デジカメと「もの」

 一月ほど前にカメラを買った。
 これまで使っていたカメラはもうさすがに耐用年数に達している観があったし、些かかさ張るし、以前のアナログ・カメラのように手になじんだ愛着もさほど感じなかったこともあり(とてもよく働いてくれて大いに感謝はしているのだけど)、最近のデジカメの技術的進歩とデザインの先進性に、新製品を目にするたび「へえー!へえー!」とトリビア的に感心しながらしばらく前から「次の」カメラを物色していた。
 とくに一眼レフで、小型のタイプのもの(ミラーレス一眼など)に惹かれていた。ときどきアマゾンなどネットを見て機能性と値段などを比べたりもしていた。仕事でも使うけど、あまり高価なものは手が出ないし(ぼくはプロの写真家じゃないし)、趣味と実用を兼ねたもので、いいのないかな〜と。
 で結局は迷ったすえ、家電/カメラショップを何気にブラブラしていたときに、購入を想定していなかったあるカメラが目にとまり、衝動買いしてしまった。一眼レフではない。コンパクト・デジカメらしからぬシブい意匠と、ネットで見てただけでは伝わらないその材質感、そして一眼ではないけどファインダーが付いているところに、グッときてしまったのだ。要は「もの」としてのデザインが気に入ったわけ。
 
 どんなものでも「もの」との出会いとはそんなものなのかもしれない。しかも、これ、コンデジにしては安価な一眼レフくらい高価(ややこしい言い方!)だったけど、ショップの人が表示価格よりさらに少し「勉強」してくれもしたので……。
120207-1.jpg そんでもって、最初に撮ったのがこれ。何でもない写真だけど、まあ記念すべきファースト・ショットということで。
 手前はぼくのいま愛用しているエレキギター(フェンダーのストラトキャスター)で、買ったあとに貼ったシール『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』から主人公の名をとって「ジャック」と名付けた。
 その後ろにあるのが、去年の初冬、やはり衝動買いしてしまったオベイションのアコースティック・ギター(中古)。もちろん(?)、「豆の木」とぼくは呼んでいる。買ったばかりのカメラを箱から出して、バッテリーの充電が終ってすぐに焦点の合わせ方も意識せずにシャッターをきったものだから、こっちのエレアコの方にピントがずれている(ジャックと豆の木の豆の木のほうに焦点がきている。家の近くに「豆の木」という不思議な名の旨いラーメン屋さんがあるけど、それはまた別の話)。
120207-2.jpg その一週間後、はじめて仕事の「お伴」に持っていって、霞が関ビル35階でのある行事の取材が終わり、外に出て入口そばにあったモニュメントを撮ったものが右。おお、これってまるでスピッツの『とげまる』じゃんと思って、うれしくなってこのステンレス(だと思う)のエッシャー風オブジェの前まで行ってシャッターをおした。隅っこにぼく自身が映り込んでいる。
 『とげまる』はご存知日本の人気バンド、スピッツの13枚目のオリジナル・アルバム名であり、アルバムのシンボル・デザインにこれふうのトゲトゲの意匠がつかわれている(スピッツ・ファンならすぐピンとくるだろう)! 
 そういえば、3月の終わりに開くぼくらのコンサートでもスピッツを数曲演奏することになっている(アルバム『とげまる』からは「トラバント」。ぼくはジャックをかき鳴らす)。
 そのあと、銀座に出て知り合いの(一年の半分以上はバリ島で暮らしている)ある画家(坂田純さん)の個展を見に行った。こういうことでもない限り、あんなに好きでよく来ていた銀座にも滅多に来ることがなくなったけど、面白いのは、新しいカメラをもっていると、銀座の町が新鮮に見えてくる。じっさい、ここ数年でずいぶん銀座も変わったけど。
 しかし、新しくなったことと新鮮に見えることとは違う。カメラをもってシャッターチャンスをねらっていると、対象の新旧に拘らず、これまで目に入っていなかったものにも目がとまるようになる。風景の見え方が変わってくるから不思議だ。「眼の野生」がなせる技か。
120207-3.jpg 個展をやっていた画廊はメチャクチャ古そうなアナログなビル(エレベーターは二重扉で、何と手動で蛇腹式に開閉する!)のなかにあり、作品と同時にこの建物を見るのがなんともたのしい(ここでは触れないが、個展のバリのバナナ紙をつかった「抽象画」も上空から撮影した古代都市のように見えてくる)。このビルに来るのは二度目だったが、ぼくはまだまだ他所から来た闖入者みたいな感じがして、遠慮がちに2,3回シャッターをきっただけで失礼したのだけど(これはその一枚)。許されるなら、この建物がなくなる前にまた来て探検したい(「ちゃんと」写真に撮りたい)ものだ。
 ところで、文脈から少しはずれるけど、ちょっと前にNHKの「日曜美術館」で木村伊兵衛がパリで撮ったストリート・スナップの写真作品を取り上げていた。なんというか、じつにしみじみといいんだな〜、これが。このよさは、昨今の女性写真ブームと関連しているような気がしなくもない。もちろんいい意味でだけど。
 ぼくの周りでも、女性だけではないが、じつは今ちょっとしたカメラ・ブームがおこっている。仕事の性格を考慮したとしても、専門でもないのに、写真やカメラの話題が最近とても多い(じっさい、最近デジカメを同時に2台買ったという女性もいる)。いっしょに仕事している人たちと、ひとつのコミュニケーション・ツール(二重の意味で)になっている観もある。
 デジカメのすぐれた点は、センスさえあれば誰でも手軽によいスナップが撮れることにあるだろう(写真、とくにスナップはプロとアマチュアの技術的敷居が限りなく低いと思う。シャッターをおせば写ってしまう、そんなある種の無名性が写真の特長でもある。ことにデジカメが主流になってから、それはますます加速している。しかし、やはり、要はセンスの問題)。
 これまでの既得した「現実」にすがりつき維持しようとあがいている男たちに比べると、「もうひとつの現実」に対する好奇心を持ちつづけている女子たちはきわめて健全な気がする。ぼくも多少はそれが(女子たちに煽られたことが)カメラを買う動機のひとつとして作用した点がなくもない、かも。
 写真はいうまでもなく、撮るだけでなく見るものである。見る・見られることを前提としている。しかも、ほとんどの場合、複数の人が一枚の写真を見る。「もうひとつの現実」を共有したいという欲望が写真を撮る・見るという行為を駆動しているんじゃないかと考えたくもなる。共有することで「新しい現実」になると言った方がよいかもしれないが。
 いま読んでいる内田樹と中沢新一の対談集『日本の文脈』のなかに「男の(男で)おばさん」を顕揚する話がでてくるけど、そうだとすると、「カメラ女子」みたいな「女のおじさん」化(つまり本来「もの好き」はおじさんの性分だから)もよきことなのじゃないか、なんて、書いているうちに思えてもくる。「日本の現実」はおしゃべり好きな「男のおばさん」ともの好きな「女のおじさん」たちが組み換えてくれる。そんなことを期待したくもなるのも新しいデジカメの効用だとしたら、これはほんとにお買得な話ではないか。
120207-4.jpg  このカメラ、今週末、取材で行く福島と仙台にもっていく予定。遠いところじゃないけど、ぼくには久しぶり、このカメラにとっては初の「出張」である。小さな旅とはいえ、ともに震災後はじめての東北となる。
 どんな「もの」と出会うことになるのだろう。


