、その相違は人の手によるもの(ノモス)であり、自然本性(フュシス)的に存在するものではないと思われるからである。<ノモス(人為、人工)とフュシス(自然、本性)という対立構図に注意。ちなみに、この対比は古代から始まるが、アリストテレスはノモスはフュシスを模倣するという立場をとっている>。事実、諸々の善い事柄も、その善い事柄から害悪が生じる場合があるというズレ(逸脱)を含んでいるものなのである。じっさいにこれまでも、ある人は善きものである富ゆえに、また他の人々は勇気ゆえに身を滅ぼしてきたのだ。

したがって、このような事柄について議論を始めるには、粗削りに、また概括的に述べることのできる真実を示せば十分だろう。すなわち大体のところで、成るべくして成る事柄においては、そのように成ることから大まかに議論し、大体のところで結論に達すれば、それでよしとしなければならないのである。それゆえ、その議論されたそれぞれの事柄を、それと同じ大体の仕方で受け取るべきであろう。なぜなら、それぞれの領域の事柄に応じて、その自然本性が許容する程度の厳密さでそれを求めることが教養ある人々にはふさわしいからである。じっさい、数学者に説得的弁論を行わせることは、弁論家に厳密な論証を求めるのと同じ誤りであるのと同様なのだ。

 しかし、人は誰でも、自分が知っていることには立派な判断を下すし、その事柄の善き理解者である。したがって、教育をしっかりと受けた者は、その個々の事柄について正しく判断できるし、さらにいえば全般的な教育を受けた人は、分野を問わず物事全般に関して正しく判断できるものである。それゆえに、<未だ教育を満足に受けていない>若者は政治学の聴講者としては不適切だ。また実際的にいって、若者は生活という実践の場においてもほとんど未経験であり、政治学の論議は、このような人生における実践的な事柄から始まり、このような「学」についての全般的な事柄についてなされるためである。しかも、若者は情念(感情)にひきずられやすいため、この講義を聞いてもほとんど無益だろう。なぜなら政治学(=倫理学)の目的は、ただの知識の修得ではなく、実践的行いであるからだ。

さらにいえば、年配者であっても性状が幼い者であれば、年齢的に若い人と変わりはない。というのもその欠陥は、ただ重ねた年月の多少から生じるものではなく、感情に振りまわされてその時々の個々のものを追い求めることからくるのだ。このような人にとっては、自己を抑制できない人と同様、知識があっても無用の長物であって、ないのと同じである。理性(ロゴス)に従って欲求し実践する人々にとってこそ、ここでの知識はきわめて有益にはたらくであろう。

 本講義の聴講者について、どのように聴講するべきか、また私たちは何を論題として提供するのか、以上をもって序論としたい。