「本のかたち 09」展を読み、キムチを食す悦楽

埼玉と静岡で「本」を主題とした現代美術の展覧会が開かれている。12月2日付けの朝日新聞(夕刊)に「現代美術で見る、感じる『本』」という記事がでていたのでご存知の方も多いだろう。なぜか、いま「本」なのである。
私はきのう、この二つの展覧会ではなく、「もうひとつの」本をめぐる展示を見に、練馬区江古田の小さなギャラリー「水・土・木(みずとき、と読む)」に足を運んでみた。このギャラリーのオーナーである陶芸作家の川村紗智子さんは知人でもあり、ご案内をいただいておきながら、5日のオープニングには行けなかったからという事情もあったわけだが。
古今東西、「本」という主題、あるいはモチーフによる美術作品は数多く作られつづけていて、本というモノが好きで、また長年、書籍や雑誌の編集やデザインに携わっている職業柄、いつも興味はもちつづけてきた。しかし、なぜ”それ”が「好き」なのかはよくわからないし、本を「読む」ということ自体が人間にとって、どんな意味や価値のある営為なのか、わかりやすい説明で理解するのは意外にむずかしいことなのではなかろうか。
仮に、情報や知識を仕入れるためのメディアだからといったって、じゃ情報や知識を本というメディアで得るとはどういうことなのか。口頭にせよ何にせよ、他のメディアで得ることと何が違うのか。また、それが説明できるとしても、なぜ本が好き(あるいは嫌い)なのかは、そういう仕方で「理解すること」を超えたなにものかなのではなかろうか。本の特性(「本」性)というか、本というものの魅力は、ちょっと別のところにあるような気がする。
081208-1.jpg091209-2.jpgということで(どういうことで?)、「坂の上の雲」ならぬ坂の上の家「ギャラリー水・土・木」の『本のかたち 09「アーティストブック1」』を見に行ってみたわけだ。まず全体として、先に「小さな」ギャラリーといったが、アーティスト8人によるこのグループ展は、じつに多様・多彩でありながら個々の作品のもつ強度も高く、小さいからこその内に溜め込んだある種の「力(エナジー)」を感じさせる好企画だったように思う(ちなみに8人とは配島庸二、菱刈俊作、木下良輔、栃木美保、服部俊弘、瀧本祐子、上田恭子、川村紗智子の8名である)。
この「普通の」住居を改装した小さな「家」であるギャラリーが、一冊の絵本として開かれており、そのなかにまた、さまざまな「宇宙」を秘めた本が並んでいる。ひとつの「入れ子」構造をもつ宇宙模型(どんな大きなものでも、模型は”それ”を小さくしたものであるか、その逆であることに面白さがある)として、小さな町の小さな本=家として読まれることを誘っている……。
なかでも、やはりと言うか何というか、私としてはいまいった「本を読む」とはどういうことかというメタな問題意識(というほどではないが)を追求しているような作品に惹かれるものが多かった。
091209-3.jpgいまここで個々の作品に言及する余裕はないが、これもやはりというか、配島庸二の「折畳本」(佐理試論)の2作は、本というモノの持つ空間性と時間性をまるごと折り(織り)込んだ素晴らしい作品であった。これもすぐに一言で言えないが(だからこそ!なのだが)、本を書く(つくる)、あるいは本を読む(見る)という行為をソバージュ(未開、野生)なまでの美しさで「かたち」にしたもので、私にとってはひとつの衝撃であり驚きだった。
たまたま少し前に、仕事の関係で、アジアの古文書(パラバイ、ロンタルなどの伝統文書)の形態を調べてみていた矢先だったということもあろう。一種、なにかがシンクロした感があった。私は美術作品を「買う」という発想に縁遠い者だが(お金ないし)、その官能的な「美」に反応し、珍しく、あっ、これは欲しい、そばにおいてずっと見ていたい(読んでいたい)と思ったほどだ。
それはさておき、それにしても「!」である。
あえていえば、ハード/ソフトウェアとしての本(本というコンセプト)が、かつてこれほど生(ブリュット)なかたちで、己の姿をさらしたことがあっただろうか。
この作品は30年ほども前に作られたものだそうだが、同時に展示されていた炭書の新作「ジードの日記」などに見るように、配島さんのここ数年の炭書のセリー(系列)を知る者にとって、その両者のあるようでじつはない「絶対の距離」を測ることで、本という「知」のありようの「起源」あるいは「消滅にむけた未来」に変わらぬアンビバレンツな恋情を抱いていることにガクゼンと感動したのだった……。

きのう会場に配島夫妻と「スクラップ・ワンダーランド」の池田忠利さん夫妻が、これもたまたまいらしていて、帰りがけに江古田駅そばの「済州(チェジュ)」という店でビールを飲み、韓国料理を食べながら歓談したことも忘れずに記しておきたい。じっさい済州島で十年ほど「修行」したというソウル生まれの女主人のつくる焼き肉やチヂミなどなど、とくにキムチがことのほか美味で、こんどみなでホントの済州島にいって食べよう、月島で「もんじゃ」もいいねなどと、あまりゲージツに関係のない(?)話で盛り上がり、私にとっても久しぶりに味気ない日常を忘れた楽しい一時であった。
……とか言いながら、白菜をまるごとつかったキムチで「食べられる本」がつくれないかな〜などと帰りの電車にゆられ心地よくウトウト夢見ていたら、気づいたときはすでに降りる駅を二駅ほど過ぎていたのでした。おしまい。


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コメント

“「本のかたち 09」展を読み、キムチを食す悦楽” への2件のフィードバック

  1. naohnaohのアバター
    naohnaoh

    私は「水・土・木」に9日に伺いました。
    「ジード炭書」は、はいじまさんの一連の作品の最終章かなと思いました。
    「佐理試論」はすごいものでしたね。文字に思い入れのあるはいじまさんが敢えてあのような形態の作品を制作された30年前の感性に驚きました。
    この作品展の印象をMIXIに書いたら、翌日仲間がふらりと訪れてくれたそうです。

  2. 石井のアバター
    石井

    やはり! そうですよね!!
    はいじまさんもnaohnaohさんにもお会いしたいな〜とおっしゃっていました。