『ヒア アフター』映画と夢、そして現実の連続性

相変わらずハイペースなクリント・イーストウッドの新作である。
hereafter0223.jpg新聞でこの映画の広告を目にしたとき、『ヒアアフター(HEREAFTER)』という題名に「ん、これは?」と興味を惹かれたが、そろそろかなと思っていたイーストウッドの新作とわかって、ますますうれしくなった。『チェンジリング』『グラン・トリノ』『インビクタス』と、このところ彼の作品は期待通りな部分と予想を裏切る部分が絶妙のバランスで同居するように作られてきたが、今度はどんな作品なのか……。毎回、見たときの「感動」の多寡は異なるけど、映画であることの「筋」とでもいえばよいか、どの作品も映画を見ること、その体験自体の楽しさが淡々と担保されていて、どうころんでも「損」をすることはない。いま、そんな期待を抱かせてくれる現代のアメリカ監督は、タランティーノとイーストウッドくらいなのではないか。
で、今回の『ヒア アフター』である(写真は上映プログラムの表紙)。映画がはじまって間もなくのイーストウッドらしからぬ津波のシーンには驚いたが、それだけにちょっと物足りなさの残る終り方に、どう反応していいか戸惑ってしまう、というのが大方の観客の感想だろう。私自身そうだったが、しかし、これはある意味、イーストウッドの近年の特徴ではないかとも思った。映画のなかで物語(映画のなかの時間)が完結しないのだ。つまり映画のなかで生じた問題が、徐々にクライマックスへと向かい、それを経て観客は大いなる解決のカタルシスに身を浸す、という娯楽大作映画にありがちなドラマ構成にあえて抗う、というかまったくそんなことを気にせず、あとは観客のみなさんの「人生」につながっていることですよと、「答え」を示すことなく未完のまま放置し、観客それぞれの複数の見方、多様な考えに委ねてしまう。ことに、この新作はそうだった。
では、たとえば、私の見方は。「ヒア アフター」つまり来世、死後を示すこのタイトルどおりにあっち(彼岸)とこっち(此岸)の連続性を経験的に信じる3人の人間の社会からの疎外感を(と、それゆえの不思議な連帯感を)ひとつの主題にしていると思えるこの映画は、同時に映画であるゆえの現実からの疎外に耐えながら、映画と現実とのつながりを見出そうとする作品のようにも見れた。つまり、あっち(映画、幼年期)とこっち(現実、大人の社会)の連続性を「愛」が立証しようとする物語。その愛を成就すべく機能するのは、双子の片割れである少年の「天使」なのである。あっちの世界の存在が、こっちの世界での生を豊かにするのである。
映画の終わりが、観客の「人生」につながっていると書いた。さらに言えば、その映画が人生とつながるのはその人間の見る夢を通じてである。個人の夢は集合的無意識とでも言っておくしかない闇を通じて夢として夢見られる。つまり、映画は集合的な意識を活性化することで個人の夢と、そしてその夢は現実とつながっていくのである。その夢と現実との往還こそが芸術表現上の重要な「経験」となるものであり、イーストウッドはそのことに極めて自覚的であるような気がする。私で言えば、この映画の津波と先日の東南アジアでの地震の夢(前回のブログの「夢見の箱」参照。そういえば、あの箱自体がひとつの「映画館」でもあった)、主人公の霊能者(マット・デイモン)とバリで出会った女性呪医(バリアン)との遠い記憶に、映画と夢の連続性を感じたりする。
ところで、この作品はスティーブン・スピルバーグが「制作総指揮」に名を連ねている。眩しい光が背後から人影を浮かび上がらせる「あっち」の世界が、スピルバーグが監督した『未知との遭遇』のマザーシップから行方不明になった人々が降りてくるシーンと二重写しに見えたのは私だけではないだろう。しかし、『未知との遭遇』のリチャード・ドレイファスが母船に乗り込んで「行きっぱなし」になった(いうまでもなく、死の世界への移行、母体への退行の暗示)のとは反対に、『ヒア アフター』の主人公3人は「こっち」の世界で新しい人生をはじめようとするのである。
世界と映画の「破局」のあと、そのデカダンスを私たちはどう生きればよいのか。新作の度に一種意外な展開を見せるイーストウッドの作品に共通するのは、老練な映画作家のそんな視点であり、視差(示唆)ではなかろうか。


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コメント

“『ヒア アフター』映画と夢、そして現実の連続性” への2件のフィードバック

  1. 庵頓亭主人のアバター
    庵頓亭主人

    石井さま
    近頃ほんとんど身銭を切って映画を観に行くことが無くなっているので、イーストウッドの新作や今度のアカデミー賞受賞作「英国王のスピーチ」などについては
    私は何かを語る資格は全くありません、、、、
    でもU-Tube から流れ出る 昨今の北アフリカ/中東の「ジャスミン革命」
    の様々な動画を眼にすると、映画を超えた?映像のチカラを実感します。
    混沌とした(超)リアルな現実世界の映像を前にして、今後の映画は一体どのよう
    な方向に進むのでしょうか???
    <余りにとりとめのない漠然としたコメントを大目に見てください、、、、、>
    庵頓

  2. 石井のアバター
    石井

    「大目に見る」どころか、現代的かつとても先鋭的な問題意識だと思います。少なくとも意識の一部では、そんなことを考えながら、映画を見るということをつづけているのだと思います。現実とは、幻想とは、あるいは超現実とは何か。映画はそんな問いを、つねに内包しているものなのでしょう。「映画は」といわず、「チカラのある映像は」といってもよいでしょう。偉そうな言い方ですが。