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コメント

“デジカメと「もの」” への3件のフィードバック

  1. waheiのアバター

    おお! x10じゃないですか! いいカメラ買いましたね。
    僕もコンデジ(Powershot G9)が壊れて、次のものを探しているのですが、欲しいのが高くて、値下がりを待っているところです。
    やっぱり、フィルムカメラ時代から撮っているものにしてみると、ファインダーというのは撮影の整理にかなり影響が起きる気がします。
    旅にも行きたいし、いまはじっと辛抱、です。

  2. waheiのアバター
    wahei

    整理→生理でした。打ち間違えです。投稿前に確認しないとだめですね、すみません。

  3. Iz Ishiiのアバター
    Iz Ishii

    やっぱりwaheiさんなら機種がすぐわかるんですね。waheiさんの写真日記風ブログ「ふだんの冒険」にときどき「おっ!」という写真が出てて(とくに、さりげない風景写真がよい!)、眼をたのしませてもらっています。そんなwaheiさんから「いいカメラ」といわれると、うれしくなります。
    ファインダー、そうなんですよね。長いフィルムカメラ時代からの「習慣」なのか、液晶画面を見ながら撮るというのが、どうも身体感覚的に馴染めない。前のカメラも、自然光じゃないけどファインダー付きでした。
    液晶画面は、再生してすぐに撮影の結果が見れるのは簡便でいいんだけどね。でも、その分、一回限り、「結果」の偶然性に賭けて一瞬を切り取ることの緊張感というか切迫感みたいなものが希薄になってしまったように思えます。
    まあ、善し悪しの両面ですね。何かを得ることは、何かを失うこと(逆も真)ですから。