夢の中へ【バリコラージュ3】


[ウブドの光る雨0-1]
bali00_1.jpg 旅先へは夜に着くのが、私は好きだ。
 暗い海の上空を飛ぶ飛行機の窓から、海よりももっと暗い島影に、黄色い星々のように煌めく明かりが見えてきたかと思う間もなく地上に降下していく感覚が好きだし、飛行機を降り、見知らぬ町、見知らぬ人々の前に一気にストレンジャーとしての身をさらすのではなく、その地に人知れず静かに潜入していく感じもいい。
 なかでも格別なのは、バリだ。
 デンパサールのングラライ空港に降り立ち、空港に迎えに来ていたバリ人スタッフの運転するミニバンに乗りこんで、宿泊地ウブドへの道を走りながら、やっぱりバリには夜に着くのがいいなと思った。
 到着時間の遅れもあって、飛行機が赤道を越えるあたりで約1時間の時差を調整した腕時計を見ると、もう夜半に近い。
 ひさしぶりのバリである。タイヤから伝わる振動で、たしかにこの地に自分がいることを感じながら、旅の高揚感と、また来たいという想いがかなったことの安堵感、そして幾分かの不安が入り交じった気持ちで、私は窓から外の暗闇に目を凝らしていた。
 ヘッドライトが照らし出す道路や周りの景色は、まるで映画館のスクリーンに投影される映像のようにフロントガラスを流れていく。道は夜の川のようでもある。暗い車内。かなり、飛ばしている。助手席からバリ人スタッフが流暢な日本語で話しかけてくる。


 私たちのクルマのすぐ脇を2人乗り、なかには3人乗りの小型オートバイが乱暴な速度で追い抜いていく。バリでは見慣れた景色だ。しかし、おそらく家族なのだろう、ハンドルをにぎる男が懐に小さな子どもをかかえ、さらに後ろに赤ん坊を背負った女性を乗せて(4人乗り!)飛ばしているバイクを見ると、さすがにちょっとあきれてしまう。しかし、走っている自動車の数自体は少ない。
 道は舗装され、街灯も前に来たときに比べ驚くくらい増えているが、それでもその背後の鬱蒼とした木々はあくまで黒く、闇が深い。海側から山の方へとつづく道は少しずつ登りになるが、窓を開けるとさまざまな花々や果実、それとなんだか得体のしれないものの混じった匂いがクルマの中まで漂ってくる。
 途中、バトブランの辺りでは、ハンドルをきるたびに、ヒンドゥーの神々や、バリの悪霊たちを象った石像が闇のなかから浮かびあがる。ここは、観光客向けにアレンジしたチャロナラン劇「バロン・ダンス」を毎日、しかも午前中に上演することで知られている村だが、すぐれた石の彫刻の村としても名高く、作りかけの像などが道端に無造作に投げ出してあるのだ。
 深夜であるにもかかわらず、小さな明かりの灯ったワルンと呼ばれる道端の”食堂”に、何人かでたむろする人々もいる。
 忘れていた何かを思い出すときのような、不思議になつかしい感触が身体のどこかから湧いてくる。
 心に深く仕舞い込まれた記憶がそうであるように、これまでのバリの旅はある特別な”夢”として意識の奥に生きていて、今回の旅行はその夢をもう一度訪ねる旅でもあるのかもしれない。そんな気がしてくる。
 旅することは夢を見ることと似ている。ときどきそう思うことがあるけど、とくにバリは、強くそのことを感じさせる地なのだろう。はじめてバリに来たときも、そんな気持ちになったことを覚えている。空港からウブドへと向かう夜の道は、まさに夢へとつづく通路なのだ。
 過去と現在、現実と夢は、夜の底でつながり混ざりあう。
 むかしのフェリーニの映画『悪魔の首飾り』をみたことのある人なら、夜の道を走るこの感覚は、ある程度はわかってもらえると思う(あるいは、比較的新しいところでいえば、デヴィッド・リンチの『ロスト・ハイウェイ』『マルホランド・ドライブ』)。このとき、私は学生時代に見たこの映画のことを思い出していた。エドガー・アラン・ポーの原作をもとにしたオムニバス作品の一編で、テレンス・スタンプが真っ赤なフェラーリを駆って、深夜のローマの街を走りまわり、先へ行けば行くほど道を失い、悪夢の世界へと迷い込んでしまう話。おまけにこの短編映画の終わりには、魔女チャロナラン(ランダ)が化身したかのような美しくも無気味な少女が闇の中から姿を現すのだ。
 寝静まったバリ、そしてそのバリの夢の中へと引き込まれていくような感覚を覚えたのは、しかし、私だけではない。ミニバンに乗っている旅行者は、私を含めて計5人。私以外はバリははじめての面々であるが、そのため苦手なリーダー兼ガイド役を引き受けざるをえなかった私としては、この夜の通路は、ぜひとも通過してほしいプロセスだったのだ。(つづく)

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